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視線の先の答え 賢馬ハンス効果 実験者効果

視線の先の答え


初夏の風が、古びた厩舎の藁をさらさらと揺らしていた。


山あいの町にある小さな乗馬クラブ「青葉ファーム」は、朝露の匂いと青草の甘い香りに包まれている。遠くでは鶯が鳴き、まだ薄青い空には細い雲がゆっくり流れていた。


厩舎の前で、夏希は長靴の泥を軽く叩き落とした。ベージュの作業ズボンに白いシャツ、その上から薄いカーキ色のベストを羽織っている。額にはうっすら汗が滲み、結んだ黒髪が首筋へ張りついていた。


「おはよう、ルーク」


夏希が声をかけると、一頭の栗毛馬が鼻を鳴らした。


大きな黒い瞳。


艶やかな毛並み。


鼻先からは温かな息がふわりと漂う。


ルークは賢い馬だった。人の感情に敏感で、相手が不安なら落ち着きを失い、相手が穏やかなら静かになる。


「今日も男前だねえ」


夏希が額を撫でると、ルークは嬉しそうに耳を動かした。


そこへ、クラブの経営者である高瀬が姿を見せた。五十代半ばの大柄な男で、焦げ茶色の革ベストを着込み、日に焼けた腕を組んでいる。


「夏希、今日は大学の先生が来るんだろ」


「はい。馬の行動実験を見たいって」


「また難しいことするんだなあ」


高瀬は笑った。


しばらくして、白いワゴン車が砂利道へ入ってきた。


降りてきたのは三人の大学研究者だった。


細身で眼鏡をかけた教授の朝倉、明るい茶色のジャケットを着た助手の真理子、そしてノートを抱えた院生の青年。


「本日はよろしくお願いします」


朝倉は丁寧に頭を下げた。


「こちらこそ」


夏希も会釈する。


その日の実験は、馬が人間の指示をどこまで理解しているかを確かめるものだった。


広場へ木製の板が置かれ、数字が書かれている。


「例えば二足す三は五ですよね」


真理子が説明する。


「その答えの数だけ、馬が前脚で地面を叩けるか観察するんです」


高瀬が吹き出した。


「馬が計算するってことか?」


「ええ、過去にはそう言われた例もあるんですよ」


夏希は少し興味深そうにルークを見た。


「ルーク、できる?」


ルークはただ鼻を鳴らした。


実験が始まった。


「一足す二は?」


朝倉が問いかける。


ルークは前脚を鳴らす。


コン、コン、コン。


ぴたりと三回。


「おお……!」


院生が目を丸くした。


続いて。


「四足す一は?」


コン、コン、コン、コン、コン。


「五回だ!」


高瀬まで驚いている。


夏希も思わず笑った。


「すごいじゃない、ルーク」


ルークは得意げに耳を立てる。


だが、実験を続けるうち、朝倉の表情は少しずつ険しくなっていった。


「……妙ですね」


「何がです?」


真理子が尋ねる。


朝倉は腕を組んだ。


「馬が答えを知っているというより、人間の反応を読んでいるように見える」


「反応?」


「ええ」


朝倉はルークの前へ立った。


「人は無意識に期待すると、身体が微妙に動くんです。視線、呼吸、肩の緊張……本人も気づかないほど小さく」


夏希は首を傾げた。


「そんなことで?」


「動物は人間より敏感ですから」


朝倉は地面に数字を書いた。


「では次は、出題者が答えを知らない状態でやりましょう」


院生が紙を引き、問題を確認する。しかし朝倉にも夏希にも答えは見えない。


「では……始めてください」


ルークは脚を鳴らした。


コン。


コン。


コン。


四回目を鳴らしかけて止まる。


そして困ったように鼻を鳴らした。


「……外れましたね」


真理子が呟く。


何度やっても同じだった。


さっきまで完璧だったルークは、急に迷い始めた。


高瀬がぽりぽり頭を掻く。


「つまり、馬が計算してたんじゃないのか」


朝倉は頷いた。


「ええ。人間の無意識の反応を読んでいたんです」


夏希は驚きながらルークを見つめた。


栗色の大きな瞳は静かで、どこか誇らしげだった。


「すごい……」


「はい。馬は人間のわずかな変化を感じ取るんです」


朝倉は優しく言った。


「期待している時、人はほんの少し前のめりになります。正解に近づくと呼吸が浅くなる。馬はそれを見ている」


夏希は胸の奥がざわりとした。


自分も、ルークへ無意識に合図を送っていたのだ。


昼になり、一同はクラブハウスで食事を囲んだ。


木のテーブルには、湯気の立つビーフシチュー、焼きたての丸パン、レタスとトマトのサラダが並ぶ。バターの香りが温かな空気へ溶けていた。


「美味しいですね」


真理子が頬を緩める。


「高瀬さんの奥さんの料理なんです」


夏希が答える。


窓の外ではルークがのんびり草を食べていた。


朝倉はコーヒーを飲みながら言う。


「人間って、自分が思う以上に周囲へ影響を与えてるんですよ」


「影響……」


夏希が呟く。


「ええ。教師が期待すれば生徒は伸びる。逆に『この子は駄目だ』と思えば、その空気は伝わる」


高瀬が苦笑した。


「耳が痛えな」


「動物も同じです」


朝倉は窓の外を見る。


「怖がりながら触れれば馬も不安になる。信じれば落ち着く。生き物は、相手の無意識を感じ取るんです」


夏希は静かにルークを見た。


思い返せば、自分が落ち込んでいる日はルークもそわそわしていた。


笑っている日は穏やかだった。


「ルークは、ずっと私を見てたんだ」


夕方、研究者たちは帰っていった。


空は茜色に染まり、乾いた藁の匂いに夕風が混じる。


夏希は厩舎でルークの毛並みをブラシで整えていた。


「今日はありがとう」


ルークはふっと温かな鼻息をこぼす。


「あなた、本当に人を見るのが上手ね」


するとルークは、まるで分かっているように小さく首を傾げた。


夏希は笑った。


「じゃあ私も気をつけなきゃ。怖い顔してたら、あなたに全部伝わっちゃうものね」


外では蝉が鳴き始めていた。


暮れていく空の下で、夏希はそっとルークの額へ額を寄せる。


人は言葉だけで生きているわけではない。


視線。


呼吸。


沈黙。


期待。


そういう小さなものが、知らないうちに相手へ届いている。


だからこそ、人に向ける心は、できるだけ温かいものでありたい。


ルークの静かな瞳を見つめながら、夏希はそんなことを思うのだった。




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