春灯りの診察券
春灯りの診察券
朝から細かな雨が降っていた。
古い商店街のアーケードを打つ雨音はさらさらと柔らかく、濡れた石畳には薄い灰色の空が映っている。喫茶「春灯り」の店先では、小さな銅色のベルが風に揺れて、ちりん、と静かな音を鳴らしていた。
店の奥では、店主の真紀がコーヒー豆を挽いていた。焦げ茶色のリネンのエプロンには白い小麦粉の跡が少しだけついている。栗色の髪を後ろでひとつに束ね、湯気の向こうで目を細めた。
「今日は冷えるわねえ」
カウンター席で新聞を広げていた青年が顔を上げた。
「ほんとですね。春なのに冬みたいだ」
青年の名は悠斗。近くの印刷会社で働いている。生成り色のタートルネックに紺色のカーディガンを羽織り、まだ少し眠たそうな顔でコーヒーカップを両手に包んでいた。
喫茶店の窓ガラスには細かな水滴が連なり、外を歩く人々の姿をぼんやり歪めている。
その時、入口のベルが鳴った。
「お、おはようございます……」
入ってきたのは七十を過ぎた常連客の藤岡だった。くたびれたベージュのコートは肩が濡れ、黒い革靴にも雨粒がついている。けれど何より目立ったのは、その険しい顔だった。
藤岡はいつも不機嫌だった。
誰かが少しでもぶつかれば舌打ちをし、レジで待たされれば文句を言う。商店街では「怒鳴り屋の藤岡さん」と陰で呼ばれていた。
「いらっしゃいませ、藤岡さん」
真紀はいつもと変わらない柔らかな声で迎えた。
藤岡は黙ったまま席へ座る。
「ブレンドだ」
「かしこまりました」
真紀は丁寧に湯を落とした。深煎りの香ばしい香りが店いっぱいに広がる。ぽた、ぽた、と琥珀色の雫がカップへ落ちる音は、雨音に混じって心を落ち着かせた。
悠斗が小声で言う。
「真紀さんってすごいですよね。あんなに怖い人にも普通に接して」
真紀は小さく笑った。
「本当は怖いわよ。でもね、藤岡さん、悪い人じゃないと思うの」
「ええ? でもいつも怒ってません?」
「怒ってる人って、案外ずっと寂しいのかもしれないわ」
その時だった。
藤岡がポケットを探り始めた。
「あれ……」
眉間に深い皺が寄る。
「どうしました?」
「診察券がない……」
声に焦りが滲んでいた。
「病院の予約が今日なんだ。財布に入れたはずなんだが」
テーブルの上へ小銭やレシートを乱暴に広げる。乾いた指先が震えていた。
「落ち着いてください。最後に見たのはいつです?」
真紀が静かに尋ねる。
「知らん……さっき薬局で出した気もする」
「探してきます!」
悠斗が立ち上がった。
「お、おい、悪いな」
藤岡は戸惑ったように言った。
悠斗は傘を開いて雨の中へ飛び出していく。
店内にはしばらくコーヒーの香りと時計の針の音だけが漂った。
藤岡は居心地悪そうに俯いている。
真紀は温めたミルクを小皿に添えながら言った。
「藤岡さんって、本当はすごく几帳面ですよね」
「は?」
「診察の日を忘れずに来るし、お薬もちゃんと飲んでる。机の上もいつも綺麗に片づけてるでしょう?」
藤岡は目を瞬かせた。
「……まあ、散らかってるのは嫌いだ」
「そういうところ、素敵だと思います」
真紀は自然な口調で言った。
藤岡は急に黙り込む。
湯気の向こうで、その耳が少し赤くなっていた。
十分ほどして、入口のベルが勢いよく鳴った。
「ありました!」
悠斗が息を切らせながら駆け込んでくる。髪から雨粒がぽたぽた落ちていた。
「薬局のカウンターに置きっぱなしでした」
「おお……!」
藤岡は立ち上がった。
「すまん、若いの」
「間に合ってよかったです」
藤岡は診察券を両手で受け取り、しばらく黙っていた。
やがて低い声で言う。
「……わしは昔から、怒ってばかりだ」
真紀と悠斗は静かに聞いていた。
「工場で働いてた頃はな、怒鳴らなきゃ下に舐められると思ってた。気づいたら、それしか話し方を知らなくなった」
窓の外では雨が少し弱くなっていた。
「でもさっき、お前さんに『几帳面だ』なんて言われて……なんだか妙な気分になった」
藤岡はぎこちなく笑う。
「そんなふうに言われたこと、何十年もなかったからな」
真紀はそっと頷いた。
「人って、期待された通りになろうとするところがあるんですよ」
「期待?」
「ええ。『あなたはちゃんとしてる人だ』って言われると、本当にそうありたくなるんです」
藤岡は黙った。
それからゆっくり周囲を見回した。
空になったカップ。
少し乱れていたシュガーポット。
藤岡は無言でそれをきちんと整えた。
「……こういうのでいいのか」
真紀はふわりと笑った。
「はい。とても素敵です」
藤岡は照れくさそうに咳払いした。
「じゃあ今度から、怒鳴る前に深呼吸くらいはしてみるか」
「ぜひお願いします」
悠斗が笑う。
店の外では、雲の切れ間から薄い春の光が差し始めていた。
濡れた石畳が淡く光り、雨上がりの匂いが街へ広がっていく。
藤岡は帰り際、扉の前でふと振り返った。
「……コーヒー、美味かった」
それだけ言って、不器用に片手を上げる。
ベルがちりん、と鳴った。
真紀はその背中を見送りながら、小さく目を細めた。
誰かを変えるのは、大きな説教じゃない。
「あなたは素敵な人だ」と先に信じる、その一言なのかもしれなかった。




