『みんなの庭』
十月の半ばを過ぎたというのに、硝子戸の向こうに揺れる桜の枝には、まだ未練がましい青葉がいくらか残っていた。夕暮れの冷たい雨が、それらを容赦なく濡らし、路面のアスファルトを鈍い鉛色に染め上げていく。
古い木造アパートの一室。湯気の立つ急須からほうじ茶を注ぐ微かな音だけが、息を潜めた部屋に響いていた。
千代子は湯呑みを畳の上にことりと置き、膝に置いた両手をきつく握り締めた。向かいに座る甥の修平は、手元のスマートフォンを指先で弾くように弄りながら、さも退屈そうに背中を丸めている。
「……修平さん。さっきの話、本気で言っているの?」
千代子の声は、湿った空気に溶けて震えた。
「本気も何も、叔母さん。当たり前のこと言ってるだけだよ」
修平は顔も上げず、ふっと鼻を鳴らした。手首の銀色の時計が、薄暗い部屋の灯りを鈍く反射する。
「この家、築四十年以上経ってるんでしょ。柱も傷んでるし、耐震だって怪しい。買い取って更地にして、新築のデザイナーズアパートにするって業者、結構いい額を提示してくれてるんだ。今売らないでいつ売るのさ」
「でもね、ここは……お前のお祖父ちゃんが、苦労して建てた家だよ。お父さんも、私も、ここで育ったの。庭の隅にある沈丁花だって、母さんが亡くなる前の年に……」
「出たよ、思い出話」
修平が遮るように顔を上げた。その瞳には、侮蔑というよりは、話の通じない相手に対する純粋な苛立ちと、確固たる『正しさ』が宿っていた。
「そういう情に流されるの、やめなよ。世間一般を見てみなよ。誰だって老朽化した負債物件なんてさっさと手放して、現金化したいに決まってるじゃないか」
「世間一般……?」
「そうだよ。普通に考えたら誰でもそうする。誰だって実家の古家なんて管理しきれないし、お金に換えて身軽になりたい。僕の会社の同僚も、大学の友達も、みんな口を揃えて『早く処分しなよ』って言ってる。世の中の九割……いや、まともな感覚の人間なら全員、僕と同じ意見だよ」
修平は胸を張り、淀みなく言い切った。疑いのかけらもない、透き通るような確信。彼の頭の中では、世界中の人間が自分と同じ計算機を叩き、同じ結論を出しているのだ。
外で、ひとしきり強い風が吹いた。雨粒が雨戸をばらばらと叩き、隙間風が千代子の首筋を撫でていく。
「修平さん。それは……あなたがそう思いたいから、周りもみんな同じだと信じ込んでいるだけじゃないの?」
「はあ? 何言ってんの。現実を見てよ」
修平は苦笑を浮かべ、わざとらしく両手を広げてみせた。
「みんなそうなんだって。僕の考えが特殊なんじゃない。叔母さんが世間知らずで、古い感傷に縛られすぎてるだけなんだ。ほら、ネットの掲示板を見てごらんよ。親の実家を相続して困ってる奴らの愚痴で溢れてる。誰もが『売れるなら即売るべき』って思ってるんだよ。これが常識なんだ」
「常識……」
千代子は静かに息を吸い込んだ。胸の奥底で、何かが冷たく凝固していく。
「お前のお父さん……私の兄さんにも、同じことを言ったの?」
「親父? 親父だってどうせ最後は賛成するに決まってるよ。だって、そうしないと損するんだから。人間、得な方を選ぶのが当たり前でしょ」
その時、玄関の引き戸が、がらがらと音を立てて開いた。濡れた傘を畳むパサリという音、そして重い足音が板間を軋ませて近づいてくる。
「ただいま。……千代子、冷えるな」
入ってきたのは、修平の父であり、千代子の兄である誠一だった。濡れたレインコートを脱ぎ、白髪の混じった頭をタオルで拭いながら、二人の間の張り詰めた空気に眉を寄せる。
「父さん、ちょうどよかった」
修平が勢いよく立ち上がった。まるで自分の正しさを証明する決定打を手に入れたかのような、勝ち誇った笑みを浮かべて。
「業者との話、進めていいよね? 叔母さん、まだグジグジ言っててさ。僕が『誰だってこんな古い家、売ってお金にするのが普通だ』って言っても全然納得してくれないんだよ。父さんからも言ってやってよ。みんな同じ考えだって」
誠一は、濡れたタオルを無言で畳の上に置いた。
そして、ゆっくりと部屋を見渡した。茶色く煤けた鴨居、柱に刻まれた小さな傷の数々、そして雨に濡れる庭の木々。
「修平」
「なに?」
「お前は、誰がその『みんな』なんだ」
低く、しかし芯の通った声だった。修平の笑みが、わずかに強張る。
「え……だから、世間一般だよ。僕の周りの奴らも、ネットの人間も……」
「お前の『周り』が世界の全部か」
誠一は畳にどかと腰を下ろすと、冷めかけたほうじ茶に手を伸ばすこともせず、息子を真っ直ぐに見据えた。
「俺は、売らんぞ」
部屋の空気が、凍りついたように止まった。
「……は? 父さん、何言ってんの? 損するんだよ? 維持費だってかかるし、固定資産税だって馬鹿にならないんだよ!? 信じられない……なんで!? 普通なら絶対売るだろ!」
「お前の言う『普通』は、お前の頭の中にしかねえよ」
誠一は淡々と、しかし鋭く言った。
「自分がそうしたいから、他人もみんな同じように考えているはずだと錯覚してるだけだ。お前は自分の都合のいい意見ばかり集めて、それを『常識』だの『世間』だのと大きな言葉ですり替えている。……俺も、千代子も、この家をどう守るかずっと話し合ってきたんだ。手入れをして、誰かに貸すなりして残そうとな」
「嘘だろ……なんでだよ……みんな売るって言うに決まってるのに……」
修平は愕然として立ち尽くした。
足元から信じていた大地が崩れ落ちていくような顔だった。自分が立っていた「絶対的な多数派」という頑丈な足場が、ただの砂上の楼閣であったことに、彼は初めて直面していた。自分の常識は、自分だけの偏見に過ぎなかったのだと。
「自分の物差しで世界を測るな、修平」
誠一の静かな声が、雨音の混じる部屋に落ちる。
外の雨足は、いつの間にか弱まっていた。
雲の切れ間から、雨に洗われた薄い夕月がわずかに顔を覗かせている。濡れた庭の敷石が、青白い光を静かに返していた。
修平は、もう何も言えなかった。
ただ、自分が握りしめていたスマートフォンの冷たい感触だけが、嘲笑うかのように手のひらに残っていた。




