↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
45/69

『三度目の雨』

『三度目の雨』


短編小説|約3,000字|テーマ:認知バイアス「小数の法則」


 雨が降るたび、母は言った。


「ほらね。やっぱり、あの子は雨を連れてくる」


 その言葉を聞くたびに、私は胸の奥が冷たくなった。


 母の言う「あの子」とは、私の娘、美雨のことだった。


 美しい雨と書いて、美雨。


 私がつけた名前だ。


 けれど、母はその名前を嫌っていた。


「雨なんて名前につけるから、こんなことになるのよ」


「お母さん、いい加減にして」


「だって、事実じゃない。あの子の大事な日は、必ず雨が降るんだから」


 母の声は、いつも妙な確信に満ちていた。


 まるで世界の秘密を、自分だけが知っているかのように。


     *


 美雨が七歳になった春。


 小学校の入学式は、朝から土砂降りだった。


 校門の桜は雨に打たれ、薄紅色の花びらが水たまりに浮かんでいた。


「ママ、靴が濡れちゃった」


 美雨は新品の赤いランドセルを背負い、悲しそうに足元を見つめた。


「大丈夫。教室に行けば乾くよ」


「でも、晴れてほしかったな」


「そうだね」


 私は娘の小さな手を握った。


 そのとき、隣にいた母がつぶやいた。


「やっぱりね」


「何が?」


「この子のお宮参りも雨だった。七五三も雨。今日も雨。三回続けば偶然じゃないわ」


「三回だけでしょう?」


「三回も、よ」


 母は傘を持ち直し、空をにらんだ。


「この子、雨女なのよ」


 美雨の指が、私の手の中でぴくりと動いた。


「……雨女って、なあに?」


 母は笑った。


「大事な日に雨を降らせちゃう人のことよ」


「私が、降らせてるの?」


「そういうことになるわね」


「お母さん!」


 思わず声を荒らげた。


 しかし、美雨はもう何も言わなかった。


 ただ、灰色の空を見上げていた。


 まるで自分が何か悪いことをしたかのように。


     *


 それから一年。


 美雨は遠足の前日になると、決まって窓の外を見つめるようになった。


「ママ、明日、雨降るかな」


「天気予報は晴れだよ」


「でも、私が行くから……」


 私は包丁を置いた。


 台所には、煮込み途中のカレーの香りが漂っていた。


「美雨が行くと、どうなるの?」


「雨になるかもしれない」


「どうして?」


「だって、おばあちゃんが言ってたもん」


 美雨はうつむいた。


「私、遠足に行かないほうがいいのかな」


 胸が締めつけられた。


「そんなこと、絶対にないよ」


「でも、みんなが楽しみにしてるのに、雨が降ったらかわいそう」


「美雨のせいじゃない」


「本当?」


「本当よ」


 私は娘を抱きしめた。


 細い肩が、かすかに震えていた。


 けれど、翌朝。


 遠足は雨で中止になった。


 母から電話がかかってきた。


「ほら、やっぱり」


 その一言に、私は初めて電話を切った。


     *


 転機が訪れたのは、秋の運動会だった。


 美雨は前の晩から、何度も天気予報を確認していた。


「降水確率、二十パーセントだって」


「うん。晴れる可能性のほうがずっと高いね」


「でも、二十パーセントあるんだよね」


「そうだけど」


「私がいるから、その二十パーセントになるかもしれない」


 私は返す言葉を失った。


 七歳の子どもが、空の責任を背負っている。


 その事実が、たまらなく悲しかった。


 運動会当日。


 空は青く、白い雲がゆっくり流れていた。


 校庭には万国旗が揺れ、焼きたてのパンの香りが近くの店から漂ってきた。


「晴れたね!」


 私は笑った。


 けれど、美雨は笑わなかった。


「……まだ、わからないよ」


 午前十時。


 徒競走が始まった。


 美雨は小さな拳を握りしめ、一生懸命走った。


 四人中、三位。


 それでも私は、夢中で拍手した。


「美雨! 頑張ったね!」


 娘がようやく笑った。


 その瞬間だった。


 ぽつり。


 私の頬に冷たいものが落ちた。


 ぽつり、ぽつり。


 青空の端から、黒い雲が広がってきた。


「雨だ!」


「急いでテントに!」


 校庭が騒がしくなった。


 美雨の笑顔が消えた。


「……ごめんなさい」


 私は耳を疑った。


「え?」


「私が走ったから……」


 娘の目から涙があふれた。


「私が走ったから、雨が降ったんだ!」


 その声は、周囲のざわめきにかき消されそうなほど小さかった。


 私は娘を強く抱きしめた。


「違う! 絶対に違う!」


 けれど、美雨は泣き続けた。


「だって、また雨だもん!」


     *


 その夜、私は母の家を訪ねた。


 玄関には、濡れた傘が立てかけられていた。


「どうしたの、こんな時間に」


「お母さん、もう美雨に雨女なんて言わないで」


「またその話?」


「美雨が、自分のせいで雨が降ると思ってるの」


「子どもなんだから、そのうち忘れるわよ」


「忘れないよ!」


 自分でも驚くほど、大きな声が出た。


「遠足に行かないほうがいいって言ったの。運動会で雨が降ったとき、自分が走ったからだって泣いたの!」


 母は口を閉じた。


 私はバッグから一冊のノートを取り出した。


「これ、見て」


「何?」


「美雨が生まれてからの、行事の日の天気」


 私はページを開いた。


「お宮参り、雨。七五三、雨。入学式、雨。遠足、雨。運動会、雨」


「ほら。全部雨じゃない」


「違う。これはお母さんが覚えていた五回」


 次のページを開いた。


「一歳の誕生日、晴れ。二歳も晴れ。三歳は曇り。四歳は晴れ。五歳も晴れ。六歳は曇り。七歳は晴れ」


 母の眉が動いた。


「それから、保育園の発表会は三回とも晴れ。卒園式も晴れ。家族旅行は六回のうち四回が晴れ」


「でも、入学式は雨だったじゃない」


「そう。雨の日もあった。でも、晴れの日もたくさんあった」


 母は腕を組んだ。


「だから何なの?」


「お母さんは、雨だった数回だけを見て、美雨は雨女だって決めつけたの」


「五回も続いたのよ」


「五回って、多い?」


「多いでしょう」


「じゃあ、コインを五回投げて、全部表だったら、そのコインは必ず表が出るコインなの?」


 母は黙った。


「五回だけじゃ、わからないでしょう?」


「……それはそうだけど」


「少ない出来事だけで、何かの法則があるって信じてしまう。『小数の法則』っていう認知バイアスなんだって」


 私はノートを閉じた。


「人はね、少ない例でも、そこに規則があると思ってしまうの。しかも、一度信じたら、それに合う出来事ばかり覚えてしまう」


 時計の針が、かちりと鳴った。


 母はしばらく黙っていた。


 そして、ぽつりと言った。


「……でも、本当に雨が多い気がしたのよ」


「うん。そう感じたんだと思う」


「私、嘘をついたつもりはないの」


「わかってる」


 私は母を見つめた。


「でもね、お母さん。間違った思い込みでも、人を傷つけることがあるんだよ」


 母の目が揺れた。


 やがて、細い声がこぼれた。


「……美雨、そんなに気にしてたの?」


「うん」


 母は両手で顔を覆った。


「私、あの子に何てことを……」


     *


 翌週の日曜日。


 母は美雨を公園に誘った。


 秋晴れだった。


 イチョウの葉が黄金色に輝き、風が吹くたび、光の粒のように舞い落ちた。


「美雨ちゃん」


「なあに、おばあちゃん」


「今日は、おばあちゃん、謝りたいことがあるの」


 美雨は不思議そうに首をかしげた。


「何?」


「雨女なんて言って、ごめんね」


 美雨の表情がこわばった。


「でも、私、本当に雨を降らせちゃうよ」


「ううん。違うの」


 母はしゃがみ、娘と目を合わせた。


「おばあちゃんが間違ってたの。雨の日ばかり覚えていて、晴れの日を忘れてた」


「……本当?」


「本当よ」


「じゃあ、私が遠足に行っても、雨にならない?」


「あなたが行くかどうかで、お天気は変わらないわ」


 美雨はしばらく考えていた。


 そして、恐る恐る尋ねた。


「じゃあ……雨が降っても、私のせいじゃない?」


 母の目から涙が落ちた。


「そうよ。絶対に、あなたのせいじゃない」


 美雨は小さく息を吐いた。


 それから、母の首に腕を回した。


「よかった……」


 その声は、風に溶けて消えそうだった。


 私は少し離れたベンチから、二人を見ていた。


 胸の奥に、温かいものが広がった。


     *


 それから数か月後。


 美雨の八歳の誕生日。


 窓の外では、雨が降っていた。


 ケーキには八本のろうそく。


 部屋いっぱいに、甘いイチゴの香りが漂っていた。


「また雨ね」


 母がつぶやいた。


 私は一瞬、身構えた。


 けれど、母は続けた。


「でも、今日は素敵な日ね」


 美雨が笑った。


「うん!」


「雨なのに、嬉しいの?」


「だって、雨の日でも、お誕生日は楽しいもん!」


 娘は窓に近づいた。


 街灯の光を受けて、雨粒が銀色に輝いている。


「ねえ、ママ」


「なあに?」


「雨って、悪いことじゃないよね?」


「もちろん」


「じゃあ、私の名前、いい名前だね」


 私は笑った。


「世界で一番、素敵な名前よ」


 美雨は嬉しそうに目を細めた。


 そして、窓の向こうに手を振った。


「雨さん、今日は来てくれてありがとう!」


 母が笑い、私も笑った。


 窓をたたく雨音は、まるで優しい拍手のようだった。


 私は思った。


 人は、ほんの数回の出来事から、世界の法則を見つけたつもりになる。


 そして、その小さな思い込みが、誰かの世界を狭くしてしまうことがある。


 けれど、思い込みを手放せば、同じ景色も違って見える。


 雨は、誰かの罪ではない。


 晴れは、誰かへの褒美でもない。


 ただ空が、空の都合で表情を変えているだけなのだ。


「ママ、ろうそく消していい?」


「もちろん!」


 美雨は大きく息を吸った。


「せーの!」


 八本の炎が、一斉に消えた。


 暗くなった部屋に、笑い声が弾けた。


 外では、雨が降り続いていた。


 けれど、もう誰も、その雨に意味を押しつけなかった。


 ただ、八歳になった女の子の幸せを、家族みんなで祝っていた。


 それだけで、十分だった。


物語に込めた認知バイアス


「小数の法則」とは、少数の観察結果だけで、全体にも同じ傾向や規則性があると判断してしまう認知バイアスです。


この物語では、祖母が数回の雨天を根拠に「美雨は雨女だ」と決めつけています。さらに、その思い込みに合う出来事ばかり記憶する「確証バイアス」も重なっています。


物語の核心は、人は偶然を法則と勘違いするだけでなく、その勘違いによって他人の人生まで変えてしまうことがある、という点です。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。