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既視感(デジャビュ)の食卓

既視感デジャビュの食卓


めまいにも似た、奇妙な心の揺らぎが、突然、絵里子えりこの胸を締めつけた。

「……私、ここを知っているわ」

それは確信だった。しかし、同時に強烈な恐怖でもあった。なぜなら彼女は、この街に今日初めて足を踏み入れたはずだからだ。


初夏の強い日差しが、絵里子が着ている細いストライプのコットンワンピースに透けて、白い影を地面に落としている。風が吹くたびに、さらりとした生地がふくらはぎに触れて心地よいはずなのに、今の彼女の背中には冷たい汗が伝っていた。

「どうしたんだい、絵里子。急に立ち止まったりして。お腹が空きすぎて動けなくなった?」

隣を歩く息子の和寿かずとしが、心配そうに顔を覗き込んできた。彼は麻のベージュのシャツの袖を腕まくりして、額の汗を拭っている。


「ううん、大丈夫。ただ、なんだかとても不思議な気持ちなの。あの角を曲がるとね、きっと白い漆喰の壁に、赤いゼラニウムの鉢植えが並んだ小さなお店があるわ」

絵里子は自分の声が、どこか遠くから響いているように感じていた。心臓がトクトクと速い鐘の音を刻む。

「まさか。ここは僕だって初めて来る、隠れ家みたいな路地裏だよ?」

和寿は苦笑しながら、彼女の歩調に合わせてゆっくりと角を曲がった。


その瞬間、和寿が息を呑む気配がした。

「……本当だ。本当にゼラニウムがある。母さん、昔ここに来たことがあるんじゃないの?」

そこには、絵里子が頭の中に描いた通りの光景が、寸分違わず広がっていた。古い木の扉、色褪せた真鍮のドアノブ、そして窓辺に並ぶ鮮やかな赤い花。


絵里子は眩暈をこらえるように、そっと自分の胸元を片手で押さえた。

「いいえ、絶対にないわ。だって、このあたりへ来るのは人生で初めてだもの。でも、あのドアのノブを触ったときの、冷たくて少しざらついた感触まで、今、手のひらに蘇ってきたの。どうしてかしら、涙が出そうなくらい懐かしいのよ」

五感が、記憶が、現実と狂おしく交差していく。絵里子の心は、まるで時間の迷路に迷い込んでしまったかのように激しく動揺していた。


「とにかく、中に入って休もう。お昼にしようって約束したお店だしね」

和寿が優しく絵里子の背中に手を添え、重い木の扉を押した。

カランカラン、と乾いた真鍮の鈴の音が店内に響く。


一歩足を踏み入れた途端、絵里子は古い木造の建物が持つ、特有のひんやりとした空気に包まれた。鼻をくすぐったのは、じっくりと炒められた玉ねぎと、焦げた醤油のような、香ばしくて甘やかな香調だった。

「いらっしゃいませ」

奥から出てきたのは、仕立ての良い藍色のエプロンをきりりと締めた、穏やかな目元の女性店主だった。


案内されたのは、使い込まれて角が丸くなった、飴色の無垢材のテーブル席だった。絵里子が椅子に腰を下ろすと、クッションの適度な沈み込みさえもが、彼女の身体に「知っている」という感覚を訴えかけてきた。

「母さん、本当に顔色が悪いよ。冷たいお水でも飲んで、落ち着いて」

和寿がガラスのコップを差し出してくれた。


絵里子はコップを受け取り、一口水を飲んだ。冷やされた井戸水のような、雑味のない冷たさが喉を潤し、張り詰めた神経を少しだけ解きほぐしていく。

「ありがとう、和寿。でもね、見れば見るほどおかしなことが起きているの。あの壁の古時計の振り子の揺れ方も、窓から差し込むこの木漏れ日の角度も、私は全部知っているわ。まるで、前にも全く同じ席に座って、全く同じように和寿と話していたような……」

デジャビュ、既視感。その言葉を口にするだけで、自分の正気が足元から崩れていくような気がして、絵里子はそれ以上言葉を続けることができなかった。


「それはきっと、このお店の作りが、母さんが昔よく行った場所とよく似ているからだよ。脳が勘違いしちゃっているんだね」

和寿はメニューを開きながら、安心させるように微笑んだ。

「脳の勘違い……?」


「そうさ。人間って、新しく見たものが、過去の記憶にある別のものと『よく似ている』とき、その類似性を無意識に感じ取るんだって。で、脳がその処理をすっごくスムーズに行うと、初めて見たはずなのに『あ、これ知っている!』って強烈に思い込んじゃうらしいよ。類似性認知とか、そういう難しい理屈があるんだ」

和寿の言葉は理路整然としていたが、絵里子の胸を満たしているこの、胸が締め付けられるような切なさと懐かしさを説明するには、あまりに冷たいものに思えた。


「お待たせいたしました。本日のランチ、特製和風デミグラスソースのハンバーグでございます」

店主の手によって、湯気を盛大に立てる鉄板が目の前に置かれた。

じゅうじゅうという小気味よい音とともに、肉汁の焼ける芳醇な香りが一気にあたりへ広がる。付け合わせには、ツヤツヤと光る丸ごとの新じゃがと、鮮やかなグリーンのインゲンが添えられていた。


「わあ、美味しそうだね。母さん、温かいうちに食べよう」

和寿が嬉しそうにナイフとフォークを動かし始めた。

絵里子も、少し震える手でナイフを肉に触れさせた。刃先から伝わる、柔らかくも弾力のある手応え。切り開いた瞬間、透明な脂を含んだ肉汁がじわりと溢れ出してきた。


一口、口に運ぶ。

「……美味しい」

肉の旨味が口いっぱいに広がり、続いて赤味噌を隠し味に使ったという深みのある和風デミグラスソースのコクが、舌の上でとろけるように調和していった。


しかし、その美味しさを噛みしめると同時に、絵里子の心の中で、和寿の言った言葉が急速に形を変えて腑に落ちていった。

類似性。脳の処理。

絵里子は、ハンバーグのソースの味の中に、かつて自分がまだ若かった頃、亡き夫のために何度も何度も試行錯誤して作った、あの自家製ソースの苦味と甘みの割合を、完璧に見出していた。


そうか、と絵里子は思った。

この店を、この景色を、この味を知っていたわけではない。

私が愛し、大切にし、私の身体に深く刻み込まれていた「大切な記憶の断片」が、この店の色や、音や、匂いや、味の中に、奇跡的なほどたくさん、散りばめられていたのだ。


脳は、そのあまりの「似通い方」に驚き、処理の滑らかさに興奮して、それを「この場所そのものの記憶」だと錯覚したに違いない。

そう気がついた瞬間、絵里子の心を満たしていた恐怖は、温かな涙となって目頭を熱くさせた。


「母さん? どうして泣いているの? そんなにそのハンバーグ、美味しかった?」

和寿が驚いて、自分のハンバーグを口に咥えたまま動きを止めている。

絵里子はハンカチでそっと目元を拭い、今度は心からの笑顔を息子に向けた。


「ええ、本当に美味しいわ。なんだか、とっても懐かしい味がするの。お父さんが生きていた頃の、あの賑やかだった食卓の匂いがするわ」

「なんだ、そういうことか。びっくりしたよ」

和寿はホッとしたように笑い、再び勢いよく食べ進め始めた。


窓の外では、初夏の風に揺られたゼラニウムの赤い花が、きらきらと光を浴びて揺れている。

絵里子はもう一度、愛おしい思い出の味がするハンバーグを口に運んだ。この見知らぬ、けれど世界で一番懐かしい食卓で、新しい和寿との記憶が、また新しく、そして滑らかに彼女の心へと刻まれていくのを、絵里子は確かに感じていた。



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