歪んだ残像
歪んだ残像
窓の外では、さっきまでの激しい雨が嘘のように上がり、夕暮れ時の強い西日が喫茶店「純」の店内に差し込んでいた。濡れたアスファルトが光を反射し、眩しい黄金色の輝きが白いレースのカーテンを透かして、テーブルの上を斑に染めている。
蓮は、西日の熱気で少し汗ばんだ首元を、色褪せたデニムシャツの襟を引っ張って冷まそうとした。
ナポリタンのお皿はすでに片付けられ、テーブルの上には新しく追加した、冷たいレモンスカッシュのグラスがふたつ並んでいる。ガラスの表面には無数の細かい水滴がつき、それが夕日を浴びて宝石のようにきらきらと輝いていた。
「視覚と聴覚の脳のいたずら、か。さっき真衣が言った『マガーク効果』の話、まだ頭の中でじんじん響いてるよ」
蓮はストローでグラスの底に沈んだ黄色いレモンシロップをかき混ぜた。カラン、カランと、氷が擦れ合う涼しげな音が店内に響く。シロップが炭酸水と混ざり合い、シュワシュワと小さな泡が弾ける心地よい音が耳に届いた。
「そんなに衝撃的だった? でも、自分の不具合じゃなくて、人間の仕様だって分かれば安心でしょ」
真衣はミントグリーンのサマーニットの袖口を少し上に引き上げながら、ストローに唇を寄せた。彼女がひとくち吸い込むと、レモンスカッシュの中の輪切りのレモンが、浮き沈みして形を変える。
「安心はしたよ。でもさ、そうなると今度は、普段見ているもの全てが信じられなくなってこないか? 僕たちが『これが現実だ』って思っている世界は、実は脳が勝手にパッチワークみたいに繋ぎ合わせた、ただの幻なんじゃないかって」
蓮はグラスを見つめたまま、胸の奥にじわじわと広がっていく奇妙な焦燥感を口にした。
文字を読むときに、どうしても行が躍ってしまって形が捉えられなくなるあの感覚。それと同じような不安定さが、今度は音や景色にまで侵食してくるような、背筋がすうすうとする冷たさを感じていた。
「深く考えすぎだよ、蓮。脳はね、私たちを騙そうとしてるんじゃなくて、むしろ守ろうとしてるの。バラバラの情報が入ってきたら頭がパニックになっちゃうから、一番それらしい答えを、一瞬で作って見せてくれてるだけ」
真衣は、少し酸っぱそうに目を細めながら言った。
「守ろうとしてる、ね……。じゃあ、もしその脳の優しさが、完全に裏目に出たらどうなるんだろう」
蓮はふと、窓の外の景色に目をやった。
西日に照らされた道路を、一人の歩行者が通り過ぎていく。逆光のせいで、その人の顔は真っ黒なシルエットになっていて、よく見えない。けれど、蓮の頭の中には、なぜかその人が「険しい表情で怒鳴っている」ようなイメージが、勝手に浮かび上がってきた。
「裏目に出るって?」
真衣が首を傾げる。
「例えばさ、さっきの『バ』と『ガ』の組み合わせみたいに、誰かが僕に好意を込めて優しい声をかけてくれているのに、その人の口元や、着ている服の色のせいで、僕の脳が勝手に『悪口を言われた』って変換しちゃうことだってあるかもしれないだろ」
蓮の言葉には、確かな怯えが混ざっていた。
もしそうなってしまったら、自分は誰の言葉を信じればいいのだろう。目の前にいる真衣の言葉さえ、本当に彼女が言った通りの意味で自分の脳に届いているのか、確信が持てなくなる。
「それは……」
真衣はレモンスカッシュのグラスから手を離し、蓮の顔をじっと見つめた。彼女の綺麗な瞳の中に、夕日の赤い光と、蓮の不安げな表情が小さく映り込んでいる。
「私、蓮のそういう、世界の隙間に落っこちちゃいそうな繊細なところ、嫌いじゃないよ。でもね、だからこそ、五感だけに頼るんじゃなくて、もっと別のものを信じなきゃダメだよ」
真衣の声は、先ほどよりも一段、低くて温かいものに変わっていた。
「別のもの?」
蓮は、彼女の言葉の意味を掴みかねて、問い返した。
「そう。目から入る情報も、耳から入る音も、脳の中で化けることがある。だったら、その人がどんな表情をして、どんな声を出したかじゃなくて、その人が『今まで自分に何をしてくれたか』っていう、積み重ねてきた時間を信じるの」
真衣はテーブルの上に置いていた自分の手を、少しだけ蓮の方へと進めた。触れるか触れないかの距離で、彼女の体温が、夕暮れの空気を通じて蓮の肌に微かに伝わってくる。
「時間、か」
「そうだよ。もし蓮の脳がバグって、私が蓮に意地悪なことを言っているように聞こえたとしても、蓮は『真衣がそんなこと言うはずない』って分かるでしょ? それは、目や耳の錯覚を飛び越えたところにある、心のリズムみたいなものだから」
真衣は、はにかむように小さく笑った。その笑顔は、逆光の中でも驚くほど鮮明に、蓮の心の奥底に焼き付いた。
「心のリズム……」
蓮は、その言葉を胸の中で何度も反芻した。
確かに、文字が読めなくても、言葉がたまに歪んで聞こえても、真衣がいつも自分の隣にいて、こうして美味しいものを一緒に食べて、優しく笑ってくれるという事実は変わらない。その温かい記憶だけは、脳のどんな錯覚によっても、決して書き換えることはできないはずだ。
「なんだか、喉のつかえが取れた気がするよ。ありがとう、真衣」
蓮の心を満たしていた冷たい霧が、夕日の熱に溶かされるように、すっと消えていった。
彼はグラスを傾け、冷たいレモンスカッシュを勢いよく喉に流し込んだ。炭酸の鋭い刺激がパチパチと喉を突き、爽やかなレモンの酸味と、どこか懐かしい甘さが口いっぱいに広がる。身体の隅々の細胞が、一気に覚醒していくような心地よさだった。
「どういたしまして。さて、名解説者の私にお礼として、今度はあのショーケースにあるプリン、奢ってくれてもいいんだよ?」
真衣は、入り口の近くにあるガラスケースを指さして、悪戯っぽくウインクした。そこには、少し固めに焼かれた、生クリームがぽってりと乗った自家製プリンが並んでいる。
「はは、分かったよ。いくらでも奢る。僕の脳を救ってくれた代金としては、安すぎるくらいだからね」
蓮は声を立てて笑い、今度はしっかりと、真衣の優しい目元を見つめ返した。夕暮れの喫茶店に、氷の涼やかな音と、二人の穏やかな笑い声がいつまでも溶け込んでいた。




