玉には記憶がない
真夜中の地下カジノは、まるで呼吸を止めた深海のような濃密な静寂と、熱を帯びた欲望の匂いに満ちていた。空調の微かな唸り、重たいベルベットの絨毯を踏む足音、そしてカチャリと触れ合うセラミック製チップの無機質な乾いた音。分厚い防音扉の向こうにあるはずの雨音は、ここには一切届かない。時間が死んだ空間だった。
円形のルーレットテーブルの中心で、象牙の小さな白い玉が銀色の縁を軽やかに弾んでいる。
「……また、黒だ」
テーブルにへばりつくように身を乗り出していた男――慎吾は、乾ききった唇から掠れた息を吐き出した。額には脂汗が滲み、何十時間も瞬きを忘れていたかのように充血した両目が、落ちたばかりの玉を睨みつけている。数字は『二十六』、色は漆黒。
「黒、二十六番。配当を受け取られるお客様はいらっしゃいますか」
ディーラーの青年の声は、氷のように冷徹で、抑揚がなかった。整った身なりに、わずかな感情の揺らぎすら見せない灰色の瞳。彼は長いアームで負けチップを淡々と回収していく。その無駄のない機械的な手つきが、慎吾の焦燥をいや増した。
「おい、冗談だろ……これで七回連続だぞ。なぁ、おかしいだろ!?」
慎吾は隣に立つ長年の友人、圭介の腕を掴んだ。骨張った指が圭介の上着に食い込む。圭介はうんざりした顔で煙草の煙を吐き出し、慎吾の手を乱暴に振り払った。
「声がでけぇよ、慎吾。おかしくも何ともねぇ。ただ黒が続いただけだ」
「ただ続いただけなわけがあるか! 七回だぞ七回! 赤と黒が出る確率は半々なんだよ! コインの裏表と同じだ! それが七回も黒に偏るなんて、天文学的な確率だろうが!」
「だから何だってんだよ。ルーレットに記憶なんかねぇよ。前が黒だろうが白だろうが、次は次だ」
「違う、お前は確率ってもんを分かってない!」
慎吾の瞳の奥で、狂気じみた光がギラリと爆ぜた。喉がからからに渇き、心臓が肋骨を内側から激しく乱打している。指先が微かに痙攣していた。
「確率は収束するんだよ。世界は均衡を保とうとするんだ。歪んだゴムは、引っ張られれば引っ張られるほど、強く元の位置に戻ろうとする。七回も黒が出たんだ。それだけ『赤』のエネルギーが溜まってる。次は絶対に、絶対に赤だ!」
「慎吾、もうやめろ」
圭介の声が低くなった。いつもの軽口ではなく、真底から友を哀れむような、暗い響きがあった。
「お前、今いくら負けてると思ってんだ。今月の家賃も、妹の手術費用の頭金も、全部そのチップに化けてんだぞ。今残ってるその山が、お前の全財産だろ」
「だからこそだよ!」
慎吾は唾を飛ばして叫んだ。周囲の客が眉をひそめて視線を向けてくるが、今の慎吾にはテーブルの中央にある車輪しか見えていなかった。
「ここで退いたら、ただの負け犬だ。だが、次で取り返せば全部チャラになる。いや、お釣りが来る! 運命が俺に赤を賭けろと叫んでるんだよ!」
「ノーモアベット。……チップをお置きください」
ディーラーが無機質な声で告げる。白い玉が、青年の指先から放たれ、ホイールの内側を逆回転で疾走し始めた。
カチカチカチカチ――と、車輪の爪を掠める鋭い音が空間を支配する。
「赤だ。赤に決まってる!」
慎吾は手元に残っていた五百ドルチップの束――全財産である五十枚を、フェルトの上の『RED』のマスへ叩きつけるように押し出した。乾いた音が響き、赤い長方形のマスが色鮮やかなチップの塔で埋まる。
「慎吾、馬鹿野郎!」
圭介の悲痛な叫びを、玉の回転音が呑み込んでいく。
息ができなかった。慎吾の視界の端が白く霞み、耳の奥で血液が逆流するような轟音が鳴り響く。落ちろ、赤へ落ちろ。赤の溝へ滑り込め。世界よ、歪みを正せ。神よ、確率の帳尻を合わせろ。
カツン、コロン。
玉が跳ねた。金属の仕切りを飛び越え、緑のゼロをかすめ、赤の三十二を飛び出し――
コトン。
小さな、だが致命的な終止符。
「黒、八番」
ディーラーの声が、慎吾の頭蓋骨を直接叩き割った。
「……あ」
口から、情けない空気の塊が漏れた。
黒。またしても、黒。八回連続。
ディーラーのアームが伸び、慎吾の全財産だったチップの山を、まるでゴミ箱に掃き溜めるかのように無造作に手元へ引き寄せていく。さらさらとフェルトを滑るチップの音が、慎吾の魂を削り取っていった。
「嘘だ……嘘だろ……なんでだよ……」
膝から崩れ落ちそうになる慎吾を、圭介が乱暴に抱き留めた。
「ほら見ろ! 言わんこっちゃねぇ! 行くぞ慎吾、ここはもう潮時だ。警察の手入れが入る前に出るぞ!」
「離せよ圭介! おかしい、絶対に仕組まれてる! あいつら、磁石か何か使ってやがるんだ!」
「使ってねぇよ! ただお前が負けたんだ!」
「八回だぞ!? 二分の一が八回連続で外れる確率がどれだけ低いか分かるか!? 二百五十六分の一だぞ! 百分の一以下の奇跡が、なんで今起きるんだよ!」
慎吾はディーラーの胸ぐらを掴もうと身を乗り出したが、屈強なフロアマンが音もなく背後に立ち、その肩を鋼のような握力で押さえつけた。冷たい威圧感に、慎吾の全身からサーッと血の気が引いていく。
「お客様、他のお客様のご迷惑になります。お引き取りを」
低く、脅迫を含んだ声。慎吾は息を呑み、情けなく震える唇を噛み締めた。
圭介がフロアマンに頭を下げながら、慎吾の腕を引いてテーブルから引き剥がす。出口へ向かう重たい足取り。だが、カジノの出口へと続く赤い階段の手前で、慎吾はピタリと足を止めてしまった。
テーブルの方から、また玉の転がる音が聞こえてきたのだ。
「慎吾、前を見ろ。帰るぞ」
「……おい、圭介」
「聞くな。もう金は一銭もねぇんだ」
「待てよ。見ろよ、あの出目を」
慎吾が振り返り、テーブルの頭上に掲げられた電光掲示板を指差した。直近の履歴が表示されている。
――黒、黒、黒、黒、黒、黒、黒、黒、黒。
「九回だ」
慎吾の喉から、掠れた笑いが漏れ出した。ヒッ、ヒヒッ、と引きつった笑い。
「おい見ろよ、九回連続で黒だぞ。五百十二分の一だ。おい、聞いたことあるか? 十回連続で同じ色が出る確率なんて、千二十四分の一……零点一パーセント以下だぞ」
「だから何だってんだよ! もう関係ねぇだろ!」
「関係あるさ! あるに決まってる!」
慎吾は圭介の肩を掴み、狂気と熱情の宿った目で友人の顔を覗き込んだ。その瞳孔は極限まで開き、瞳の底にルーレットの車輪が映り込んでいるようだった。
「圭介、頼む。金を貸してくれ」
「はぁ!? ふざけんな!」
「頼むよ! お前の財布に、まだ十万入ってるだろ! あれを貸してくれ! いや、五万でいい、三万でいいんだ!」
「断るに決まってんだろ! これは俺の生活費だ!」
「倍にして返す! 三倍だ、十倍にして返すから! 考えてみろよ、十回連続で黒が出るわけがないんだよ! 次は絶対に赤なんだ! これは天文学的な確約なんだよ!」
「お前、本当に頭が狂ったのか!?」
圭介は慎吾の手を振りほどき、叫んだ。通路の薄暗がりの中で、友人の顔が怒りと絶望で歪んでいる。
「何回黒が出ようが、次のスピンで赤が出る確率は、いつだって二分の一なんだよ! 玉には過去の記憶なんかねぇ! 車輪にも感情はねぇ! 『そろそろ赤を出してやろう』なんて考えるルーレットがどこにあるんだよ!」
「あるんだよ!」
慎吾は泣き出しそうな声で吠えた。
「世界は公平じゃなきゃいけないんだ! 俺の人生を見ろよ! ずっと負け続けて、ずっと泥水をすすって生きてきた! これ以上、黒が続くわけがない! 俺の人生も、この出目も、帳尻が合わなきゃ嘘だろ!? 神様がそんな不公平を許すはずがないだろうが!」
「それがお前の思い込みなんだよ! ギャンブラーの浅知恵だ!」
「浅知恵じゃない、真理だ!」
慎吾は膝を突き、冷たい絨毯の上に両手をついた。プライドも、羞恥心も、人としての尊厳も、とっくにルーレットの溝に吸い込まれて消えていた。
「頼む、圭介……。頼むよ。これが最後だ。もし赤が出なかったら、俺はお前の言う通りにする。田舎に帰って、死ぬ気で働く。だから……この千載一遇のチャンスを逃させないでくれ……!」
床に頭を擦り付ける慎吾の背中は、小さく震えていた。
圭介は唇を噛み締め、天井を仰いだ。長い溜息が漏れる。
「……本当に、これが最後だな」
慎吾が顔を上げた。涙と脂汗でぐしゃぐしゃになった顔に、卑しいほどの希望がパッと咲く。
「あ、ああ! 約束する、絶対に最後だ!」
圭介は忌々しそうに財布から一握りの紙幣を引き抜いた。十万円。新札の帯が解かれたばかりの、圭介の汗と労働の結晶。
「これを全部赤に賭けろ。そして負けて、目を覚ませ」
「勝つよ。絶対に勝つ!」
慎吾は紙幣を奪い取るように掴むと、這い上がるようにして再びテーブルへと駆け戻った。
テーブルを囲む客たちが、亡霊でも見るような目で慎吾を見つめる。
電光掲示板の履歴には、無慈悲な『黒』の列が連なっていた。九つの黒。漆黒の深淵。だが、慎吾の目にはそれが、次に来たるべき巨大な『赤』の栄光を予告する前奏曲にしか見えなかった。
「チップに換えてくれ! 全部だ!」
十万円分のチップが手元に積まれる。慎吾はそれを両手で抱え込み、躊躇うことなく『RED』のマスへ滑り込ませた。
「赤だ。赤に全額だ!」
ディーラーは眉一つ動かさず、チップを確認した。
「ラストベット。……プレイス・ユア・ベット」
青年の細い指が、象牙の玉をつまみ上げる。
慎吾の心臓が破裂しそうなほど脈打った。全身の毛穴が開き、冷や汗が背中を滝のように流れ落ちる。
玉が放たれた。
カラカラカラ……と、軽快で、残酷な回転音。
圭介が遠巻きに、腕を組んでその光景を見つめている。その目は、処刑台を見守る男の目だった。
(赤だ。赤、赤、赤、赤……!)
慎吾は両手を組み、祈るように額に当てた。爪が皮膚に食い込み、血が滲む。
十回連続の黒など、あり得ない。数学がそれを否定している。確率論がそれを許さない。世界の理が、均衡を求めて赤を引き寄せるはずだ。
玉の勢いが落ちてきた。
カチッ、カチッ、と金属の突起に当たり、跳ね上がる。
赤の九番。黒の二十二番。赤の十八番。
玉は赤と黒の境界を激しく乱舞した。慎吾の呼吸が完全に止まる。
跳ねた玉が、高く宙を舞い――
ひとつのポケットへと、吸い込まれるように落ちた。
カラン。
車輪がゆっくりと回転を続ける。
玉は、溝の中で微動だにせず収まっていた。
「……あ」
慎吾の口から、魂の抜け殻のような声が出た。
ディーラーが、いつもの平坦な声で宣告する。
「黒、十一番」
静寂。
ただ、ルーレットの軸が擦れ合う、微かな摩擦音だけが響いていた。
十回連続の、黒。
ディーラーのアームが、迷いなく慎吾の十万円分のチップを掻き集めていく。一瞬だった。慎吾の人生の最後の拠り所が、跡形もなく消え去ったのは。
「……なんで……」
慎吾はテーブルに手をついた。指先が力なく滑る。
「なんでだよ……十回だぞ……? 十回連続で黒だぞ……? そんなの……あり得ないだろ……」
「お客様」
ディーラーが、チップを片付け終え、静かに慎吾を見つめた。その瞳には嘲笑も同情もなく、ただ鏡のように無機質な光だけが宿っていた。
「玉には、前回の記憶はございません」
青年の唇から放たれた言葉は、何よりも鋭利な刃物となって慎吾の胸に突き刺さった。
「次もまた、赤が出る確率は二分の一。黒が出る確率も、二分の一でございます」
それが、世界の冷徹な真理だった。
人間が勝手に意味を見出し、物語を紡ぎ、均衡を期待したところで、転がる無機質な玉にとって、過去など最初から存在しないのだ。一回ごとの試行は、常に独立し、孤立し、無慈悲にリセットされている。
「う、あ……」
慎吾の膝が折れ、今度こそ完全に床へと崩れ落ちた。
見上げると、電光掲示板には燦然と輝く十個の『黒』のマーク。
圭介が何も言わずに背を向け、カジノの出口へと歩いていくのが見えた。その背中は、二度と振り返ることはなかった。
「次のゲームを始めます」
ディーラーが再び玉を手に取った。
「プレイス・ユア・ベット」
空っぽになった慎吾の頭の奥で、その声だけがどこまでも反響していた。床に這いつくばったまま、慎吾は震える指先で自分の影を見つめる。
十一回目のスピンが始まる。
カチカチカチ……と、無慈悲な音が虚空を刻む。
その音を聞きながら、慎吾の壊れた脳裏に、消えることのない呪いのような思考が、再び醜く首をもたげていた。
(……十回、黒が出たんだ……)
乾いた唇が、無意識に微かに動く。
(……次は、流石に……次こそは、絶対に……赤だ……)
男の瞳の奥で、決して覚めることのない悪夢の光が、再びギラリと点滅していた。




