「次こそ私の番」と言う夫へ。では、百回目の奇跡をお待ちください 「ギャンブラーの誤謬」
「次こそ私の番」と言う夫へ。では、百回目の奇跡をお待ちください
――認知バイアス「ギャンブラーの誤謬」――
「今度こそ、当たるんだ」
夫のレオナルドは、そう言って笑った。
その笑顔を見た瞬間、私は悟った。
この人は、もう私を見ていない。
見ているのは、銀貨が舞い落ちる未来だけなのだ。
窓の外では、冬の雨が降っていた。
暖炉の薪は残り三本。食卓には冷めた豆のスープが二皿。
そして夫の手には、我が家の最後の金貨が握られていた。
「……それは、何のお金か覚えていますか?」
「もちろんだ。春までの生活費だろう?」
「違います」
私は静かに首を振った。
「娘の薬代です」
レオナルドの笑顔が、ほんの少し曇った。
「エマはもう熱が下がったじゃないか」
「薬を飲んだからです」
「だから、その薬をもっと買えるようにするんだよ」
彼は金貨を指先で弾いた。
澄んだ音がした。
かつて私が好きだった、彼の笑い声によく似た音だった。
「赤が七回続いたんだ」
「……はい?」
「王都の賭場の話だ。赤が七回続いた。こんなこと、滅多にない。だから次は黒が来る。絶対に」
私は夫を見つめた。
「どうしてですか?」
「どうしてって……赤が七回も続いたんだぞ?」
「それで?」
「次まで赤になるわけがないだろう!」
雨粒が窓を叩いた。
私はテーブルの上に、一枚の銅貨を置いた。
「レオナルド。表と裏、どちらが出ると思います?」
「今はそんな話をしている場合じゃない」
「お願いします」
夫はため息をついた。
「表だ」
私は銅貨を弾いた。
くるり。
乾いた音を立てて、表が出た。
もう一度。
表。
三度目。
表。
「ほら」
夫が身を乗り出した。
「次は裏だ。これだけ表が続いたんだから」
「なぜ?」
「だから、偏りすぎなんだよ!」
私は四度目の銅貨を弾いた。
裏が出た。
「見ろ!」
夫は勝ち誇ったように笑った。
「俺の言ったとおりだ!」
「ええ。今回は当たりましたね」
私は銅貨を拾い上げた。
「でも、この銅貨は、さっきまで表が三回続いたことを覚えていますか?」
「……何?」
「四度目の銅貨は、三度目までの結果を知っていますか?」
夫は黙った。
「表が十回続いても、百回続いても、次の一回の確率は変わりません。公平な銅貨なら、表も裏も半分ずつです」
「そんなはずはない。いつかは帳尻が合うだろう」
「長く繰り返せば、表と裏の割合が半分ずつに近づくことはあります。でも、それは次に裏が出やすくなるという意味ではありません」
私は銅貨を彼の前へ滑らせた。
「銅貨には、過去を埋め合わせる義務なんてないんです」
レオナルドは鼻で笑った。
「お前は賭博を知らないから、そんなことが言えるんだ」
「そうかもしれませんね」
私は微笑んだ。
「では、明日から賭場で働くことにします」
「は?」
「会計係として」
夫の顔から笑みが消えた。
*
三日後。
私は王都最大の賭場《黄金の牡鹿亭》にいた。
天井には百本もの蝋燭が揺れ、赤い絨毯には酒と香水の匂いが染みついていた。
回転盤の上を、小さな白い玉が跳ねる。
からん。
からから。
「赤の十七!」
歓声と悲鳴が入り交じった。
「八回連続だ!」
「次こそ黒だぞ!」
「黒に全額!」
私は帳簿に数字を書き込んだ。
隣で支配人のオズワルドが苦笑する。
「奥方、驚きましたか?」
「何にでしょう?」
「皆さん、同じことをおっしゃる。赤が続けば黒に賭け、黒が続けば赤に賭ける」
「それで、勝てるんですか?」
「勝つ方もいますよ」
「負ける方は?」
「もっと大勢います」
彼は静かに笑った。
「玉は昨日の結果を覚えていませんからね」
そのときだった。
「黒に金貨十枚!」
聞き覚えのある声が響いた。
私は顔を上げた。
レオナルドだった。
頬はこけ、目の下には濃い影。
それでも瞳だけは、熱に浮かされたように輝いていた。
「次は黒だ。絶対に黒だ!」
白い玉が跳ねる。
からん。
赤。
「くそっ!」
夫が卓を叩いた。
「九回連続だぞ! ふざけるな!」
私は帳簿を閉じた。
「レオナルド」
彼が振り向く。
「……エリス?」
「お久しぶりです」
「なぜここに?」
「働いているんです」
夫は私の服を見た。
質素だが清潔な紺色の制服。
胸元には、会計係の銀の徽章。
「そんなことより、金を貸してくれ」
私は息を止めた。
「……何ですって?」
「次は黒だ。九回も赤が続いたんだぞ。次こそ絶対だ。今までの負けを全部取り戻せる!」
「あなたは、いくら負けたんですか?」
「そんなことはどうでもいい!」
「いくらですか」
「……金貨百二十枚」
耳の奥で、雨音がした気がした。
娘の薬代。
冬の薪代。
私の母が遺してくれた指輪。
すべてを売っても足りない額だった。
「エリス、頼む。次で取り返せるんだ」
「次で負けたら?」
「その次だ!」
「その次も負けたら?」
「だから、いつかは黒が出る!」
「ええ。いつかは出るでしょうね」
私は夫の目を見た。
「でも、そのときあなたに、賭けるお金が残っている保証はありません」
夫の唇が震えた。
「お前は……俺を信じないのか」
胸が痛んだ。
この人を愛していた。
貧しい新婚時代、パンを半分に割って大きいほうを私にくれた人。
娘が生まれた夜、泣きながら小さな指を握っていた人。
その人が今、私を見ている。
私ではなく、金貨の入った財布として。
「信じていましたよ」
私は答えた。
「何度も」
*
「黒に金貨一枚!」
隣の卓で若い男が叫んだ。
白い玉が跳ねる。
赤。
男は頭を抱えた。
「次こそ!」
私は夫に尋ねた。
「ねえ、レオナルド。あなたが最初に賭けた日、何と言ったか覚えていますか?」
「……覚えていない」
「『一度だけ試してみたい』と」
夫は目を逸らした。
「次は『三回負けたから、そろそろ勝つ』」
私は続けた。
「その次は『十回負けたから、今度こそ』。そして今日は『九回赤が続いたから、絶対に黒』」
「何が言いたい」
「あなたの言う『次こそ』は、何度外れたら間違いだったと認められるんですか?」
夫は答えなかった。
「十回ですか? 百回ですか? それとも、家族がいなくなってから?」
蝋燭が揺れた。
回転盤の音が、遠くなった。
「エマがね」
私は声を落とした。
「昨日、聞いたんです」
「……何を」
「『お父様は、いつ帰ってくるの?』って」
夫の肩が動いた。
「私は『もうすぐよ』と答えました」
喉の奥が熱くなる。
「でも、あの子は首を振ったんです」
涙が落ちそうになって、私は唇を噛んだ。
「『お母様、その言葉、昨日も言ったよ』って」
夫は、何も言わなかった。
「私も同じだったんですね」
私は笑おうとした。
うまく笑えなかった。
「昨日帰らなかったから、今日は帰ってくる。先週も帰らなかったから、今週こそ帰ってくる。何度も約束を破られたから、次こそ守ってくれる……」
私は夫を見た。
「私も、過去の失敗が未来の成功を約束してくれると思い込んでいたんです」
「エリス……」
「でも、あなたが帰るかどうかは、賭けの玉とは違う」
私は静かに言った。
「あなた自身が決められることです」
夫の目から、初めて熱が消えた。
その代わりに、恐怖が浮かんだ。
「……俺は」
彼は両手を見つめた。
「俺は、何をしていたんだ」
「家族を待たせていました」
「取り返せると思っていた」
「ええ」
「負けた分を……全部……」
「負けたお金は、次の勝負を有利にしてくれません」
夫は椅子に崩れ落ちた。
長い沈黙があった。
やがて、彼は顔を覆った。
「すまない」
私はすぐには答えなかった。
謝罪の言葉を、何度も聞いてきたからだ。
「レオナルド」
「……ああ」
「私は、あなたにお金を貸しません」
「分かっている」
「借金も肩代わりしません」
「……ああ」
「そして、今日の謝罪だけで、すべてを許すこともしません」
夫は顔を上げた。
目が赤かった。
「それでも……やり直せるだろうか」
私は首を横に振った。
「今は、分かりません」
その言葉に、彼は泣いた。
私は慰めなかった。
代わりに、支配人を呼んだ。
「オズワルド様。この方に、賭場への出入りを止める手続きを案内していただけますか」
支配人は頷いた。
「承知しました」
夫は立ち上がった。
ふらつく足で、支配人の後についていく。
一度だけ振り返った。
「エリス」
「はい」
「明日……エマに会いに行ってもいいか」
私は答えた。
「まず、約束を守れる自分になってください」
*
それから三か月。
春の風が、窓辺の白い花を揺らしていた。
エマは庭で笑っている。
小さな靴が、柔らかな土を踏む。
「お母様! 見て!」
娘が銅貨を高く投げた。
くるり。
光を受けて、銀色に輝く。
「表!」
「よかったわね」
「もう一回!」
二度目も表だった。
「次も表かな?」
私は娘の隣にしゃがんだ。
「さあ、どうかしら」
「二回も表だから、次は裏?」
私は微笑んだ。
「どちらも同じくらいの可能性があるわ」
「どうして?」
「銅貨は、さっきのことを覚えていないから」
エマは不思議そうに銅貨を見つめた。
「じゃあ、人間は?」
私は少し考えた。
「人間は覚えているわ」
「だったら、次は変われる?」
春風が頬を撫でた。
遠くの門の前で、一人の男が立ち止まっていた。
痩せた頬。
古びた上着。
けれど、その手に金貨はなかった。
代わりに、小さな紙袋を持っていた。
娘の好きな、蜂蜜菓子の袋だった。
彼は門を開けず、ただ待っている。
私はその姿を見つめた。
三か月間、彼は賭場へ行っていないと聞いていた。
働いて借金を返し始めたことも。
けれど、それで未来が保証されるわけではない。
人はまた間違える。
約束を破ることもある。
それでも――。
「お母様?」
エマが私の袖を引いた。
「人間は、次は変われる?」
私は娘の手を握った。
「変わることはできるわ」
そして、ゆっくり立ち上がった。
「でもね、エマ」
門の向こうの夫が、深く頭を下げた。
「次こそ変わると信じるだけでは、変わらないの。今日、何をするかで決まるのよ」
私は娘と一緒に、門へ向かって歩き出した。
許すためではない。
別れるためとも、まだ決めていない。
ただ、今日の彼を、自分の目で確かめるために。
春の陽射しの中、娘の銅貨がもう一度空へ舞った。
表になるか、裏になるか。
その答えを、過去は知らない。
――終――




