『知っているのは、あなただけ』
# 『知っているのは、あなただけ』
――人は、自分が知っていることを、他人も知っていると思い込む。
それが、どれほど残酷な勘違いになるのか。
知っている側は、なかなか気づかない。
王都の秋は、焼きたてのパンと熟した林檎の香りがする。
「メリンダ! この髪飾り、どう思う?」
「うーん。悪くないけど、あなたの恋人なら青い方が好きだと思うわ」
「なんで分かるんだよ」
「この間、青い花を三本も買ってたでしょう?」
「……商人って怖いな」
「情報は財産ですから♪」
メリンダが笑うと、常連客の青年もつられて笑った。
店先には色とりどりのリボンが揺れ、硝子瓶に入った香油が朝日を受けてきらきらと輝いている。
何でもない、いつも通りの朝。
メリンダにとっては、それが何より大切だった。
「そうだ。今日、ニールさんは?」
「お仕事。昨日も徹夜したらしいから、あとでお弁当を届けるの」
「仲いいなあ」
「当然でしょう? 私の恋人だもの」
少し得意げに胸を張る。
青年が呆れたように肩をすくめた、その時だった。
カラン、コロン。
扉の鐘が鳴った。
「いらっしゃいませ!」
入ってきたのは、上等な黒い外套をまとった男性だった。
銀糸の刺繍。磨き上げられた革靴。腰に下げた剣には、王家の紋章。
メリンダは一瞬だけ目を留めた。
(貴族のお使いかしら。高い香油でも売れるといいけど)
それだけだった。
「……見つけた」
男性が呟いた。
「はい?」
「ようやく、見つけた」
男性の声が震えていた。
けれどメリンダには、その理由が分からなかった。
「何かお探しでしょうか?」
男性の顔が、くしゃりと歪んだ。
「……覚えていないのか?」
「申し訳ありません。以前、当店をご利用いただきました?」
「違う!」
突然の大声に、メリンダの肩が跳ねた。
店内の客たちが振り返る。
男性は慌てたように息を整えた。
「すまない。驚かせるつもりはなかった」
「……いえ」
「十六年前だ」
「はい?」
「十六年前の秋。雨の日だった」
男性の瞳が、懐かしさに潤む。
「あの日、私は迷子になっていた」
メリンダは首を傾げた。
「……そうですか」
「君が助けてくれた」
「…………」
「覚えているだろう?」
当然のように。
絶対に覚えているはずだという声で。
男性は尋ねた。
メリンダは困った。
「申し訳ありませんが……」
「赤い屋根の菓子屋の前だ!」
「え?」
「君は私に、温かい焼き菓子をくれた!」
「ああ……」
男性の顔がぱっと明るくなった。
「思い出したか!」
「いえ。あの菓子屋さん、昔からよく利用していましたので」
「……え?」
「迷子のお子さんも何人かお助けしたことがありますし……」
男性の笑顔が固まった。
メリンダは申し訳なさそうに眉を下げた。
「お名前を伺っても?」
その瞬間。
男性の瞳から、光が消えた。
「……名前?」
「はい」
「私の名前を……知らない?」
「はい。初めてお会いする方だと思っていましたので」
「そんな……」
男性は呆然と呟いた。
「私は……あの日から、一度も君を忘れたことがなかったのに」
メリンダは、ますます困惑した。
何を言われているのか分からない。
ただ、相手がひどく傷ついていることだけは分かった。
彼の名は、アルフォンス。
この国の第二王子だった。
十六年前、王宮を抜け出して迷子になった。
雨に濡れ、空腹で、誰も信じられず、路地裏で泣いていた。
そこに現れた少女。
『大丈夫?』
少女は笑った。
『お腹空いてるの? これ、半分あげる』
甘い焼き菓子。
小さな手。
柔らかなストロベリーブロンド。
『お母さんかお父さん、探してる?』
『……分からない』
『じゃあ、一緒に探そう』
その言葉に、どれほど救われたか。
アルフォンスにとって、それは人生を変えた出来事だった。
王宮に戻ってからも忘れられなかった。
何度も思い出した。
何度も夢に見た。
そして、いつしか確信した。
――あの少女も、自分を覚えている。
――きっと、再会を待っている。
――自分たちは、運命で結ばれている。
十六年間。
その確信を疑ったことは、一度もなかった。
なぜなら。
彼は、すべてを覚えていたから。
「殿下……」
護衛が小声で呼びかける。
アルフォンスは答えなかった。
目の前のメリンダを見つめている。
「……君は、あの日のことを何とも思っていなかったのか?」
「何とも、というのは……」
「私を助けたことだ!」
「困っている子供がいたら、助けるでしょう?」
「……っ」
「それに、十六年前ですよね? 私もまだ子供でしたし」
メリンダは考え込んだ。
「たぶん、その頃は店のお手伝いを始めたばかりで……」
「私は覚えている!」
アルフォンスの声が震えた。
「君の言葉も! 君の笑顔も! あの菓子の味さえ!」
「……はい」
「君だって、何か覚えているはずだ!」
「…………」
「思い出してくれ!」
メリンダの胸に、小さな不快感が生まれた。
なぜ、思い出すことを強要されなければならないのだろう。
相手にとって大切だったことは理解できる。
でも。
自分にとっても同じ重さだったとは限らない。
「……申し訳ありません」
メリンダは静かに言った。
「私には、思い出せません」
アルフォンスが息を呑む。
「……どうして」
「どうして、と言われましても」
「私は、ずっと君を探していたんだぞ……?」
その声には、責めるような響きがあった。
メリンダは唇を結んだ。
胸の奥が、少し冷たくなった。
「……それは、私の知らないことです」
「何?」
「殿下が私を探していたことも、私を覚えていたことも、今日初めて知りました」
「だが、私は……!」
「殿下」
メリンダは、はっきりと告げた。
「殿下が知っていることを、私も知っているとは限りません」
沈黙が落ちた。
窓の外を馬車が通り過ぎる。
車輪が石畳を叩く音だけが、妙に大きく聞こえた。
「……彼女は、照れているだけだ」
王宮に戻ったアルフォンスは、そう呟いた。
側近のセドリックが顔を上げる。
「殿下?」
「突然、王子が現れたのだ。驚いて当然だろう」
「……そうでしょうか」
「きっと、思い出す時間が必要なのだ」
アルフォンスは微笑んだ。
自分を納得させるように。
「十六年も経ったのだからな」
「殿下。失礼ですが」
「何だ?」
「その女性は、本当に殿下との再会を望んでいたのでしょうか」
アルフォンスの眉が寄った。
「何を言う」
「いえ。殿下は十六年間、その方を想っておられました。しかし、その方は殿下が誰なのかさえ、ご存じなかった」
「だから何だ?」
「つまり……殿下が歩んできた十六年間と、その方が歩んできた十六年間は、まったく違うものだったのではありませんか」
「……違わない」
「殿下」
「違うはずがない!」
机を叩く音が響いた。
「私は、あの日からずっと……!」
セドリックは静かに頭を下げた。
「はい。殿下は、ずっと覚えておられました」
「ならば!」
「ですが」
側近は顔を上げた。
「覚えていたのは、殿下です」
「…………」
「殿下の記憶の中では、あの日の少女はずっと殿下と共にいたのでしょう」
「……そうだ」
「ですが、現実の彼女は違います」
セドリックの声は穏やかだった。
それが、かえって残酷だった。
「彼女は殿下のいない十六年間を生きてきたのです」
アルフォンスは何も言えなかった。
一方、その頃。
「ニールー!」
「……メリンダ?」
公園のベンチで、ニールが眠そうに顔を上げた。
「どうしたの? 今日は少し遅かったね」
「変なお客さんが来たの」
「変な?」
「昔、私が助けたらしい人」
「らしい?」
「覚えてないのよ」
メリンダは隣に腰を下ろした。
秋風が、二人の間を通り抜ける。
ニールは弁当箱を開けながら尋ねた。
「それで?」
「十六年前のことを覚えているだろうって言われたの」
「……十六年前?」
「そう。しかも、その人、私をずっと探していたんですって」
「へえ」
「でも私、そんなこと知らないじゃない?」
「うん」
「それなのに、覚えてないって言ったら、すごく傷ついた顔をするの」
メリンダは膝の上で指を組んだ。
「なんだか、私が悪いことをしたみたいで……」
ニールは箸を止めた。
「メリンダ」
「ん?」
「僕、翻訳の仕事をしていて思うんだけどね」
「うん」
「物語って、主人公が知っていることを読者も知っているように書かれることが多いんだ」
「そうね」
「でも、登場人物全員が同じことを知っているわけじゃない」
ニールは少し笑った。
「例えば、ある男が十六年間ずっと一人の女性を想っていたとする」
「……うん」
「男の視点で書けば、感動的な再会になるかもしれない」
「そうね」
「でも女性の視点で書いたら?」
メリンダは考えた。
そして、眉をしかめた。
「……知らない男の人が突然やってきて、十六年前のことを覚えていろって迫ってくる話?」
「そう」
「……怖いわね」
「うん。ちょっと怖いね」
二人は顔を見合わせた。
そして、同時に吹き出した。
「あははっ! そうよね! 怖いわよね!」
「しかも、覚えていないことを責められたら困るよね」
「そうなのよ!」
メリンダは大きく頷いた。
「私、その人の人生に責任なんて持てないもの!」
「そうだね」
「助けたことは後悔してないわ。でも、助けたからって、その人の望む私にならなきゃいけないわけじゃないでしょう?」
「もちろん」
ニールは、そっとメリンダの手を握った。
「僕は、今のメリンダが好きだよ」
「……もう」
頬が熱くなる。
「急にそういうこと言わないでよ」
「本当のことだから」
「……知ってる」
「うん」
「……でも、何度言われても嬉しいわ」
ニールは柔らかく微笑んだ。
「それはよかった」
木々の葉が、さらさらと音を立てた。
遠くで子供たちの笑い声がする。
メリンダはニールの肩に、そっと頭を預けた。
数日後。
アルフォンスは、再び店を訪れた。
今度は護衛を連れていなかった。
「……メリンダ」
「いらっしゃいませ」
メリンダはいつも通りに微笑んだ。
その笑顔が、アルフォンスの胸を締めつけた。
あの日と同じ笑顔。
自分が十六年間、心の支えにしてきた笑顔。
けれど。
その笑顔は、自分だけに向けられたものではなかった。
「……一つ、聞いてもいいか」
「はい?」
「君は、あの日のことを……本当に、何も覚えていないのか」
メリンダは少し困ったように笑った。
「はい」
「……そうか」
アルフォンスは俯いた。
胸の奥に、鈍い痛みが広がった。
期待していた答えは、もう得られない。
それでも、どうしても聞きたかった。
「もし……もし私が、あの日の少年だともっと早く伝えていたら」
「はい」
「君は、私を待っていてくれただろうか」
メリンダは目を瞬いた。
「……どうしてですか?」
「え?」
「どうして、待つ必要があるんですか?」
アルフォンスは言葉を失った。
「だって、殿下は無事にお家に帰れたんですよね?」
「……ああ」
「なら、よかったじゃありませんか」
メリンダは心から安心したように微笑んだ。
「助けた子が無事に帰れたなら、それで十分です」
「…………」
「それ以上、何か必要でした?」
アルフォンスの喉が詰まった。
必要だった。
自分には、必要だった。
あの日の少女が。
あの日の温もりが。
あの日の約束が。
――いや。
約束など、あっただろうか。
アルフォンスは記憶を辿った。
『大丈夫?』
『一緒に探そう』
『よかったね。もう迷子になっちゃ駄目よ』
それだけだった。
少女は、待っているとは言わなかった。
また会おうとも言わなかった。
名前さえ、交換していなかった。
ただ。
自分が、特別だと思っていただけだった。
「……そうか」
アルフォンスは小さく笑った。
笑ったつもりだった。
けれど、唇は震えていた。
「……君には、ただの一日だったのだな」
「そうですね。たぶん」
「私には……人生で一番、大切な日だった」
メリンダは少しだけ目を伏せた。
「それは、素敵な思い出ですね」
「……ああ」
「でも、殿下」
メリンダは優しく続けた。
「私にとっても同じ思い出でなければ、駄目ですか?」
アルフォンスは答えられなかった。
窓の外では、秋の陽光が石畳を照らしていた。
通りを歩く人々は、誰も王子の失恋など知らない。
世界は、何事もなかったように動いている。
「……いや」
長い沈黙の後、アルフォンスは答えた。
「駄目では、ない」
「そうですか」
「ああ……」
胸が痛かった。
けれど、それは彼女のせいではなかった。
自分が知っていた十六年間を。
彼女も知っているはずだと。
勝手に思い込んでいただけなのだから。
アルフォンスが去った後。
「メリンダ!」
聞き慣れた声がした。
「ニール!」
「今日は早く仕事が終わったから、迎えに来たよ」
「本当? じゃあ、帰りに市場に寄りましょう!」
「何か買うの?」
「夕飯の材料! 今日はあなたの好きな料理にするわ」
「嬉しいな」
「その代わり、今夜はちゃんと寝てね?」
「……努力する」
「努力じゃなくて約束!」
二人の笑い声が、夕暮れの街に溶けていく。
アルフォンスは、遠くからその姿を見ていた。
メリンダは笑っていた。
自分の知らない男の隣で。
自分の知らない話をして。
自分の知らない思い出を積み重ねて。
十六年間。
彼女は、自分を待ってなどいなかった。
当たり前だ。
彼女は、待つ理由さえ知らなかったのだから。
「……私は、何を知っていたのだろうな」
アルフォンスは小さく呟いた。
あの日の少女の笑顔。
あの日の焼き菓子の味。
あの日の雨の冷たさ。
それらは確かに覚えている。
けれど。
今の彼女が何を好きで。
何を嫌い。
誰と笑い。
どんな明日を望んでいるのか。
自分は、何一つ知らなかった。
それなのに。
自分は彼女のことを、誰よりも知っているつもりだった。
秋風が吹いた。
アルフォンスは静かに目を閉じた。
知っていることが多いほど、知らないことに気づけなくなる。
そんな皮肉を、ようやく理解した。
そして。
「……ありがとう、メリンダ」
十六年前には言えなかった言葉を、誰にも聞こえない声で呟いた。
彼女が振り返ることはなかった。
その言葉が届くこともなかった。
けれど、それでよかった。
感謝を伝えたいという自分の気持ちまで、相手に受け取る義務があるわけではないのだから。
翌朝。
「お母さーん! 昨日の香油、売り切れちゃった!」
「あら、すごいじゃない」
「新しく仕入れなきゃ!」
メリンダは帳簿を開いた。
今日も忙しい一日が始まる。
十六年前の迷子の少年のことは、もうほとんど考えていなかった。
王子が何を思い、何を悟ったのかも知らない。
知る必要もなかった。
ただ一つ、確かなことがある。
彼女は今日も、自分の人生を生きている。
誰かの思い出の中の少女としてではなく。
誰かの運命の相手としてでもなく。
商売が好きで、恋人が大切で、明日の売り上げが気になる、一人の女性として。
カラン、コロン。
「いらっしゃいませ!」
今日も彼女は笑う。
その笑顔を、誰かが一生忘れないかもしれない。
けれど彼女は、そんなことを知らない。
そして、知らないままでいい。
誰かの人生で特別だったという事実は、その人の人生を背負う義務にはならないのだから。
――完。
この短編では、認知バイアスの一つである「知識の呪縛」を、王子の十六年間の記憶とメリンダの何気ない日常との落差で描きました。王子は自分にとって自明な物語をメリンダも共有していると思い込み、彼女が知らないという可能性を想像できなくなっています。
さらに、王子が自分の期待に合うようにメリンダの反応を「照れているだけ」と解釈する確証バイアスも重ねています。物語の中心は、王子の恋が叶うかどうかではなく、「自分にとっての真実が、相手にとっても同じ意味を持つとは限らない」という気づきです。




