「あなたと結婚できてよかった」
「あなたと結婚できてよかった」
冬の終わりの夕暮れだった。
窓ガラスの向こうでは、小さな雪がちらちらと舞っている。古い団地の五階にある小さな部屋は、石油ストーブの熱でほんのり暖かく、味噌汁の湯気が白く漂っていた。
台所では、綾乃が菜箸で卵焼きを返していた。淡い生成り色のニットの袖をまくり、髪を後ろでゆるく束ねている。醤油の香ばしい匂いと、焼きたての鮭の脂の香りが混ざり合い、狭い部屋いっぱいに広がっていた。
玄関のドアが重たく開く。
「ただいま……」
夫の誠司が帰ってきた。
濃紺の作業着の肩にはうっすら白い粉塵がつき、冷たい外気の匂いをまとっている。革靴を脱ぐ動作にも疲れが滲んでいた。
「おかえりなさい」
綾乃はぱっと顔を明るくした。
「寒かったでしょう。今日は豚汁、たくさん作ったの」
誠司は「ああ」とだけ答えた。
昔はもっとよく笑う人だった。
けれど工場の責任者になってから、誠司は少しずつ無口になった。帰宅してもテレビをぼんやり眺めるだけで、食事中もため息が増えた。
綾乃は食卓へ湯気の立つ豚汁を置いた。大根、人参、ごぼう、こんにゃく、厚切りの豚肉。味噌の匂いがじんわり鼻をくすぐる。
「いただきます」
誠司は箸を持った。
一口すすり、ふっと息を吐く。
「……うまい」
その声を聞くだけで、綾乃の胸は少し温かくなる。
「よかった」
綾乃は白米をよそいながら、柔らかく言った。
「いつも頑張ってくれてありがとうね」
誠司は少し眉を動かした。
「急にどうした」
「だって本当のことだもの」
綾乃は笑う。
「毎日遅くまで働いてくれて、私を大切にしてくれてるでしょう?」
誠司は照れ隠しのように味噌汁を飲んだ。
「別に普通だ」
「ううん、普通じゃないわ」
綾乃は真っ直ぐ夫を見る。
「あなたと結婚できて、本当によかった」
ストーブの上のやかんが小さく鳴った。
誠司はしばらく黙り込み、やがて低く呟く。
「……そんなこと、久しぶりに言われたな」
その夜、綾乃は布団へ入りながら思った。
誠司は優しい人だ。
けれど最近、自分でそれを忘れかけている。
だからこそ、言葉で思い出してほしかった。
翌朝。
まだ薄暗い時間に誠司は仕事へ向かう支度をしていた。灰色のセーターの上に作業着を羽織り、無言で腕時計をつける。
綾乃は眠そうな目を擦りながら玄関へ来た。
「お弁当、鶏の照り焼き入れてあるからね」
「悪いな」
「ううん」
綾乃はマフラーを巻いてやりながら微笑む。
「今日もかっこいいわ」
「……やめろよ」
「本当に思ってるの」
誠司は耳を赤くしたまま、ぶっきらぼうに靴を履いた。
「行ってくる」
「いってらっしゃい。いつもありがとう」
ドアが閉まったあと、綾乃は小さく笑った。
その日を境に、少しずつ変化が始まった。
最初は小さなことだった。
脱ぎっぱなしだった靴下を洗濯籠へ入れるようになった。
飲み終えた缶コーヒーをきちんと片づけるようになった。
ある夜など、綾乃が食器を洗っていると、誠司が後ろへ立った。
「拭く」
「え?」
「皿、拭くよ」
綾乃は目を丸くした。
誠司は照れ臭そうにタオルを持つ。
「いつもお前ばっかりやってるだろ」
台所には洗剤の柑橘系の香りが漂い、窓の外では夜風が小さく鳴っていた。
綾乃は胸がじわりと熱くなる。
「ありがとう」
「……こっちの台詞だ」
誠司はぽつりと言った。
それから数週間後。
休日の午後、綾乃は近所のスーパーから帰ってきた。白い息を吐きながら玄関を開けると、部屋の中から出汁の香りが漂ってくる。
「え?」
台所には誠司が立っていた。
黒いトレーナーの袖をまくり、不器用そうに包丁を握っている。
鍋の中では肉じゃががぐつぐつ煮えていた。
「せ、誠司?」
「今日は俺が作る」
「どうしたの急に」
誠司はじゃがいもを混ぜながら言う。
「お前、いつも俺に『ありがとう』って言うだろ」
綾乃は静かに頷いた。
「最初は照れくさかった。でも、毎日言われてるうちに……俺、本当に大事にされてるんだなって思った」
湯気がふたりの間を柔らかく包む。
「そしたらさ」
誠司は少し笑った。
「俺も、お前をもっと大事にしたくなった」
綾乃の喉が熱くなった。
誠司は続ける。
「人間って不思議だな。『優しい』って言われ続けると、そうありたくなるんだ」
肉じゃがの甘い匂いが部屋いっぱいに広がる。
窓の外では、夕焼けが雪雲を薄桃色に染めていた。
食卓には、誠司の作った少し形の崩れた肉じゃがと、綾乃の作ったほうれん草のお浸し、炊きたての白米が並んだ。
「味どうだ」
誠司が不安そうに聞く。
綾乃はじゃがいもを口へ運んだ。
少し濃い味付けだった。
でも、胸がいっぱいになるほど美味しかった。
「すごく美味しい」
綾乃が笑うと、誠司も照れくさそうに笑った。
「ならよかった」
食後、誠司は湯呑みに熱いお茶を注いだ。
湯気の向こうで、昔のような穏やかな目をしている。
「なあ、綾乃」
「なに?」
「俺も言う」
誠司は少し恥ずかしそうに頭を掻いた。
「お前と結婚できてよかった」
その瞬間、綾乃の胸の奥で何かがふわりとほどけた。
外では雪が静かに降っている。
けれど小さな団地の一室だけは、春の灯りみたいに温かかった。
人は、責められると縮こまる。
でも、「あなたは大切な人だ」と言われ続けると、その言葉に似合う自分でいたくなる。
優しい言葉は、魔法ではない。
けれど、凍えた心を少しずつ溶かし、人を本来の温かい姿へ戻していく力を持っているのだった。




