表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
19/29

聞こえたはずの言葉 マガーク効果

聞こえたはずの言葉


 六月の雨は朝から細かく降り続いていた。


 商店街のアーケードを叩く雨音が遠くでざわざわと響き、湿った空気の中にパン屋から焼きたてのクロワッサンの香りが流れてくる。


 佐倉栞は小さな喫茶店の窓際に座っていた。


 薄いベージュのカーディガンに、紺色のロングスカート。テーブルの上にはモーニングセットのトーストと半熟卵、それに湯気の立つカフェオレ。


 向かいには幼なじみの圭介が座っている。


 圭介はグレーのパーカー姿で、コーヒーカップを持ちながら笑った。


「しかし、よく降るなあ」


「梅雨だからね」


 栞も笑う。


 二人は昔からの友人だった。


 恋人ではない。


 けれど、ただの友人とも少し違う。


 そんな曖昧な距離を何年も続けていた。


 店内にはジャズピアノが静かに流れている。


 その時だった。


 圭介が何か言った。


「――だからさ、俺は栞のこと……」


 ちょうどコーヒーミルの大きな音が鳴った。


 ガガガガガ。


 言葉がかき消される。


「え?」


 栞が聞き返す。


 圭介は少し照れたように笑った。


「いや、なんでもない」


 だが栞には確かに聞こえた気がした。


 いや、正確には聞こえたというより、見えた。


 圭介の唇。


 その動きが。


 まるで、


「好き」


 と言ったように見えたのだ。


 栞の心臓が大きく跳ねた。


 けれど聞こえてはいない。


 見えただけだ。


 自分の勘違いかもしれない。


 栞は慌ててカフェオレを飲んだ。


 甘いミルクの香りが鼻に抜ける。


 だが胸は妙に落ち着かなかった。


「どうした?」


「ううん」


「顔赤いぞ」


「赤くない」


「赤い」


 圭介は笑う。


 その笑顔を見るたびに栞はさらに混乱した。


 もし本当に好きと言ったなら。


 もし違ったなら。


 どちらにしても怖かった。


 その日の帰り道。


 雨は少し弱まっていた。


 濡れたアスファルトが街灯を映している。


 栞は商店街の本屋に立ち寄った。


 ふと目に入った雑誌を手に取る。


 心理学の特集だった。


 ぱらぱらとめくっていると、一つの記事が目に留まる。


『マガーク効果』


 人は耳で聞いた音だけでなく、相手の口の動きも一緒に見て言葉を認識している。


 そのため実際とは違う音に聞こえることがある。


 栞は思わず立ち止まった。


「え……」


 記事を読み進める。


 たとえば違う音声と口の動きを組み合わせると、脳が勝手に別の言葉を作り出してしまう。


 聞こえたと思っていたものが、実は見えた情報だったりする。


 栞は雑誌を閉じた。


 胸がずしりと重くなる。


「じゃあ……」


 あれは。


 圭介の言葉ではなく。


 自分の願望だったのだろうか。


 その夜。


 栞は眠れなかった。


 雨音が窓を叩いている。


 天井を見上げながら何度も考える。


 好き。


 そう見えた唇。


 でも本当に言ったのか分からない。


 いや。


 分からないから苦しい。


 翌週の日曜日。


 二人は映画館へ行く約束をしていた。


 待ち合わせは駅前広場。


 雨上がりの青空が広がっている。


 初夏の風が心地よい。


 圭介は白いシャツに黒のジャケット。


 栞は淡い水色のワンピースを着ていた。


「お待たせ」


「全然待ってない」


 映画を観て、ショッピングモールを歩き、昼食を食べる。


 フードコートでは照り焼きチキンの香りが漂っていた。


 二人はハンバーグ定食を選んだ。


 肉汁があふれるハンバーグ。


 熱々のコーンスープ。


 サラダのシャキシャキした音。


 楽しい。


 本当に楽しい。


 だからこそ苦しかった。


 夕方。


 川沿いの遊歩道を歩く。


 夕陽が水面を黄金色に染めている。


 圭介が突然立ち止まった。


「栞」


「なに?」


 真剣な顔だった。


 栞の胸が跳ねる。


「この前の喫茶店なんだけど」


 栞は息を飲んだ。


「俺、ちゃんと伝えられなかった」


 風が吹く。


 河川敷の草が揺れる。


「え……」


「音がうるさくてさ」


 圭介は苦笑した。


「聞こえなかっただろ」


 栞の鼓動が速くなる。


「俺、あの日」


 夕陽が圭介の横顔を照らしていた。


「好きな人がいるって言ったんだ」


 栞の胸が冷える。


 やっぱり違った。


 そう思った。


 だが次の瞬間。


 圭介は照れくさそうに頭をかいた。


「ずっと前から」


「え?」


「小学生の頃から」


 栞は瞬きをする。


 圭介は真っ直ぐ見つめていた。


「栞だよ」


 世界が静かになった。


 風の音も。


 車の音も。


 何も聞こえなくなる。


「え……」


 それしか言えなかった。


 圭介が笑う。


「今度はちゃんと聞こえた?」


 栞の目から涙がこぼれた。


「聞こえた」


「本当?」


「聞こえたよ」


 涙で夕陽が滲む。


 圭介は慌てた。


「ごめん、泣くほど嫌だった?」


「違う!」


 栞は笑いながら涙をぬぐった。


「違うの」


 胸の奥にずっと溜まっていた不安が溶けていく。


「私も好きだから」


 圭介は数秒固まった。


 そして顔を真っ赤にした。


「まじか」


「まじです」


 二人は顔を見合わせて笑った。


 川面を渡る風は涼しく、遠くで子どもたちの笑い声が聞こえる。


 人は時々、聞こえていない言葉を聞いた気になる。


 見たいものを見てしまう。


 思い込みに騙される。


 けれど。


 本当に大切な言葉は。


 きっと最後には届くのだ。


 耳にも。


 目にも。


 そして心にも。


 夕焼けの帰り道を並んで歩きながら、栞はそっと思った。


 あの日の勘違いは、もしかしたら脳の錯覚だったのかもしれない。


 でも。


 その錯覚がなければ、自分は今日の幸せに気づけなかったのだろう。


 雨上がりの空には、淡い虹が静かに架かっていた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ