見えない手紙 サブリミナル効果 知覚的流嘱性帰属
見えない手紙
胸の奥が、どうにも落ち着かなかった。
誰かに悪口を言われたわけでもない。失敗したわけでもない。けれど、朝から妙に気分が重いのだ。
六月の湿った風が窓の網戸を揺らしている。
由紀は古い木造アパートの台所に立ちながら、小さくため息をついた。
「なんだろうなあ……」
流しの横には昨夜洗った食器が伏せられている。
窓辺の青じそが風に揺れ、爽やかな香りを漂わせていた。
朝食は焼き鮭と味噌汁だった。
冷蔵庫の残り物のひじき煮。
麦ご飯。
質素だが嫌いではない。
それなのに気分だけが晴れない。
由紀は首を傾げた。
その時だった。
テレビから元気な声が聞こえてきた。
「今日も一日、笑顔で頑張りましょう!」
朝の情報番組だった。
出演者たちは明るく笑っている。
楽しそうだった。
それを見ているうちに、不思議なことに少しだけ気持ちが軽くなった。
「単純だなあ、私」
由紀は苦笑した。
だが本当は、その時すでに見えない影響を受けていた。
それを彼女は知らない。
その日の午後。
由紀は図書館へ向かった。
薄い水色のブラウスにベージュのスカート。
肩から布製の鞄を提げている。
図書館の空気はひんやりとしていた。
紙の匂い。
静かな足音。
ページをめくる微かな音。
由紀はその空気が好きだった。
心理学の棚を眺めていると、一冊の本が目に留まった。
『人はなぜ騙されるのか』
興味を引かれて手に取る。
ぱらぱらとめくっているうちに、ある言葉が目に飛び込んできた。
サブリミナル効果。
「聞いたことあるな」
由紀は呟いた。
そこへ声がした。
「それ、面白いですよ」
振り向くと、一人の男性が立っていた。
三十代半ばくらいだろうか。
白いシャツに紺色のスラックス。
眼鏡の奥の目が穏やかだった。
「失礼。驚かせましたか」
「少しだけ」
由紀は笑った。
男性も笑う。
「私は大学で心理学を教えているんです」
「先生なんですか」
「一応」
二人はそのまま話し始めた。
彼の名前は黒崎だった。
話し方が柔らかい。
押しつけがましくない。
不思議と安心できた。
「サブリミナル効果って、本当にあるんですか?」
由紀が尋ねる。
黒崎は少し考えてから答えた。
「昔は万能みたいに言われましたけどね。実際にはそこまで強力ではありません」
「そうなんですか」
「でも、人は自分でも気づかないうちに影響を受けています」
由紀は興味を持った。
「例えば?」
黒崎は近くの窓を見た。
外では紫陽花が咲いている。
「朝、テレビの出演者が笑っていたら、なんとなく気分が明るくなることがあるでしょう?」
由紀は思わず目を見開いた。
まるで今朝の自分を見ていたようだった。
「あります」
「それです」
黒崎は微笑んだ。
「人間は、自分が思っている以上に周囲の空気を吸い込んでいるんです」
その言葉は由紀の胸に残った。
帰り道。
商店街を歩きながら考える。
魚屋から焼き魚の匂い。
八百屋には青梅が並んでいる。
和菓子屋には水羊羹。
人々の笑い声。
夕方の光。
自分はどれだけ周囲の影響を受けているのだろう。
そう思った時だった。
向こうから小学生の男の子が走ってきた。
転んだ。
膝を擦りむいたらしい。
泣きそうな顔をしている。
すると近くにいた年配の女性が駆け寄った。
「大丈夫?」
優しい声だった。
男の子は涙をこらえながら頷く。
その様子を見た瞬間。
由紀の胸が温かくなった。
まるで自分が助けられたみたいだった。
帰宅した頃には夕焼けが広がっていた。
晩ご飯は鰹のたたきだった。
刻み葱。
生姜。
大葉。
冷奴。
味噌汁。
食卓は決して豪華ではない。
だが不思議と美味しかった。
昼間の出来事を思い出していたからだろうか。
テレビを消し、窓を開ける。
夜風が入ってきた。
虫の声が聞こえる。
由紀はふと思った。
人は毎日、誰かの言葉に影響される。
誰かの笑顔に救われる。
誰かの不機嫌に傷つく。
それはまるで見えない手紙みたいだ。
自分の心に届く手紙。
そして自分もまた、誰かに手紙を書いている。
言葉で。
態度で。
表情で。
今日、図書館で出会った黒崎の笑顔を思い出した。
たった数時間前のことなのに、ずいぶん昔のことのように感じる。
「見えない手紙か……」
由紀は小さく呟いた。
窓の外では夜空に一番星が光っている。
その光を見上げながら、彼女は静かに微笑んだ。
自分も明日、誰かの心を少しだけ明るくする手紙を書けたらいい。
そんなことを思いながら。




