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『「その呪い、もう解けていますわ」――偽りの死の宣告を信じた王太子と、ノシーボ効果を見抜いた公爵令嬢』

『「その呪い、もう解けていますわ」――偽りの死の宣告を信じた王太子と、ノシーボ効果を見抜いた公爵令嬢』


 王宮の大広間に、甲高い悲鳴が響いた。


「いやああっ! ジェラルド様のお顔が!」


 桃色の髪を振り乱し、男爵令嬢リリアが後ずさる。


 秋の夜。無数の燭台が照らす舞踏会の中央で、第一王子ジェラルドは真っ青な顔をしていた。


「な、何だ……? 俺の顔がどうした!?」


「唇が紫色に……! それに、お顔も死人のように……!」


「嘘だろう!?」


 ジェラルドは震える手で自分の頬に触れた。


 冷たい。


 いや、冷たい気がする。


 先ほどまで何ともなかった心臓が、急に激しく打ち始めた。


「エレオノーラ!」


 ジェラルドは婚約者である公爵令嬢を睨みつけた。


「貴様、俺に何をした!?」


 エレオノーラは紫の瞳を静かに瞬かせた。


「何もしておりませんわ」


「嘘をつけ! さっき貴様が渡した葡萄酒を飲んでから、身体がおかしい!」


「まあ。殿下は一口もお飲みになっていませんでしょう?」


「そ、それは……!」


 確かに飲んでいなかった。


 エレオノーラが差し出した杯を、ジェラルドは床に叩き落としたのだ。


 その直前、彼は大勢の貴族の前で宣言していた。


「エレオノーラ! 貴様との婚約を破棄する! 俺は真実の愛で結ばれたリリアを王妃に迎える!」


 そして、リリアがこう叫んだ。


「その女は恐ろしい呪術を使います! ジェラルド様を呪い殺そうとしているんです!」


 証拠などなかった。


 けれど、リリアは涙を流しながら、古びた羊皮紙を掲げた。


『王家の血を引く者、黒き薔薇の香を吸えば、三刻のうちに心臓が止まる』


 そんな不吉な一文が記されていた。


 そして今、ジェラルドの胸元には、黒薔薇の花飾りがあった。


「息が……苦しい……!」


 ジェラルドが胸を押さえる。


「殿下!」


 近衛騎士たちが駆け寄った。


「医師を! 宮廷医師を呼べ!」


 広間は騒然となった。


 だが、エレオノーラだけは動かなかった。


 彼女は知っていた。


 黒薔薇に毒などない。


 羊皮紙に書かれた呪いも、リリアが用意した偽物だ。


 そしてジェラルドの身体に起きている異変には、名前がある。


 ――ノシーボ効果。


 害があると強く信じることで、実際に不快な身体症状が生じたり、悪化したりする現象だ。


 人間の身体は、思い込みだけで何でも起こせるわけではない。


 だが、恐怖が動悸や息苦しさを引き起こすことはある。


「リリア……俺は……死ぬのか……?」


「そ、そんな! ジェラルド様、しっかりしてください!」


「胸が痛い……手が痺れる……!」


「呪いですわ! やっぱりエレオノーラ様の呪いです!」


 その言葉に、ジェラルドの呼吸がさらに速くなった。


 エレオノーラは小さく息を吐いた。


(なんてこと……。リリア様は、自分が何を引き起こしているのか理解していない)


 そのとき、白髪の宮廷医師が駆け込んできた。


「殿下! どうなさいました!」


「呪いだ! 俺は三刻で死ぬ!」


 医師は脈を取り、呼吸を確認した。


「脈が速い。ですが、現時点で毒物による異常を示す明確な所見はありません」


「では、なぜこんなに苦しい!」


「強い恐怖によっても、このような症状は起こり得ます」


「恐怖だと!? 俺が臆病だと言うのか!」


 ジェラルドは医師の手を振り払った。


 その瞬間、リリアが叫ぶ。


「あと二刻ですわ!」


「なっ……!」


「羊皮紙には三刻と! もう一刻が過ぎています!」


 ジェラルドの顔が歪んだ。


「嫌だ……死にたくない……!」


 膝が崩れる。


 大理石の床に、王子の身体が沈んだ。


 貴族たちは息を呑み、誰も近づこうとしなかった。


 エレオノーラは、静かに歩み出た。


「リリア様。ひとつ伺っても?」


「な、何ですの! あなたのせいでしょう!」


「その羊皮紙は、どちらで手に入れられました?」


「古い魔導書から写したものですわ!」


「原本は?」


「そ、それは……」


「呪いの存在を確認した方は?」


「わ、私が確認しました!」


「では、呪いを解く方法もご存じですのね?」


 リリアの唇が止まった。


「え……?」


 エレオノーラは優しく微笑んだ。


「呪いを知っていて、解呪法をご存じないなんて、おかしな話でしょう?」


「そ、それは……!」


 沈黙。


 ジェラルドが顔を上げた。


「リリア……解く方法は……?」


「わ、わかりません……」


「何だと!?」


「だって! そんなの、本当に効くなんて思わなかったんですもの!」


 広間の空気が凍りついた。


「……本当に、効く?」


 ジェラルドの声が低くなる。


「どういう意味だ?」


「ち、違うの! 私はただ、エレオノーラ様が怖い人だって証明したくて……!」


 エレオノーラは目を伏せた。


「つまり、その呪いはリリア様がお作りになったお話なのですね」


「違います!」


「では、原本をお見せくださいませ」


「……ありません」


 小さな声だった。


「何と?」


「原本なんて……ありません……」


 ジェラルドの瞳が揺れた。


「リリア……?」


「ごめんなさい! でも、ジェラルド様がこんなに苦しむなんて思わなくて!」


 王子は胸を押さえたまま、呆然としていた。


「では……俺は……?」


 エレオノーラは膝を折り、視線を合わせた。


「殿下。まず、宮廷医師の診察をお受けくださいませ。呪いだと決めつけず、身体の状態を確認することが先です」


 医師が頷いた。


「そのとおりです。呼吸も脈も引き続き確認いたします」


「だが……俺は本当に苦しかった……!」


「ええ。苦しさまで偽物だったわけではございません」


 エレオノーラの声は穏やかだった。


「人は、恐ろしいことが起こると信じ込むと、その予期によって実際に身体の不調を感じることがあります。ノシーボ効果と呼ばれる現象です」


「のしーぼ……?」


「例えば、害のないものを『毒だ』と告げられれば、恐怖から吐き気や動悸が生じる場合があります。症状は本物でも、原因が毒とは限らないのです」


 ジェラルドは自分の手を見つめた。


 震えはまだ残っている。


 だが、先ほどより呼吸が落ち着いてきた。


「では……黒薔薇は……?」


「ただの花でございます」


 エレオノーラは胸元の黒薔薇を取り外した。


「宮廷の温室で育てられた品種ですわ。必要なら検査していただきましょう」


 医師が花を受け取った。


 ジェラルドは何度か深く息をした。


「……胸の痛みが、少し……」


「落ち着いてきましたか?」


「ああ……」


 そのとき、リリアが泣きながら叫んだ。


「でも! 私だって怖かったんです! エレオノーラ様がジェラルド様を奪い返すと思って!」


 エレオノーラは立ち上がった。


「リリア様。あなたが恐怖を感じたことと、嘘を広めてよいことは別ですわ」


「だって、あなたが邪魔だったんですもの!」


「そうですか」


 その一言は、驚くほど静かだった。


「では、殿下」


 エレオノーラはジェラルドを見下ろした。


「先ほどの婚約破棄のお話に戻りましょう」


「い、今か……?」


「ええ。わたくしは承諾いたします」


「……何?」


「ただし、王太子の婚約者を呪術師と呼び、虚偽の告発によって名誉を傷つけた件については、公爵家として正式に調査を求めます」


 リリアが青ざめた。


「そんな! 私、ただの冗談で……!」


「冗談?」


 エレオノーラの紫の瞳が、冷たく光った。


「殿下は本気で死を恐れ、床に崩れ落ちました。宮廷医師が駆けつけ、舞踏会は中断されました。それを冗談と?」


「う……」


「人の心を恐怖で支配することが、どれほど危険か。今夜、十分にご覧になったでしょう」


 ジェラルドは、うなだれた。


「エレオノーラ……俺は……」


「謝罪なら、後日正式な文書でお願いいたします」


 彼女は扇を開いた。


「そして殿下。もうひとつ覚えておいてくださいませ」


「……何だ?」


「人は、自分が信じたい言葉を、真実だと思い込むことがあります」


 エレオノーラはリリアへ視線を向けた。


「あなたはリリア様の『呪いです』という言葉を信じました。わたくしの『何もしていません』という言葉には耳を貸さずに」


 ジェラルドは答えなかった。


「けれど、信じたからといって、それが事実になるわけではございません」


 秋の夜風が、開いた窓から流れ込んだ。


 揺れる燭火の下で、リリアは泣き崩れ、ジェラルドは震える手を握りしめていた。


 エレオノーラは優雅に一礼する。


「どうぞ、お大事になさってくださいませ」


 そして、静かに大広間を後にした。


 背後から、ジェラルドのかすれた声が聞こえた。


「……リリア。お前の言葉を信じた俺が、馬鹿だったのか……?」


「違うの! 私はジェラルド様を愛しているの!」


 その言葉に、王子はもう微笑まなかった。


 エレオノーラは夜空を見上げる。


 雲の切れ間から、澄んだ月が顔を覗かせていた。


 ――呪いなど、最初から存在しなかった。


 けれど、存在しない呪いを信じた人間の恐怖は、本物だった。


 そして、恐怖を生み出した嘘が明らかになった今、王子の心には別の疑念が芽生えている。


 自分が信じた「真実の愛」もまた、誰かが作り上げた物語だったのではないか、と。


 その疑念だけは、エレオノーラにも解いてやるつもりはなかった。


【完】



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