『完璧な明日の作り方』計画錯誤
午前二時半。街が深い眠りに沈む中、遮光カーテンの隙間から細い月光が滑り込み、青白いノートパソコンの画面を冷たく照らしていた。
キイ、と古びたオフィスチェアがきしむ。
机の上には、底に黒くこびりついたコーヒーの跡を残すマグカップと、丸められたルーズリーフの山。壁のカレンダーには、今日の日付である十月十七日に太い赤ペンでぐるりと丸がつけられ、その横に大きく『納品日』と書かれていた。
「……終わらない」
笠井は両手で顔を覆い、乾いた掌で熱を持った瞼を強くこすった。
画面に浮かぶ進捗バーは、無情にも「62%」を示したまま止まっている。
「だから言ったじゃないですか、笠井さん。三日で終わる規模じゃないって」
背後から掛けられた声に、笠井は肩を跳ねさせた。
振り返ると、アシスタントの佐野が呆れたような眼差しで立ち尽くしていた。手には淹れたての熱いほうじ茶の湯呑みが二つ。湯気が、冷え切った作業場の空気に白く溶けていく。
「佐野くん……まだ起きてたのか」
「笠井さんがこんなところで一人で討ち死にされたら、明日朝イチのクライアントへの土下座役が僕一人になっちゃいますからね。ほら、飲んでください」
コト、と机の端に湯呑みが置かれる。香ばしい香りが立ち上り、笠井の強張った喉を微かに緩めた。
「すまない……。でも、計算上は絶対に間に合うはずだったんだよ」
笠井は震える指でマウスを握り、スプレッドシートの工程表を開いて見せた。
「ほら、見てくれ。構成案の作成に半日。執筆に一日半。推敲と校正に一日。予備時間だって六時間取ってあった。前回の案件と文字数もテーマもほぼ同規模だ。あの時だって実質二日で書けたんだから、三日あれば十分お釣りがくるはずだったんだ」
佐野は湯呑みを口に運びながら、深く、重いため息を吐いた。
「笠井さん。前回の案件、本当に二日で終わりましたっけ?」
「え? ……終わっただろ。ちゃんと締め切り前日の夜に送ったじゃないか」
「送る直前に、取材相手からの追加修正が入って徹夜で差し替えたじゃないですか。その前だって、資料の引用元が合わなくて丸一日図書館に籠もりきりでしたよ。あれ、着手から納品まで結局一週間かかってます」
「それは……あれは突発的な事故みたいなものだったから! あんなイレギュラーさえなければ、実質二日で書ける分量だったんだよ」
「人間はね、過去の『最もうまくいった瞬間』だけを切り取って、それを基準に未来を測る生き物なんですよ」
佐野の静かな声が、シンとした室内に落ちる。
壁の換気扇がカタカタと乾いた音を立てて回っていた。
「計画錯誤ですよ。笠井さんが立てる予定はいつだって、『体調は万全で、一度も集中が途切れず、参考文献は一発で見つかり、PCはフリーズせず、クライアントからの横槍も一切入らない』という、この世に存在しない理想郷を前提に作られてるんです」
「理想郷って……そんなつもりは」
「自覚がないからタチが悪いんです。『今回は違う、今度こそ順調にいくはずだ』って、毎回同じ根拠のない楽観でスケジュールを組む。過去の失敗は全部『例外』で片付けて、自分の能力だけを信じ切っちゃうんです」
佐野の言葉は、冷たい刃のように笠井の胸を抉った。
痛いほど身に覚えがあった。スケジュール帳を広げる瞬間、いつも胸の奥には奇妙な全能感があった。「今回は迷わず書ける」「集中さえすれば、一時間に二千字は余裕だ」。そうやって机上の計算を積み上げ、まっさらな白紙の前に座った途端、最初の一文が出てこない現実に打ちのめされるのだ。
「……情けないな」
笠井は項垂れ、両膝に拳を落とした。
青黒いクマの浮かんだ顔を、湯呑みの湯気がかすめる。
「新人の頃から何も成長していない。もう何十回も締め切りを経験して、痛い目を見てきたはずなのに……どうして毎回、『今回は間に合う』って本気で信じ込んじゃうんだろうな。見積もりが甘いと言われればそれまでだけど、自分を騙そうとしているわけじゃないんだ。本当に、いけると思っちゃうんだよ」
「分かってますよ。だからバイアス、心の偏りなんです」
佐野は椅子を引き、笠井の隣に腰を下ろした。
窓の外が、ほんの少しだけ白み始めている。夜の濃紺が、東の空から薄墨色へと溶け出し、街路樹の葉が朝露に濡れて鈍く光っていた。
「笠井さんは手を抜いてるわけでも、クライアントを舐めてるわけでもない。ただ、自分の情熱と願望を、そのまま所要時間に変換しちゃう癖があるだけです」
「……どうすればいいと思う?」
笠井が縋るように顔を上げると、佐野はふっと苦笑いを浮かべた。
「簡単ですよ。自分の見積もりを信じないことです。『三日でできる』と思ったら、過去の似たような作業を他人がやったら何日かかるか、外側のデータを見るんです。笠井さんの過去の平均執筆ペースから見れば、この案件は最初から五日かかる仕事でした」
「五日……」
「ええ。だから、今からでもクライアントに連絡を入れましょう。『突発的なトラブル』のせいにするんじゃなく、正直に。『見通しが甘く、クオリティを担保するためにあと二日いただきたい』と」
「……怒られるな」
「そりゃ怒られますよ。でも、適当な粗大ゴミを納品して信用を全部失うより、百万倍マシです。怒られる時は僕も一緒に頭を下げますから」
佐野はそう言って、冷めかけた自分の湯呑みを干した。
東の空から差し込む朝の光が、部屋の輪郭を少しずつ鮮明にしていく。
モニターの光に頼っていた青白い部屋に、あたたかな朝の気配が差し込み始めていた。
笠井は深く息を吐き出し、胸の奥で渦巻いていた焦燥と自惚れを、全部吐き出すように肩の力を抜いた。
「……分かった。連絡文面、下書きするよ。見てくれるか」
「もちろん。あ、その前にメール一本打つのに『五分で書ける』とか思わないでくださいね。推敲含めて三十分は見といてください」
「手厳しいな……」
二人の間に、小さな笑い声が落ちた。
机の上の工程表を閉じると、そこにはただ、今日から始まる泥臭い作業と、現実的な二日間の時間がまっすぐに横たわっていた。




