認知バイアスと舌先現象
認知バイアスと舌先現象
秋の終わりになると、真由子は決まって焦るようになった。窓際に干した洗濯物がなかなか乾かず、夕方になると少し湿ったタオルの匂いが部屋に残る。七十二歳になった今も読書が好きで、本棚には文学全集や推理小説がぎっしり並んでいるのに、最近は作家の名前が喉まで出かかっているのに思い出せないことが増えていた。食卓には朝の残りのアジの開きとぬるくなった味噌汁が置かれ、真由子は箸を持ったまま首をひねる。思い出せないこと自体よりも、「知っているはずなのに出てこない」という妙な感覚が気味悪く、頭の中に白い霧がかかったような気分になるのだ。
「ほら、あの人よ。猫が出てくる小説を書いた……ええと、なんだっけ」
独り言を言いながら、真由子はテーブルの上を指でとんとん叩いた。名前の最初の文字は「な」だったような気もするし、「か」だったような気もする。居間では古い石油ストーブが小さな音を立て、やかんの湯気が白く揺れている。焦れば焦るほど思い出せなくなることは経験で知っているのに、人間というものは不思議なもので、頭の中を何度も探してしまう。まるで引き出しの中に鍵を落としているのに、同じ場所ばかり探しているようなものだと真由子は思った。
「舌先現象ってやつかしらね」
その日の午後、訪問看護師の奥田がやって来た。真由子は灰色のカーディガンを羽織り、居間のこたつの上にみかんを並べて待っていた。奥田は血圧を測りながら、散らかった机の上に置かれたメモ帳を見つける。そこには「猫」「小説」「な?」「夏?」と大きな字で書かれていた。真由子は少し恥ずかしくなって、みかんの皮をむきながら顔をそむける。年を取ると何でも忘れると思われそうで嫌だったが、本当は忘れたのではなく、思い出す道が混雑しているだけではないかという気もしていた。
「名前が出てこないんです。知ってるのに。もう頭が壊れたのかと思って」
奥田は笑いながら首を振った。
「それ、舌先現象ですよ。知識が消えたんじゃなくて、取り出せないだけです」
「そうなの?」
「ええ。しかも、焦ると余計に出てこないんです。認知バイアスも関係していて、『最近忘れっぽいから私は駄目なんだ』って思い込むと、忘れた出来事ばかり覚えてしまうんですよ」
真由子はみかんを一房口に入れた。甘さより少し酸味が強くて、舌の奥がきゅっと縮む。言われてみればそうだった。昨日の夕飯を覚えている日もあるし、友達の誕生日をちゃんと覚えていることもあるのに、失敗した時だけ大げさに記憶している。都合の悪い証拠ばかり集めて、自分で自分を裁判にかけているようなものだ。
「認知バイアスって嫌なやつね」
「でも誰にでもありますよ。私だってあります」
「若い人にも?」
「あります。人間の脳の癖ですから」
奥田がそう言うので、真由子は少し肩の力を抜いた。こたつ布団の端を指で撫でながら、そういえば若い頃も同じことをしていたと思い出す。台所で塩を取りに行ったのに、何をしに来たのか忘れてぼんやり立っていたことがある。夫に笑われて悔しくて、あとでこっそり泣いたこともあった。あの頃は老化ではなく、子育てと仕事で頭がいっぱいだっただけなのだ。
「結局、人間って昔から変わらないのかもしれないわね」
「そうかもしれませんね」
夕方、奥田が帰ったあと、真由子は食器を洗いながら鼻歌を歌っていた。窓の外では雨が降り始め、街灯の光が濡れた道に細く伸びている。ふと、あの作家の名前が頭に浮かんだ。なんの前触れもなく、洗剤の泡を流している最中に、ぽん、と現れたのだ。
「そうだ、夏目漱石!」
真由子は思わず声を上げて笑った。あれほど考えても出てこなかったのに、諦めた途端に現れるなんて、人間の脳は本当に気まぐれだ。濡れた手をエプロンで拭きながら、真由子は急いでメモ帳に名前を書き込む。机の上には「猫」「小説」「な?」と書かれた古い走り書きが残っていて、その横に大きく「夏目漱石」と付け足した。
「ほらね、まだちゃんと覚えてるじゃない」
誰に聞かせるでもなくそう言うと、部屋の空気が少し温かくなった気がした。忘れることは増えても、思い出そうとする気持ちはまだ消えていない。真由子は夕飯の湯豆腐を火にかけ、昆布の匂いが広がる台所で、明日は図書館へ行こうと決めた。きっとまた名前を忘れる日もあるだろう。でも、そのたびに笑って思い出せばいい。人間の脳は案外いい加減で、だからこそ愛おしいのだから。




