小数の法則
夕暮れ時のカフェの窓ガラスは、秋の斜光を反射して琥珀色に染まっていた。
通りを急ぐ勤め人たちの影が細長く伸びては、舗道へと溶けて消えていく。
ガラステーブルを挟んで、蓮司は背筋をぴんと伸ばし、まるで新興宗教の開祖のような熱っぽい眼差しで身を乗り出していた。額にはうっすらと汗が浮き、手元のホットコーヒーはすっかり冷めきって油膜が張っている。
「いいか、修平。これは偶然なんかじゃない。時代のうねりそのものなんだよ」
テーブルの向かい側で、修平はアイスコーヒーのストローを指先で弄びながら、小さく息を吐いた。
氷がカラリと涼しげな音を立てる。それがかえって、蓮司の異様な熱気を際立たせていた。
「またその話か、蓮司。お前が会社を辞めるって言い出した時も驚いたが、まさか本気で退職金の半分を突っ込む気じゃないだろうな」
「本気も本気、命懸けさ!」
蓮司は鼻息荒く、使い古された革の手帳を開いて見せた。ページには万年筆の青いインクで、ぎっしりと数字と矢印が書き込まれている。
「よく見ろよ。俺はこの一ヶ月、徹底的に検証したんだ。この『グラン・ネクサス』っていう新興のAIトレーディングファームだ。俺がテスト投資を始めてから、第一週プラス十五パーセント。第二週プラス十二パーセント。第三週プラス十八パーセント。そして先週、なんと二十一パーセントだぞ? 四戦全勝、一度の負けもなしだ!」
「四回、だろ」
修平の冷めた声に、蓮司は苛立ちを隠そうともせず眉を吊り上げた。
「『四回も』だ! 確率論を思い出してみろよ。コイントスで四回連続表が出るのだって、十六分の一だぞ? しかもこれは丁半博打じゃない。彼らが誇る最新鋭のアルゴリズムが、市場の歪みを完璧に捉えている証拠なんだ。担当の男も言っていた。『我々の予測モデルは、もはや人知を超えたフェーズに到達しています』ってな」
外のケヤキ並木から、乾いた風に吹かれた枯れ葉が一枚、ひらひらと舞い落ちてガラスに当たった。カツン、と乾いた音が二人の間に落ちる。
修平は組んでいた腕をほどき、身を寄せた。
「蓮司、落ち着いて聞け。お前が今囚われているのは、典型的な『小数の法則』だ」
「小数の……何だって?」
「大数の法則なら知ってるだろう。試行回数を何万回、何百万回と重ねることで、ようやく確率は理論上の数値――たとえば二分の一に収束していく。だが人間は、たった数回、数十回程度の小さなサンプル数で起きた極端な結果を、あたかも全体の本質や絶対の法則だと錯覚してしまうんだ。四回勝ったからといって、五回目も勝てる保証なんてどこにもない」
蓮司は鼻で笑った。
「机上の空論だな、修平。お前は昔からそうだ。安全な場所から理屈をこね回すばかりで、目の前のチャンスに手を伸ばそうとしない。臆病者の理論武装だよ」
「臆病なんじゃない。慎重なんだ」
「慎重と無能は紙一重だぞ!」
蓮司の声が少し大きくなり、隣の席で読書をしていた老婦人が怪訝そうに視線を向けた。蓮司は気まずそうに咳払いをし、声を潜めたが、瞳の奥の狂気じみた光は消えなかった。
「なぁ修平、俺の従兄弟の一馬を知ってるだろ? あいつ、去年小さなウェブマーケティング会社を立ち上げたんだ。最初のクライアント三社が、立て続けに大手と業務提携して大成功した。三社連続だぞ! あいつは言ってたよ。『直感で選んだ三社が全部当たった。俺には見る目がある、この業界の勝率が身体で分かった』ってな。それで見ろよ、今じゃ都心の一等地にオフィスを構えて、外車を乗り回してる。たった三回の成功が、あいつの人生を変えたんだ」
修平は静かに首を振った。
「その一馬さんの話だって同じだよ。市場がたまたま上向きだったのか、運が味方しただけかもしれない。もしその後に三十社と契約して、二十七社が倒産していたらどうなる? 最初の三連勝だけで『自分には才能がある』『この方法は絶対に成功する』と思い込むこと自体が、まさに認知の罠なんだ」
「運なわけがあるか! 結果を出した人間には、結果を出すだけの理由があるんだよ。お前はそうやって、何でもかんでも『偶然』で片付けようとする。じゃあ聞くが、俺が選んだこのファームの四連勝も、全部ただのサイコロの出目だって言うのか? 現に俺の口座には、増えた金が数字として印字されてるんだぞ!」
蓮司の手が、カタカタと小さく震えていた。
その震えは武者震いなのか、それとも心のどこか深層にある恐怖を押し殺すためのものなのか。修平には痛いほど分かっていた。蓮司は長年勤めた会社で派閥争いに敗れ、早期退職を余儀なくされたのだ。失われた自尊心、焦燥、未来への不安――それらを一気に覆し、「自分はまだ選ばれた人間なのだ」と証明したいという渇望が、彼を盲目にさせている。
「蓮司。コインを四回投げて四回連続で表が出る確率は、約六パーセントだ。決して天文学的な数字じゃない。百人がやれば、六人くらいは平気で四連勝する。その六人が『俺にはコインの表を出す特別な技術がある』と言い出したら、お前は信じるのか?」
「それは……」
蓮司の言葉が詰まった。だが、次の瞬間には頑なな表情を取り戻した。
「コインとは違う。相手は実績のあるファンドマネージャーだ」
「そのファンドだって、設立されてから何年経ってる? 過去に何百回、何千回のトレードを公開検証されたデータがあるのか? たった数ヶ月、あるいはここ数週間の都合のいい切り取り(サンプル)を見せられているだけじゃないのか?」
窓の外では、夕闇が急速に濃くなっていた。街灯が一つ、また一つと灯り、ガラスに映る蓮司の顔を青白く照らし出す。
「もういい」
蓮司は手帳をパチンと音を立てて閉じた。
「お前に相談した俺が馬鹿だったよ。背中を押してほしかっただけなのに、冷や水を浴びせられるとは思わなかった」
「蓮司、待てよ。お前を傷つけたいわけじゃないんだ。ただ、虎の子の退職金なんだろ。もしそれが――」
「失うわけがない!」
蓮司は椅子を引いて立ち上がった。その表情には、友人を拒絶する冷たい壁が築かれていた。
「俺は自分の直感と、現実に手にした四回の勝利を信じる。来月の今頃、お前を同じ店に呼んで、特上のコース料理でも奢ってやるよ。その時、どっちが正しかったか思い知るがいいさ」
千円札を乱暴にテーブルへ叩きつけると、蓮司はコートの裾を翻して店を出て行った。
ドアが開くたびに、冷たい晩秋の夜風が店内に吹き込み、修平の頬を撫でた。
カランコロンと鳴るドアベルの余韻が、やけに悲しく響いていた。
*
それから三週間が過ぎた。
暦は十一月に入り、街を歩く人々は厚手のコートに身を包み、マフラーを巻き始めていた。木枯らしが吹き抜けるたび、街路樹は急速にその葉を落とし、冬の訪れを告げていた。
修平のスマートフォンが震えたのは、凍えるような雨が降る火曜日の夜だった。
画面に表示された『蓮司』の文字を見て、修平の胸に嫌な予感が走った。
通話ボタンをスワイプし、耳に当てる。
「……もしもし、蓮司か?」
受話器の向こうからは、かすかな雑音と、浅く不規則な呼吸の音だけが聞こえてきた。雨の音、車の走行音。どこか屋外にいるようだった。
「……修平」
掠れた、今にも消え入りそうな声だった。あの日のカフェで見せた異様な熱気は、跡形もなく消え失せていた。
「どうした、どこにいるんだ?」
「……飛んだよ」
「え?」
「全部、消えた。ファームのサイトも、アプリも、担当者の電話も……昨日から一切繋がらないんだ。警察に行ったら、同じような被害者が何十人も詰めかけていてさ……」
言葉の合間に、冷たい雨を吸い込んだような嗚咽が漏れた。
「最初の四回は、ただの撒き餌だったんだ。少額を預けさせて、わざと勝たせて、信用させて……最後に全額を振り込ませたところで、ドロンだ。五回目のトレードなんて、最初から存在しなかったんだよ」
修平は言葉を失い、スマートフォンの角を強く握りしめた。指先が白くなる。
慰めの言葉を探そうとしても、喉の奥に小石が詰まったように何も出てこない。
「なぁ、修平……」
蓮司の声が震えていた。
「俺、あんなに自信満々だったのにな。四回も連続で当たったんだから、絶対だと思っちゃったんだ。たった四回……たった四回の数字に、俺の人生の全部を賭けちまった……。お前が言ってた通りだったよ。俺が見ていたのは世界の真実なんかじゃない。ただの、ちっぽけな、都合のいい幻だったんだな……」
雨の音が、受話器越しにザアザアと降りしきる。
それはすべてを冷酷に洗い流すかのように、ただ暗闇の中で響いていた。
「蓮司、今どこだ」
修平は立ち上がり、上着を掴んだ。
「そこを動くな。今すぐ行く。金は……金は失くしたかもしれないが、お前の命まで取られたわけじゃない。話を聞くから、そこにいろ」
電話の向こうで、蓮司が子供のように声を上げて泣き崩れるのが聞こえた。
修平は部屋を飛び出し、夜の冷たい雨の中へと駆け出していった。街灯の光が濡れたアスファルトに反射して、無数の破片のように歪んで散らばっていた。それはまるで、人間が信じ込み、そして脆くも砕け散った小さな確率の破片そのもののようだった。




