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音の迷宮、視線の罠

音の迷宮、視線の罠


 どんよりとした灰色の雲が空を覆い、今にも泣き出しそうな蒸し暑い午後だった。湿った空気が肌にまとわりつき、街全体がぬるいスープの中に沈んでいるかのように息苦しい。

 大学生の蓮は、お気に入りの色褪せたデニムのシャツの袖をまくり、駅前の古びた喫茶店「純」の扉を押した。カランカランと、乾いた真鍮の鈴の音が店内に響く。冷房の効いた空間に飛び込むと、香ばしい焙煎珈琲の香りと、ほんのり甘いホットケーキの匂いが鼻腔をくすぐり、それだけで胸のモヤモヤが少し晴れるような気がした。


「遅いよ、蓮。待ちくたびれて干からびるかと思った」

 奥のボックス席から声をかけてきたのは、幼馴染の真衣だった。彼女は爽やかなミントグリーンのサマーニットを着ており、その鮮やかな色が、薄暗い店内でそこだけパッと明かりを灯したように見えた。


「悪かったよ。駅前の交差点が工事中でさ、遠回りさせられたんだ」

 蓮は苦笑いしながら真衣の向かいに腰を下ろした。テーブルの上には、すでに彼女が頼んだベリーのタルトと紅茶のセットが置かれている。甘酸っぱい果実の香りがこちらまで漂ってきた。


「それで、話って何? わざわざ呼び出すなんて珍しいじゃない」

 真衣はフォークでタルトの端を小さく切り取りながら、首を傾げた。その瞳には、純粋な好奇心が宿っている。


「いや、実はさ……最近、自分の耳と目が信じられなくなるような、変な感覚に囚われてるんだ」

 蓮はメニュー表を見つめたまま、ぽつりと言った。胸の奥が微かに疼く。誰かに話せば、自分が狂ってしまったのではないかと思われるかもしれない。そんな不安が、冷たい汗となって手のひらにじわりとつたった。


「耳と目が信じられない? どういうこと?」

 真衣の手が止まる。


「文字を読むのが苦手なのは昔からだけど、最近は人の話を聞くときまで、頭の中がバグるというか……。例えば、この前大学の講義でさ、教授が話しているのを見ていたんだ」

 蓮は注文を取りに来た店員に、アイスコーヒーとナポリタンを頼み、息を吐いた。


「うん」

「教授は確かに『バ、バ、バ』って言っているように聞こえた。でも、教授の口元をじっと見たら、唇をすり合わせない『ガ、ガ、ガ』の動きをしていたんだ。そしたらさ、僕の頭の中には『ダ、ダ、ダ』って音が響いたんだよ」

 蓮は自分の喉を震わせながら、その時の違和感を再現しようとした。思い出すだけで、脳の裏側がむずがゆくなるような、奇妙な焦燥感が蘇る。


「え? 『バ』と『ガ』で『ダ』? 何それ、なぞなぞ?」

 真衣は可笑しそうに目を細めた。


「笑い事じゃないんだ。本当にそう聞こえたんだよ。耳から入る音と、目から入る動きが混ざり合って、全く別の新しい言葉に化けちゃうんだ。僕の脳が勝手に嘘をついているみたいで、すごく気持ち悪かった」

 蓮は自分の頭を軽く叩いた。五感がバラバラに分解されて、世界が歪んでいくような恐怖。それをうまく言葉にできないもどかしさが、喉の奥を締め付ける。


「あ、それってさ」

 真衣が何かを言いかけたところで、店員が湯気を立てたナポリタンと、結露したグラスに入ったアイスコーヒーを運んできた。

 ケチャップの濃厚で甘酸っぱい香りが一気にテーブルに広がる。太めの麺には、玉ねぎとピーマン、そして赤いウインナーが絡みつき、いかにも昔ながらの喫茶店の味といった佇まいだ。


「とりあえず食べなよ。お腹が空いてると、余計なことまで考えちゃうでしょう?」

 真衣に促され、蓮はフォークを手に取った。麺を巻き付け、口に運ぶ。

 ケチャップの酸味と、炒められた玉ねぎの甘みが口いっぱいに広がり、ジューシーなウインナーの旨味が追いかけてくる。温かい食事が胃に落ちると、張り詰めていた身体の緊張が少しだけ解れるのを感じた。


「おいしい……。やっぱりここのナポリタンは落ち着くな」

「でしょ? それで、さっきの話の続きだけど。蓮、それって病気とかじゃなくて、人間の脳の仕組みのせいだよ」

 真衣は紅茶を上品に一口すすると、すっきりとした笑顔で言った。


「仕組み? 僕の脳が壊れたわけじゃないの?」

 蓮はコーヒーグラスに手を伸ばした。冷たいガラスの感触が、火照った指先に心地よい。ストローで吸い上げると、深い苦味と豊かな香りが口内を満たし、頭をシャキッとさせてくれた。


「うん。心理学の実験で有名な現象があるの。目で見ている情報が、耳から聞こえる音を書き換えちゃうっていう、脳の錯覚。名前はね――マガーク効果って言うんだよ」

「マガーク効果……」

 蓮はその言葉を口の中で繰り返した。初めて聞く響きだったが、その名前がついているというだけで、底なしの沼に足を取られていたような不安が、すっと軽くなるのを感じた。


「そう。人間って、耳だけで音を聞いてるわけじゃないんだって。特に人の話を聞くときは、相手の唇の動きとか、表情とかの視覚情報を、無意識のうちにものすごく使ってるの」

 真衣は自分の唇を指さした。彼女の唇はほんのりピンク色のリップで彩られ、言葉を紡ぐたびに滑らかに動いている。


「目からの情報が、耳からの情報を上書きしちゃうってことか?」

「上書きっていうか、脳がふたつの情報を都合よく合体させちゃうのね。『バ』という音声を聞かせながら、画面には『ガ』と言っている口元を映すと、人間は不思議なことに『ダ』って聞こえちゃうの。蓮が体験したのは、まさにこれだよ」

 真衣はフォークの背でタルトのクリームをすくいながら、分かりやすく説明してくれた。


「じゃあ、僕の耳がおかしいわけでも、頭がおかしくなったわけでもないんだな」

 蓮は大きく息を吐き出し、背もたれに深く身体を預けた。窓の外を見ると、いつの間にか激しい雨が降り始めていた。ガラス窓を激しく叩く雨粒の音が、ザーザーと店内にまで響いてくる。

 けれど、さっきまでの息苦しさは消えていた。世界が歪んでいたのではなく、人間の身体が持つ、不思議な調和の結果だったのだ。


「むしろ、蓮の脳がすごく正常に、一生懸命がんばって目と耳の情報をまとめようとした証拠だよ。誇っていいくらい」

 真衣はいたずらっぽく笑い、残りのタルトを口に放り込んだ。


「そっか。がんばりすぎた結果か。なんだか、自分の脳が少し愛おしく思えてきたよ」

 蓮は残ったナポリタンを綺麗に平らげ、冷たいアイスコーヒーを飲み干した。氷がカランと音を立てて崩れる。


「文字を読むのが大変な分、蓮はいつも人の表情や声をよく見てるでしょう? だから余計に、そのマガーク効果が出やすかったのかもね」

 真衣の優しい眼差しが、蓮の心をじんわりと温める。窓の外の雨はまだ激しかったが、喫茶店の中は、珈琲の香りと確かな安心感に包まれていた。五感のいたずらに怯える日々は、もう終わりだった。蓮はデニムの袖をさらに一つ折り返し、次の新しい季節をしっかりと見つめるように、真衣に向かって微笑んだ。



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