『その一口が、あなたの毒になる――冷徹な元婚約者は、ただの砂糖水で復讐を遂げる』
『その一口が、あなたの毒になる――冷徹な元婚約者は、ただの砂糖水で復讐を遂げる』
暮れ泥む秋の夕暮れ、黄昏時の淡い紫紺が、王都の裏通りにある隠れ家サロンのステンドグラスを静かに染めていた。
卓上には、真鍮の燭台。揺らめく灯火が、琥珀色に輝く紅茶の水面に小さな影を落としている。漂うのは、ベルガモットの爽やかな芳香と、どこか冷ややかな、雨上がりの土の匂い。
その優雅な空間に、場違いな荒々しさで扉が開かれた。
「おい、アデライン! 呼び出しておいて、こんな薄暗い店とはどういうつもりだ!」
傲慢な足音を響かせて現れたのは、第二王子派閥に属する若き子爵、セドリックだった。仕立ての良いフロックコートを羽織っているが、その襟元はどこか乱れ、眉間には深い苛立ちの皺が刻まれている。
彼が席に着くや否や、隣に寄り添っていた派手なドレスの令嬢――男爵家の娘、ミラが、甲高い声で嫌悪感を露わにした。
「まあ、セドリック様。こんな陰気な店、私の肌が荒れてしまいますわ。……それに、アデライン様。婚約破棄された身でありながら、私たちを呼びつけるなんて、往生際が悪すぎます!」
アデラインは、陶器のカップをそっとソーサーに戻した。カチャリ、と硬質な音が静かな店内に小さく響く。
アデラインの漆黒の瞳は、まるで冬の夜の湖面のように静まり返っていた。感情の波一つ見せない端正な面立ちに、冷ややかな笑みが薄く浮かぶ。
「お忙しいところ、わざわざお越しいただき恐縮ですわ、セドリック様。そして……ミラ様も」
「ふん! どうせ、婚約破棄を取り消してくれと泣きつくつもりだろうが、無駄だ!」
セドリックは革の手袋を卓上に投げ出し、椅子に深く背を預けた。
「俺は、お前のような氷のように冷たくて可愛げのない女には反吐が出るんだよ! 俺が求めているのは、ミラのように純真で、俺を頼りにしてくれる可憐な花だ。持参金の額と家柄だけで結ばれた契約など、破棄されて当然だろう!」
「ええ、そうですわ」
ミラが勝ち誇ったように胸を張り、アデラインを睥睨する。
「セドリック様のお心は、すでに完全に私のもの。貴女がいくら公爵家の威光を盾に脅そうと、真実の愛の前には無力ですのよ!」
侮辱の言葉が降り注ぐ中、アデラインは瞬き一つしなかった。
ただ、窓の外を舞い落ちる枯れ葉を見つめ、静かに息を吐き出す。
「……そうですか。そこまで私がお嫌いでしたのね」
「当たり前だ! そもそも、お前が裏で俺の領地運営に口を出していたのも気に食わん。有能な気取りの小賢しい女め」
「分かりましたわ。では、婚約の破棄……謹んでお受けいたします」
「……は?」
セドリックが拍子抜けしたように目を丸くした。ミラもまた、予想外の反応に毒気を抜かれたように口を半開きにしている。
「な、なんだ、案外聞き分けがいいじゃないか。騒いだら衛兵を呼ぶつもりだったんだがな」
「ええ。人の心を縛ることはできませんもの。ただ……最後に一つだけ、セドリック様にお伝えしなければならないことがあって、今日ここへお呼び立てしたのです」
アデラインの声が、すっと一段低くなった。
燭台の炎がふっと揺れ、彼女の瞳の奥に昏い光が宿る。
「……何だ? 何を言い出す気だ」
「セドリック様。貴方、ここ一ヶ月ほど……妙に胃のあたりが重く、夕暮れ時になると決まって後頭部が締め付けられるように痛むことはございませんか?」
ぴくり、とセドリックの肩が跳ねた。
秋風が窓の隙間から吹き込み、木枠をカタカタと鳴らす。
「な、なぜそれを……」
「そして、朝目覚めた時、舌の奥に奇妙な苦味が残り、指先がかすかに痺れるような感覚がありませんこと?」
「っ……!? お、おい、なぜそれを知っている!」
セドリックの顔から血の気が引いていく。
それは、激務と夜更かし、そして暴飲暴食を繰り返していれば誰にでも起こり得る、ありふれた体調不良にすぎない。
だが――人間は「自分の症状を言い当てられた」瞬間、相手がすべてを知っているという【確証バイアス】の泥沼へと引きずり込まれる。
「セドリック様、貴方はご存知ないでしょうけれど……貴方の母君、前子爵夫人は、極めて特殊な『血の病』を患って亡くなられましたわ」
「は……? 母上は、ただの風邪をこじらせて……」
「いいえ。あれは王家の秘薬庫から漏れ出た、微弱な遅効性の毒――『黒百合の澱』によるもの。我が公爵家の薬師が、夫人の遺品を調べた際に判明していたのです。……その毒は、血筋によって受け継がれ、特定の『引き金』が引かれない限り、体内深くに眠り続ける」
「な、何の話をしている! 馬鹿馬鹿しい!」
セドリックは怒鳴り散らそうとしたが、その声はかすかに震えていた。額にじっとりと脂汗が滲み出ている。
ミラがおどおどとセドリックの腕にしがみついた。
「セ、セドリック様、騙されては駄目ですわ! この女のデタラメです!」
「デタラメかしら?」
アデラインは冷笑を浮かべ、卓上に置かれた小さなガラス瓶を指先で転がした。
中には、無色透明の澄んだ液体が入っている。
「私はこれまで、貴方の婚約者として、貴方の体を案じてまいりました。だからこそ、毎日のようにお届けしていたあのお茶やお菓子に……この『澱』の活性化を抑える解毒薬を、密かに混ぜて差し上げていたのです」
「……な、なんだと……?」
「気づいておられませんでしたの? 貴方が私からの贈り物を『重苦しい』と突き返し、ミラ様と夜会で派手に遊び歩くようになったのが……ちょうど一ヶ月前。それ以降、私の調合したお茶を、一口も飲んでおられませんでしょう?」
セドリックの呼吸が、目に見えて荒くなった。
胸を押さえ、喉を鳴らす。
「う、嘘だ……嘘だ! そんな話があるか!」
「信じるか信じないかは、貴方の自由ですわ。……ですが、毒が完全に体中へ回りきるまで、あと三日。毒が骨の髄まで達した時、内臓は焼け爛れ、全身の毛穴から血を吹き出して、三日三晩のたうち回りながら死ぬことになります」
「ひっ……!」
ミラが悲鳴を上げてセドリックから飛び退いた。「血を吹き出して死ぬ」という生々しい言葉の響きに、恐怖が感染したのだ。
「み、ミラ……? なぜ離れる……?」
「だ、だって……そんな恐ろしい毒、うつったらどうするんですの!?」
「お前、俺を愛していると言ったじゃないか!」
「愛と命は別ですわ! 私、そんなの嫌!」
ミラは青ざめた顔で後ずさり、セドリックの手を払いのけた。
その光景を、アデラインはただ冷ややかな目で見つめている。
「セドリック様。これが、その毒の進行を止める唯一の試薬ですわ」
アデラインは、ガラス瓶のコルク栓を抜いた。
中身は――ただの井戸水に、たっぷりと砂糖を溶かしただけの、極めて甘い砂糖水。
毒など初めから存在しない。母親の病死もただの肺炎であり、セドリックの体調不良も連日の夜遊びによるただの胃もたれと寝不足だ。
だが、人は「自分は毒に侵されている」と心底から信じ込んだ時、脳が勝手に激痛や麻痺、嘔気といった本物の身体症状を作り出してしまう。
――悪意の暗示が心身を破壊する、**【ノシーボ効果】**。
「ただし、この薬は『強い副作用』がございます」
アデラインは淡々とした口調で、獲物を追い詰めるように言葉を重ねる。
「もし、毒がすでに胃壁を蝕んでいた場合……これを口にした瞬間、まるで焼け火箸を飲み込んだような激痛が喉を焼き、胸が張り裂けそうになり、手足が鉛のように重くなって動かなくなります。……毒が進行している者ほど、その痛みは耐え難いものになるでしょう」
「や、焼け火箸……!?」
「ええ。ですが、それを飲み干さねば、貴方は三日後に死ぬ。さあ、セドリック様。お選びくださいませ。私の言葉を嘘と笑い飛ばしてそのままお帰りになるか、それとも……激痛に耐えてこれを飲むか」
アデラインは、琥珀色の瞳を冷酷に細め、ガラス瓶をトン、と卓上の中央に置いた。
静寂が部屋を支配した。
チク、タク、と柱時計の秒針の音だけが、死刑執行へのカウントダウンのように響く。
外は完全に夜の帳が下り、街灯の青白い光が、セドリックの狂気じみた形相を照らし出していた。
「あ……ああ……」
セドリックは震える手で、ガラス瓶を掴んだ。
「死にたくない……俺は、子爵家を継ぐんだ……こんなところで、死んでたまるか……!」
「セドリック様、おやめになって!」
ミラが叫んだが、死の恐怖に支配されたセドリックの耳には届かない。
セドリックは一気に、瓶の中の液体を煽った。
ごくり、と喉が鳴る。
ただの、甘く冷たい砂糖水だ。舌に広がるのは、紛れもない糖分の甘みだけ。
――だが、次の瞬間。
「がっ……!? あ、あぐっ……!!」
セドリックは瓶を取り落とし、自らの喉を両手で激しく掻きむしった。
陶器の割れる音が響き、砂糖水が絨毯に吸い込まれていく。
「熱い……! 喉が……喉が焼けるッ! 息が……息ができないッ!」
「セドリック様!?」
ミラが悲鳴を上げる。
セドリックの目は血走り、皮膚にはじっとりと尋常ではない量の冷や汗が吹き出していた。唇は紫色に変色し、呼吸は過呼吸のように浅く、荒く乱れている。
脳が「焼け火箸のような激痛が来る」と確信したせいで、神経が過剰に反応し、食道と気道が痙攣を起こしているのだ。
「うわあああっ! 痛い、腹が裂ける! 足が……足が動かない! 助けてくれ、アデライン、助けてくれぇぇぇっ!」
床に転がり、泥水のように這い回るかつての婚約者。
その無様な姿を、アデラインは静かに見下ろした。
一切の同情も、憐憫もそこにはない。ただ、冷徹な観察者の視線があるだけだ。
「……見苦しいですわね、セドリック様」
アデラインは立ち上がり、ドレスの裾を払った。
「貴方の体には、毒など最初から一滴も入っておりません」
「……え……?」
床でのたうち回っていたセドリックが、涙と鼻水に塗れた顔を上げた。胸を押さえ、苦しそうに喘ぎながら、虚ろな目をアデラインに向ける。
「な……何を……言って……」
「ただの砂糖水ですわ。よく冷やした、甘い水。毒などというものは、この世に存在いたしません」
「そ、そんな馬鹿な……! 現に、こんなに痛いんだぞ! 身体中が燃えるように熱くて、息が……!」
「それは、貴方ご自身の『心』が作り出した痛みですわ」
アデラインは嘲笑を浮かべ、冷たい言葉の刃を突き刺した。
「人を裏切り、私を蔑ろにし、己の不摂生と傲慢さを棚に上げて生きてきた……貴方の卑しい罪悪感と恐怖心が、その痛みを生み出しているのです。私の言葉を信じ込み、勝手に恐れ、勝手に自らの体を壊しているのですよ」
「ひ、卑怯だ……! 貴様、俺を謀ったな……!」
「謀った? 人聞きが悪いこと。私はただ、『体調が悪そうですね』と申し上げ、甘いお水を差し上げただけですわ。何を恐れ、何を感じるかは、すべて貴方の自由でしたのに」
アデラインは、ガタガタと震えているミラを一瞥した。
「ミラ様。どうぞ、その『真実の愛』のお相手をお連れ帰りになって。……もっとも、自らの恐怖心に負けてこれほど無様に泣き叫ぶ男を、貴女がまだ愛せるのであれば、の話ですけれど」
「い、いやぁぁぁっ! 来ないで、化物!」
ミラは床のセドリックを突き飛ばし、脱兎のごとくサロンから逃げ出していった。
愛の誓いなど、恐怖の前には一片の紙屑ほどの価値もなかったのだ。
「み、ミラ……! 待ってくれ、行かないでくれ……!」
伸ばした手は空を掴み、セドリックは床に崩れ落ちた。
激痛の暗示は解けない。脳が一度「毒を飲んだ」と学習してしまった以上、疑心暗鬼が消えない限り、彼の体は原因不明の嘔気と痛みに苛まれ続けるだろう。
医者にかかろうと、毒など検出されない。精神からくる本物の苦痛に、彼はこれから毎日怯えながら過ごすことになる。
「さようなら、セドリック様。……二度とお顔を見せないでくださいませね」
アデラインは一度も振り返ることなく、優雅な足取りでサロンの扉を開けた。
夜の王都には、澄み渡るような冷たい風が吹き抜けている。
見上げた夜空には、雲一つない満天の星が、冷徹な光を放ちながら瞬いていた。




