正常化バイアス:嵐の夜のディナー
正常化バイアス:嵐の夜のディナー
「ねえ、本当に大丈夫なの?」
涼子が尋ねた声は、自分でも驚くほど上ずっていた。心臓が肋骨の裏側を激しく叩き、喉の奥がカラカラに乾いている。恐怖がじわじわと皮膚を這い上がり、鳥肌が立っていくのが分かった。外からは、バリバリと空を引き裂くような雷鳴と、家全体を揺らすほどの猛烈な風の音が響いている。ガラス窓が風圧でミシミシと悲鳴を上げるたび、涼子は肩をすくめた。
「何がだよ。ただの台風じゃないか。大げさだなあ」
夫の修一は、ソファに深く腰掛けたまま、のんびりとした声を返した。その顔には焦りの色など微塵もない。それどころか、テレビのバラエティ番組を見つめながら、口元に薄い笑みさえ浮かべている。
涼子は修一のその態度に、猛烈な焦燥感と苛立ちを覚えた。どうしてこの人はこんなに平気でいられるのだろう。スマートフォンの警報はさっきから何度も、この地域に「緊急避難指示」が出たことを告げている。避難所へ向かうなら、もう一刻の猶予もないはずだった。
「でも、避難指示が出てるのよ? 隣の川が氾濫するかもしれないって、さっきのアナウンスでも言ってたじゃない」
涼子は着ていたお気に入りのサックスブルーの綿ニットの袖を、不安を紛らわせるようにぎゅっと握りしめた。下にはき慣れたベージュのチノパンを合わせているが、いつでも外に飛び出せるように、すでにスニーカーを玄関に出してある。
「大丈夫だって。この家を建ててからもう十年になるけど、一度も床下浸水すらなかったんだぞ。あの川が溢れるわけがない。テレビでもよく言うだろ、避難中に事故に遭う方が危ないって。こんな暴風雨の中を外に出る方が自殺行為だよ」
修一はそう言って、着古したグレーのスウェットの首元をポリポリと掻いた。彼の言葉は一見理路整然としているように聞こえたが、涼子の胸のざわつきは一向に収まらなかった。それどころか、冷たい汗が背中を伝い落ちていく。
「でも、今回は観測史上最大級の台風だって……」
「毎回そう言うんだよ、メディアは。視聴率を稼ぎたいから大げさに騒ぐんだ。ほら、そんなことより夕飯にしよう。お腹が空いたよ」
修一は立ち上がり、キッチンへと向かった。
涼子は諦めと不安が混ざり合ったため息をつき、重い足取りで台所に立った。今夜のメニューは、昼間のうちに仕込んでおいたビーフシチューだった。鍋の蓋を開けると、赤ワインとデミグラスソースの濃厚で香ばしい香りが湯気とともに立ち上り、ふわりと鼻腔をくすぐる。いつもなら食欲をそそるそのご馳走の匂いも、今の涼子にとっては、どこか現実味のない、上滑りした香りに感じられた。
「ほら、美味そうだ。やっぱり家で食べる飯が一番落ち着くな」
ダイニングテーブルについた修一は、スプーンを手に取ると、嬉しそうにシチューを口に運んだ。
「うん、肉が柔らかくて最高に美味い。涼子も食べなよ。冷めたらもったいない」
「私は……あんまりお腹が空いてなくて」
涼子は自分の器に盛られたシチューを見つめた。じっくり煮込まれた人参の鮮やかなオレンジ色や、ゴロゴロとした牛肉が、なぜか泥水のように見えてしまう。口に一口含んでみたものの、味を感じる余裕はなかった。ただ温かい液体が喉を通り過ぎていくだけで、胃のあたりが拒絶するように重く沈んだ。
「せっかく作ったのに。食べなきゃ元気が出ないぞ」
修一はバゲットにシチューをたっぷりと浸しながら、実にもぐもぐと美味そうに食べ進めている。
その時、突然、家中の電気が一瞬だけ激しく明滅し、次の瞬間、完全に消え去った。
「キャッ!」
涼子は短い悲鳴を上げて、その場にすくみ上がった。視界が真っ暗闇に包まれる。耳に届くのは、外の暴風雨の音と、自分の激しい鼓動の音だけになった。暗闇の恐怖が、鋭い爪で彼女の心臓を鷲掴みにする。
「おっと、停電か。まあ、これだけの風なら電線に何か引っかかったんだろう。すぐに復旧するさ」
暗闇の中で、修一ののんきな声がした。彼はテーブルの上をゴソゴソと探り、スマートフォンのライトを点灯させた。白いLEDの強い光が、リビングを不気味に照らし出す。その光に浮かび上がった修一の顔は、やはりまだ笑っていた。
「懐中電灯、物置から持ってこようか?」
「いいよ、スマホの明かりで十分足りる。それよりシチューが冷めちゃう前に食べ終えよう」
修一は何事もなかったかのように、暗闇の中でディナーを再開した。
涼子は窓の外に目を凝らした。ガラスに打ち付ける雨の音が、いつの間にか「パチパチ」という軽い音から、「ゴォー」という地響きのような不気味な音へと変わっている。そして、鼻を突くような独特の匂いが漂ってきた。それは、雨の匂いではない。山から流れてくる泥と、草木が引き裂かれたような、生々しい土砂の匂いだった。
「ねえ、修一。何か匂わない? 土の匂いがするんだけど」
涼子の声は恐怖で震えていた。本能が、ここにいてはいけないと激しく警鐘を鳴らしている。
「雨が強いから、庭の土が跳ね返ってるんだろ。気にしすぎだよ」
「違う! そんな匂いじゃない! お願い、もう逃げましょう! お金とか荷物はどうでもいいから、今すぐ!」
涼子は思わず立ち上がり、修一の腕を掴んだ。修一のグレーのスウェットを掴む涼子の指先は、恐怖のあまりガタガタと震えていた。
「おいおい、落ち着けって。ヒステリーを起こすなよ。僕たちのエリアは大丈夫だって、さっきも言っただろ。みんな大騒ぎしすぎなんだよ。これまでだって、何度も避難指示が出ても結局何ともなかったじゃないか。今回だけ特別なんてことがあるわけない」
修一は涼子の手を優しく、しかし拒絶するように払いのけた。彼の瞳には、根拠のない確信だけが宿っていた。自分だけは大丈夫、この場所だけは安全だという、冷酷なまでの「思い込み」が、彼の思考を完全に支配しているのが分かった。
その時だった。
「ミシ、ミシシシ……」
家の基礎が、内側から押し潰されるような、聞いたこともない不気味な音が足元から響いた。
「え……?」
修一が初めて動きを止めた。
次の瞬間、ドゴォンという凄まじい衝撃波が家全体を襲った。一階のガラス窓が同時に何枚も粉々に割れ、凄まじい勢いで泥水と土砂がリビングになだれ込んできた。
「うわあああっ!」
修一の短い悲鳴が、濁流の音にかき消される。
涼子は反射的にダイニングテーブルの脚にしがみついた。冷たくてドロドロとした濁流が、一瞬にして彼女の足元をすくい、膝から腰の高さまでせり上がってくる。強烈な水の冷たさがチノパンを濡らし、皮膚の感覚を麻痺させていく。水の中には木切れや瓦礫が混じっており、涼子の足に容赦なくぶつかって激痛を走らせた。
「修一! 修一!」
涼子は叫んだが、スマートフォンのライトは濁流に飲み込まれて消え、あたりは再び完全な暗闇に戻っていた。
「ここ……、助け……!」
少し離れた場所から、ゴボゴボと水を吸い込むような修一の声が聞こえた。しかし、それもすぐに、家を破壊しながら突き進む土砂の轟音にかき消されていった。
涼子は濁流に押し流されそうになりながら、ただ必死にテーブルの脚を握りしめ、涙と泥水でぐしゃぐしゃになった顔を上げていた。どうしてあの時、夫を置いてでも一人で逃げ出さなかったのだろう。激しい後悔が、冷たい水と共に彼女の胸を満たしていった。外の嵐は、まだ激しさを増しながら吹き荒れていた。




