『三日で終わるはずだった』
『三日で終わるはずだった』
――認知バイアス:計画錯誤
「三日あれば十分だ」
王都の小さな商店に、妙に自信たっぷりな声が響いた。
「……ニール?」
「いや、二日でもいけるかもしれない」
「ちょっと待って。何の話?」
メリンダが帳簿から顔を上げると、恋人のニールは分厚い原稿の束を抱えて立っていた。
窓から差し込む午後の日差しが、彼の乱れた黒髪を照らしている。
その目の下には、うっすらと隈があった。
「新しい翻訳の仕事だよ」
「……また?」
「今回はすごいんだ。隣国で大人気の冒険小説なんだけど、出版社が急いでいてね」
「それで?」
「三日後までに翻訳してほしいって」
メリンダは黙った。
そして、原稿の束を見た。
分厚い。
ものすごく分厚い。
「……何ページ?」
「四百八十ページ」
「は?」
「でも大丈夫。僕なら一日百六十ページずつ訳せば終わる」
ニールは晴れやかに笑った。
メリンダは額を押さえた。
「ねえ、ニール」
「何?」
「前に二百ページの本を翻訳した時、何日かかった?」
「……五日」
「その前は?」
「……七日」
「その前は?」
「…………九日」
「それで?」
「今回は三日!」
「どうして短くなるのよ!」
店の奥から母親の笑い声が聞こえた。
「今回は違うんだよ」
ニールは真剣だった。
「前回は専門用語が多かったし、その前は原文の表現が複雑だった。今回は冒険小説だから、読みやすいはずなんだ」
「……それ、毎回言ってない?」
「え?」
「前は『今回は料理の本だから簡単』って言ってたわよね」
「……うん」
「その前は『短編集だから楽』って」
「……言ったかな」
「言ったわ」
メリンダは帳簿を閉じた。
「ねえ。今回はどんな予定なの?」
「朝から夕方まで翻訳する。途中で食事を取って、夜は見直しをするんだ」
「睡眠は?」
「もちろん取るよ」
「何時間?」
「……六時間くらい」
「本当に?」
「たぶん」
「今、目を逸らしたわね?」
ニールは苦笑した。
「メリンダは厳しいなあ」
「あなたが自分に甘すぎるの!」
メリンダは頬を膨らませた。
それでも、彼が仕事を楽しそうに語る姿は嫌いではなかった。
むしろ、好きだった。
知らない国の言葉を読み解き、遠い世界の物語を自分たちの言葉に変えていく。
そんなニールの仕事を、彼女は心から尊敬している。
だからこそ。
「……無理しないでよ」
小さく呟いた。
「倒れたら、元も子もないんだから」
「大丈夫だよ」
ニールは笑った。
「ちゃんと計画してるから」
その言葉に、メリンダは嫌な予感しかしなかった。
一日目。
朝の鐘が鳴る頃、ニールは机に向かっていた。
窓辺には湯気の立つ紅茶。
机には辞書と原稿。
白い紙の上を、ペンが軽快に走る。
「よし。順調だ」
午前中だけで四十ページ。
想定通りだった。
「この調子なら、本当に三日で終わるな」
ニールは満足げに頷いた。
しかし。
「……ん?」
五十三ページ目。
主人公が古代遺跡で発見した道具の名前が、どうにも訳せない。
「これは……何だ?」
辞書を引く。
別の辞書を引く。
古い資料を探す。
「……あれ?」
気づけば昼を過ぎていた。
「まあ、こういうこともある」
ニールは笑った。
「午後に取り返せばいい」
ところが午後。
今度は登場人物の話し方に問題が見つかった。
「この人物、前半では丁寧な口調なのに、後半では荒っぽい……?」
原文を読み返す。
前のページに戻る。
さらに前に戻る。
「……ああ、なるほど。正体を隠しているからか」
納得した頃には、夕日が窓を赤く染めていた。
コンコン。
「ニール?」
扉が開く。
メリンダだった。
「お弁当、持ってきたわよ」
「ありがとう!」
「進んでる?」
「もちろん!」
「何ページ?」
「……七十二ページ」
「…………」
「…………」
「一日百六十ページじゃなかった?」
「明日取り返すよ!」
メリンダは天井を見上げた。
「……そう」
その声には、諦めに似た響きがあった。
二日目。
「今日は二百ページ進める!」
ニールは拳を握った。
昨日の遅れを取り戻すためだ。
「昨日は調べ物に時間がかかっただけ。今日はもう大丈夫だ」
そう思っていた。
だが。
「……この伏線、前の巻に出てきていたのか?」
出版社から届いた補足資料。
前作との設定の整合性。
固有名詞の表記統一。
そして、翻訳した文章の読みやすさ。
「……思ったより時間がかかるな」
昼になった。
夕方になった。
夜になった。
机の上には、冷めた紅茶が三杯。
くしゃくしゃに丸めた紙が、床に転がっている。
「……あと少し」
ニールは目を擦った。
「あと少しで、今日の目標に……」
時計の針は、深夜を指していた。
進んだのは、九十六ページ。
合計百六十八ページ。
残り三百十二ページ。
「…………」
ニールは数字を見つめた。
「……明日、頑張れば」
その時。
「ニール」
背後から声がした。
振り返ると、メリンダが立っていた。
両手を腰に当て、眉をつり上げている。
「……寝てないでしょう」
「少しは寝たよ」
「何時間?」
「……二時間」
「ニール!」
「ごめん!」
メリンダは深いため息をついた。
「ねえ。出版社に連絡した方がいいんじゃない?」
「でも、まだ締め切りまで一日あるし……」
「残り三百ページ以上あるのよ?」
「大丈夫。集中すれば……」
「昨日もそう言ってた!」
ニールは口を閉じた。
メリンダの声が、少し震えていた。
「……あなたが頑張ってるのは知ってる」
「…………」
「でも、頑張れば時間が増えるわけじゃないのよ」
その言葉に、ニールは何も返せなかった。
三日目。
朝から雨が降っていた。
窓硝子を叩く雨粒が、細い筋になって流れていく。
ニールは机に向かっていた。
目は赤く、指先は冷たい。
ペンを握る手が震えている。
「……あと、二百七十ページ」
どう考えても終わらない。
それでも、彼は書き続けた。
「……まだ、間に合うかもしれない」
自分に言い聞かせる。
「夕方までに百ページ。夜までに残りを……」
計算は、もう現実を見ていなかった。
ただ、間に合ってほしいという願望だけが、数字の形をしていた。
コンコン。
「ニール?」
メリンダの声。
「……入っていい?」
「うん」
扉が開く。
彼女は濡れた外套を脱ぎ、静かに部屋へ入った。
机の上の原稿を見る。
そして、ニールの顔を見る。
「……もう、やめましょう」
「……まだ」
「ニール」
「まだ、できる」
彼の声は掠れていた。
「僕が引き受けた仕事なんだ」
「分かってる」
「約束したんだ」
「うん」
「だから……!」
ペンが、指から滑り落ちた。
乾いた音が床に響く。
ニールは呆然と自分の手を見つめた。
「……あれ?」
指が動かない。
力が入らない。
視界が滲む。
「ニール!」
メリンダが駆け寄った。
彼の肩を支える。
その身体は、驚くほど熱かった。
「熱があるじゃない!」
「……ごめん」
「謝らなくていいから!」
メリンダの目に涙が浮かんだ。
「どうして……どうして、こんなになるまで……」
ニールは俯いた。
「……三日で終わると思ったんだ」
ぽつりと呟く。
「本当に、終わると思ってた」
「…………」
「前も、予定より時間がかかった。でも、今回は違うと思った」
雨音が強くなった。
「調べ物が必要になることも、見直しに時間がかかることも、分かっていたはずなのに……」
ニールは力なく笑った。
「計画を立てる時には、なぜか全部、うまくいく気がしたんだ」
メリンダは彼の手を握った。
冷たい指先を、両手で包む。
「……それが、計画錯誤っていうものらしいわ」
「……計画錯誤?」
「前にあなたが翻訳してくれた心理学の本に書いてあったの」
メリンダは静かに続けた。
「人は、計画を立てる時、自分の理想通りに進む未来を想像しやすいんですって」
「…………」
「でも、実際には調べ物も、間違いも、疲れも、予想外の出来事もあるでしょう?」
「……うん」
「なのに、過去に何度も予定が遅れていても、次こそは大丈夫って思ってしまう」
ニールは目を閉じた。
「……まさに、僕だね」
「そうよ」
メリンダは少しだけ怒った顔をした。
「しかも、あなたの場合、毎回よ!」
「……返す言葉もない」
「本当に!」
けれど、その声はもう怒っていなかった。
ただ、心配でたまらなかった。
翌日。
熱が下がったニールは、出版社に手紙を書いた。
期限に間に合わなかったこと。
見積もりが甘かったこと。
残りの翻訳には、少なくとも五日以上必要なこと。
すべて正直に伝えた。
返事が届いたのは、その日の夕方だった。
「……何て書いてあるの?」
メリンダが尋ねる。
ニールは封筒を開いた。
そして。
「…………」
「ニール?」
「……怒られた」
「でしょうね」
「でも、延期してくれるって」
「よかったじゃない!」
「ただし……」
「ただし?」
「次からは、作業日数の根拠を提出するようにって」
メリンダは吹き出した。
「あははっ! 当然よ!」
「笑わないでよ……」
「だって!」
ニールは情けない顔をした。
「……信用を失ったなあ」
メリンダは笑うのをやめた。
そして、彼の隣に座った。
「ねえ、ニール」
「何?」
「次は、どうやって計画を立てる?」
「……うーん」
ニールは考えた。
「まず、過去の仕事に何日かかったか調べる」
「うん」
「それから、今回の原稿の量と難しさを比べる」
「うんうん」
「調べ物と見直しの時間も、最初から予定に入れる」
「それから?」
「……食事と睡眠の時間も」
「よろしい!」
メリンダは満足そうに頷いた。
「あと、予備の日も必要ね」
「そうだね」
「それで、今回みたいな四百八十ページの本なら?」
ニールは少し考え込んだ。
「……十日くらいかな」
「本当に?」
「……十二日」
「本当に?」
「……十四日!」
「ふふっ」
メリンダは笑った。
「それなら、少し安心ね」
ニールも笑った。
久しぶりに、肩の力が抜けた気がした。
一週間後。
商店のカウンターで、メリンダは新商品の仕入れ計画を立てていた。
「うーん……」
帳簿を睨む。
新しい香油の販売準備。
宣伝用の札。
商品の陳列。
仕入れ先との交渉。
「……よし!」
メリンダは勢いよくペンを走らせた。
「三日あれば全部終わるわね!」
「…………」
隣で本を読んでいたニールが顔を上げた。
「メリンダ?」
「何?」
「前に、新商品の販売準備をした時、何日かかった?」
「……五日」
「その前は?」
「……七日」
「その前は?」
「…………九日」
沈黙。
ニールはにっこり笑った。
「それで?」
「……今回は三日!」
「どうして短くなるの?」
「今回は違うのよ!」
言った瞬間。
二人は顔を見合わせた。
「…………」
「…………」
そして。
「あっ」
メリンダが小さく声を上げた。
ニールは本を閉じた。
「……ね?」
「……うん」
メリンダはゆっくり帳簿を見下ろした。
「……私も、同じこと言ってたわね」
「言ってたね」
「……恥ずかしい」
頬を真っ赤にするメリンダ。
ニールは声を上げて笑った。
「あははっ!」
「笑わないでよ!」
「ごめん、ごめん!」
「もう!」
メリンダは唇を尖らせた。
けれど、やがて自分でも笑い出した。
「……本当に、不思議ね」
「何が?」
「他人の無茶な計画は、すぐ分かるのに」
「うん」
「自分の計画になると、なぜかできる気がするのよね」
ニールは頷いた。
「たぶん、自分の頭の中では、全部うまくいっているからだろうね」
「……そうね」
メリンダは帳簿に一本の線を引いた。
三日。
その数字を消して、七日と書き直す。
さらに少し考えて、予備日を二日加えた。
「……これならどう?」
「いいと思う」
「本当に?」
「少なくとも、前より現実的だよ」
メリンダは微笑んだ。
「じゃあ、あなたの次の翻訳も一緒に計画を立てましょう」
「え?」
「お互いに確認すれば、見落としも減るでしょう?」
「……なるほど」
ニールは優しく笑った。
「それはいい考えだね」
窓の外では、秋の夕日が街を金色に染めていた。
市場からは威勢のいい呼び声が響き、焼き栗の香りが風に乗って流れてくる。
明日も、きっと忙しい。
予定通りにいかないこともあるだろう。
思いがけない問題も起きるだろう。
それでも。
「ねえ、ニール」
「何?」
「今日はもう仕事を終わりにしましょう」
「まだ夕方だけど?」
「いいの。たまには早く帰って、一緒に夕飯を作りたいの」
「……いいね」
「何が食べたい?」
「メリンダの作るシチュー」
「ふふっ。じゃあ、市場で材料を買いましょう」
二人は手を繋いで店を出た。
夕暮れの街に、楽しそうな笑い声が溶けていく。
そして、メリンダが何気なく言った。
「シチューなら、一時間でできるわね!」
「……メリンダ」
「何?」
「前に作った時は?」
「…………」
「二時間かかったよね?」
「…………」
メリンダは空を見上げた。
夕焼けが、やけに綺麗だった。
「……今日は違うのよ」
「また?」
「もうっ! 分かってるわよ!」
二人の笑い声が、再び響いた。
人は、失敗から学ぶ。
けれど、学んだからといって、思い込みが消えるわけではない。
未来を計画する時、人は「これまで実際にかかった時間」よりも、「今回こそうまくいくはずの自分」を信じてしまう。
だからこそ、時には立ち止まって、過去を振り返る必要がある。
予定を立てることと、予定通りに進むことは、別なのだから。
――完。
### 作品に込めた認知バイアス
この物語の中心にある\*\*計画錯誤(Planning Fallacy)\*\*は、過去の経験から遅延や困難が予測できるにもかかわらず、将来の作業に必要な時間や労力を過小評価してしまう傾向です。
ニールは「今回は簡単だから」、メリンダは「今回は違うから」と考え、過去の実績よりも理想的な進行を重視してしまいます。
特に重要なのは、他人の計画錯誤を見抜ける人でも、自分自身の計画錯誤には陥り得るという点です。
対策としては、過去の類似作業にかかった実際の時間を参考にする「外側からの見方(外部視点)」や、作業を細分化して見積もること、予備時間を設けることが役立ちます。




