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鏡の向こうの境界線

鏡の向こうの境界線


 梅雨の晴れ間の夕暮れ時は、どこか現実味のない薄紫色の光が部屋を満たす。

 大学生の真司は、自室のベッドに腰掛け、目の前のローテーブルに置かれた夕食を眺めていた。今日の献立は、じっくり時間をかけて煮込んだ豚の角煮と、炊きたての白いご飯、それからワカメの味噌汁だ。圧力鍋の蓋を開けた瞬間に広がった、醤油と八角の甘辛い濃厚な香りが、まだ部屋の空気に残っている。

 彼はお気に入りの、少し洗いざらしの紺色のスウェットカーディガンを羽織り、箸を手にした。向かい側に座る恋人の由香は、淡いレモン色のブラウスの袖を丁寧に折り返し、小鉢のポテトサラダをスプーンですくい上げている。マヨネーズのまろやかな香りが、角煮の匂いに優しく混ざり合う。


「ねえ、真司。この前の『ゴムの手錯覚』の実験、まだ続きがあるって知ってた?」

 由香が口元をハンカチで拭いながら、悪戯っぽく微笑んだ。


「続き? あの、シリコンの手を自分の手だと脳が勘違いするっていう、あの奇妙な実験のことか?」

 真司は角煮をご飯の上に乗せ、口に運んだ。口の中でほろりと崩れる肉の旨味と、甘い脂身のコクが舌いっぱいに広がり、胃袋がじんわりと温かくなる。


「そう。今回はね、道具を使わずに、もっと簡単に自分の感覚を揺さぶる実験。題して『全身鏡の錯覚』よ」

 由香はそう言うと、部屋の隅にある姿見の前に真司を連れて行き、鏡と並行になるように椅子を二脚並べた。


「ここに座って、鏡の中に映る私の姿をじっと見つめてみて」

 由香の指示に従い、真司は椅子に腰を下ろした。鏡の中には、レモン色のブラウスを着た由香と、紺色のカーディガンを着た自分が並んで映っている。夕闇が迫る部屋の中で、鏡の中の二人の姿だけが妙に鮮明に浮かび上がって見えた。


「これから、私が真司の右の頬を指先で優しく撫でるわ。真司は、鏡の中に映っている『私の手の動き』だけをじっと見ていてね」

 由香の細い指先が、真司の右の頬に触れた。少しひんやりとした彼女の指先が、皮膚の上をゆっくりと滑っていく。


「……うわ、なんか不思議な感覚だな」

 真司は小さく声を漏らした。

 鏡の中の由香の手が、鏡の中の自分の頬を撫でている。そして同時に、自分の本物の頬にも全く同じ触覚が伝わってくる。部屋には、時折パチパチと弾けるような、窓の外を走る車のヘッドライトの光が差し込んでいた。


「視覚と触覚のタイミングを完全に一致させるの。じっと鏡の私を見ていてね」

 由香の声が、いつもより低く、耳の奥に響く。

 一分、二分と、沈黙の中で実験が続けられた。部屋の中に漂う角煮の残り香と、由香の髪から香る、かすかな柑橘系のシャンプーの匂いが混ざり合う。

 鏡の中の世界を見つめ続けているうちに、真司の脳の中で、奇妙なバグが起き始めた。

 自分の頬を撫でているはずの由香の指先が、まるで「自分自身の意思で動かしている手」であるかのような、奇妙な一体感を覚え始めたのだ。


「由香……これ、すごく変だ。鏡の中の君の手が、なんだか僕の体の一部みたいに見えてくる」

 真司の背中に、すうっと冷たい汗が伝わった。自分の身体の輪郭が、境界線を失って、鏡の向こうの世界へと溶け出していくような、底知れない恐怖と高揚感が胸を締め付ける。


「脳が、私と真司の境界線を曖昧にしちゃったのね」

 由香は静かに囁くと、真司の頬を撫でていた手をぴたりと止めた。そして、真司の実際の頬には触れず、鏡に向かって、空中で自分の右の頬を強くパチンと叩く仕草をした。

 真司の肌には、何も触れていない。しかし。


「っ……!」

 真司は激しく息を呑み、思わず自分の右の頬を押さえて後ろにのけぞった。


「痛い……わけじゃないのに、今、本当に頬を叩かれたような強い衝撃が、脳の中に走った」

 真司の心臓はドクドクと激しく脈打ち、カーディガンの胸元が大きく上下した。手のひらにはじんわりと汗がにじんでいる。


「大成功。視覚の情報が強すぎて、触れてもいない痛みを脳が作り出しちゃったんだね」

 由香は満足そうに笑い、椅子の位置を元に戻した。


「人間の感覚なんて、本当に脆いものだな。目の前の景色ひとつで、自分が誰なのかさえ分からなくなりそうだ」

 真司は冷めた味噌汁を一口すすり、出汁の塩気でようやく自分の確かな身体の感覚を取り戻した。窓の外は、完全に夜の帳が下り、街灯の灯りが部屋の天井に静かな影を落としている。


「でもね、真司。だからこそ、こうして直接触れ合える温かさが、特別に愛おしく思えるでしょ?」

 由香はそう言って、テーブルの下で真司の左手をそっと握りしめた。彼女の手のひらの、柔らかく確かな熱が、真司の皮膚を通じてじわじわと心を満たしていく。


「ああ、間違いない。この温かさだけは、鏡の錯覚なんかじゃないな」

 真司は繋がれた手に少しだけ力を込め、大切な存在の確かさを噛み締めるように、優しく微笑み返した。



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