『砂の波、赤いスプーン』フォルス・メモリー
三階建ての小さな実家の、二階のいちばん奥の部屋。
母が亡くなって四十九日が過ぎ、遺品整理のために段ボール箱を抱えて上がったその部屋は、西日が障子を朱色に染めていた。
「これ、あんたのだろ?」
階下から上がってきた兄が、埃をかぶった桐の小箱を差し出した。
中に入っていたのは、古びた真鍮の鍵と、角の丸くなったチェキの写真が一枚。
小学四年の夏、家族で行った伊豆の海岸。
夕暮れの防波堤で、小学三年生の私が、真っ赤に腫らした目で泣きじゃくっている写真だ。
その私の肩を、優しく抱き寄せている母の横顔。
指先でその写真を撫でた瞬間、胸の奥からあの日の熱気と匂いが鮮やかに立ち上がった。
――あの夕暮れ、私は浜辺で迷子になったのだ。
遠くで波の砕ける音がしていた。母の手を離してきれいな桜貝を追いかけているうちに、家族のテントが見えなくなった。夕陽が沈み、海が藍色から黒へと変わっていく恐怖。暗い波打ち際で「お母さん、お母さん」と泣き叫びながら、裸足で砂浜を駆け回った。
足の裏に貝殻が刺さり、血が出た。心臓が早鐘のように鳴り、もう二度と家族に会えないのだと絶望したその時――。
人混みをかき分け、息を切らし、サンダルを引きずりながら走ってきた母が、私を見つけて抱きしめてくれたのだ。
『ごめんね、怖かったね。もう大丈夫、ずっとそばにいるから』
母の首筋から漂う、汗と日焼け止めの甘い匂い。母の心臓の鼓動が、私の胸に重なっていた。
あのとき母が抱きしめてくれたから、私は暗闇を恐れずに育つことができた。人生のどんな苦しい夜も、あの母の腕の温もりを思い出せば乗り越えられた。私にとって、それは魂の真ん中に埋め込まれた楔のような、絶対の記憶だった。
「懐かしいな……この写真」
私は少し目を潤ませながら、兄にチェキを見せた。
「私、この時ほんとうに怖かったんだよ。迷子になって、泣き叫んで。でも、お母さんが息を切らして迎えに来てくれたでしょ。あの時の『大丈夫』って声、今でも耳に残ってる」
兄は写真を受け取り、眉を寄せてしばらく眺めていた。
そして、不思議そうな顔をして私を見返した。
「……何言ってんだよ、お前」
「え?」
「お前、迷子になんかなってないぞ」
部屋の空気が、ふっと冷えた。
「何を冗談言ってるのよ。私、貝殻で足を切って血まで流したのよ? お母さんが抱きしめてくれて、泣き止むまで背中をトントン叩いてくれたじゃない」
兄は困惑したように息を吐き、静かに首を横に振った。
「違うよ。迷子になったのは、お前じゃなくて隣のロッジに泊まってた男の子だ」
「……え?」
「ほら、思い出しなよ。その男の子がいなくなって、浜中が大騒ぎになってさ。お袋も近所の人たちと一緒に探しに行ったんだ。お前は車の中で待ってろって言われたのに、砂浜に置いてあったかき氷を砂の上に落としちゃってさ。お気に入りのシロップをこぼしたって、一人で大泣きしてたんだよ」
頭の中で、砂の城が崩れるような乾いた音がした。
「そんなはずない。だって、私……母さんに抱きしめられて、『怖かったね』って……」
「お袋が戻ってきた時、お前がいつまでもワーワー泣いてるから、『もう、泣かないの。かき氷くらいまた買ってあげるから』って笑いながら抱き起こしたんだ。俺が面白がって、その泣き顔をチェキで撮ったんだよ」
兄の言葉は、あまりにも淡々としていて、曖昧さがなかった。
私は息を詰めて写真を見直した。
よく見ると、母の表情は悲痛な安堵ではなく、どこか呆れたような、苦笑交じりの優しい顔をしていた。そして私の右手には、砂まみれの小さなプラスチックのスプーンが握られていた。
貝殻で切った足の痛みは?
暗闇の波打ち際で覚えた、あの死ぬような恐怖は?
母の荒い息遣いと、汗の匂いは?
ぜんぶ、嘘だったというのか。
誰かの迷子の騒ぎと、自分がかき氷をこぼして泣いた記憶と、テレビか絵本で見た何かの情景が、三十年の歳月の中で勝手に混ざり合い、完璧な「ひとつの真実」として私の脳内に編み上げられていただけなのか。
あんなに鮮明で、あんなに温かく、私という人間の根っこを支えていたはずの記憶が、ただの脳の錯覚――フォルス・メモリー。
指先が震え、畳の上にチェキが落ちた。
私は、存在しなかった母の愛を胸に抱いて、今日まで生きてきたのだろうか。
胸の中にぽっかりと、黒い底なしの穴が空いたような気がした。
「……でもさ」
兄が、畳に落ちた写真を拾い上げ、埃を指で払った。
「お前が泣き止まないから、お袋、売店まで走って新しいイチゴのかき氷、買ってきてくれたんだよ。もう店じまいしかけてたのに、頼み込んでさ。お前の機嫌を直すためだけに」
兄は笑って、写真を私の手のひらに戻した。
「お袋、お前のこと甘やかしすぎだったよな。いつもそうだった」
手のひらの中の小さな写真。
夕暮れの光の中で、母の腕は確かに幼い私を抱きしめている。
迷子を救い出した劇的な抱擁ではなかったかもしれない。
波打ち際の奇跡なんかではなかった。
けれどそこにあったのは、砂まみれになって駄々をこねる娘のために、夕暮れの浜辺を走って甘い氷を買いに行ってくれるという、もっと泥臭くて、平凡で、変わらない愛だった。
「……うん」
私は小さく頷いた。
記憶は嘘をつく。心は自分に都合のいいように物語を書き換えてしまう。
けれど、書き換えられた虚構の底にも、確かに誰かが注いでくれた温度だけは、形を変えて息づいている。
私は写真をそっと胸ポケットにしまい、まだ片付けの終わらない段ボール箱へと、もう一度手を伸ばした。




