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大丈夫なはずだった

大丈夫なはずだった


胸の奥に小さな違和感があった。


けれど佐伯美咲は、それを見ないようにしていた。


見てしまえば怖いからだ。


認めてしまえば、今まで積み上げてきた日常が崩れてしまう気がした。


六月の終わり。


湿った風が街路樹の葉を揺らしている。


美咲は駅前のスーパーから帰る途中だった。


白いブラウスに紺色のロングスカート。買い物袋の中には特売だった鶏もも肉と人参、玉ねぎ、キャベツ、それから夫の好きなプリンが入っている。


夕方の住宅街には夕食の匂いが漂っていた。


焼き魚。


カレー。


味噌汁。


どこかの家から子供の笑い声が聞こえる。


そんな何気ない景色を見ながら、美咲は自分に言い聞かせていた。


大丈夫。


きっと大丈夫。


そう思わなければ不安に押し潰されそうだった。


家に帰ると夫の健一はまだ帰宅していなかった。


時計を見る。


午後七時。


以前ならもう帰っている時間だ。


最近は残業ばかりだった。


美咲は夕食の準備を始めた。


包丁で玉ねぎを刻む。


まな板を叩く音が静かな台所に響く。


ふと目に涙が滲んだ。


玉ねぎのせいだと思った。


そういうことにしておきたかった。


八時。


九時。


十時。


連絡はない。


スマートフォンの画面は沈黙したままだ。


「仕事が忙しいだけよね」


誰もいない部屋で呟く。


「今の時代、残業なんて普通だもの」


そうだ。


普通だ。


特別なことじゃない。


そう思おうとした。


だが胸の奥のざわつきは消えなかった。


翌日。


会社の同僚と昼食を食べていた時だった。


同僚の由香が何気なく言った。


「昨日さ、駅前のイタリアン行ったんだけど」


美咲はパスタを口に運びながら聞いていた。


「健一さん見かけたよ」


フォークが止まる。


心臓が一度大きく跳ねた。


「え?」


「女の人といた」


空気が遠くなる。


レストランのざわめきが水の中から聞こえるようだった。


だが次の瞬間、美咲は笑った。


「仕事関係じゃない?」


自分でも驚くほど自然な笑顔だった。


由香は少し困った顔をした。


「そうかな」


「営業だし」


「うん……」


話はそこで終わった。


終わったはずだった。


けれど帰宅してからも、その言葉は頭の中を回り続けた。


女の人といた。


女の人といた。


女の人といた。


だが美咲は考えるのをやめた。


きっと仕事。


きっと偶然。


きっと勘違い。


そう結論づけた。


それ以外の答えは怖かったからだ。


数週間後。


洗濯物を片付けていた時だった。


健一のシャツのポケットからレシートが落ちた。


高級レストラン。


二名利用。


金曜日。


その日は出張だと言っていた日だった。


美咲の指先が冷える。


だが彼女はレシートを丸めて捨てた。


「たまたまよね」


声に出して言った。


「会社の人と食事しただけ」


胸が苦しい。


苦しいのに認められない。


認めたら終わってしまう気がした。


人は不思議だ。


危険が近づいていると分かっていても、すぐには受け入れられない。


むしろ何も変わっていないと思い込もうとする。


それまでの日常を守ろうとする。


美咲もそうだった。


変化より安心を選んだ。


真実より慣れ親しんだ日常を選んだ。


だから見ないふりをした。


見ていないことにした。


秋になった。


窓から入る風が冷たい。


夕食は肉じゃがだった。


湯気の向こうで健一がテレビを見ている。


美咲は思い切って尋ねた。


「最近忙しいの?」


健一は箸を止めなかった。


「そうだな」


「大変ね」


「まあな」


会話は終わる。


以前ならもっと話した。


笑い合った。


休日の予定を立てた。


それなのに今は静かだった。


静かすぎた。


食卓には肉じゃがの甘い匂いが漂っている。


味噌汁からは出汁の香りが立ち上る。


けれど何を食べても味がしない。


その夜。


美咲は眠れなかった。


隣では健一が寝息を立てている。


天井を見つめながら考えた。


私は何を怖がっているのだろう。


本当は分かっている。


分かっているのに認めたくないだけだ。


大丈夫だと思いたい。


今まで通りだと思いたい。


それが正常化バイアスだった。


異常が起きているのに、正常だと思い込む心の働き。


危険を前にしても、


「まさか自分は大丈夫」


と思ってしまう。


美咲はゆっくり目を閉じた。


胸の奥で何かが崩れる音がした。


それは結婚生活そのものではない。


幻想だった。


何も変わっていないという幻想。


明日も昨日と同じだという幻想。


その幻想が、静かに壊れ始めていた。


そして彼女はまだ知らない。


真実を知ることよりも、真実を認めることの方がずっと勇気がいるのだということを。



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