ゴムの手錯覚
ゴムの手錯覚
降り続いた雨がようやく上がったものの、夕暮れ時の空気は湿った重みを含んで肌にまとわりついていた。
大学生の真司は、大学のすぐ近くにある古びた喫茶店の奥まった席に座り、目の前に置かれた料理を眺めていた。注文したのは、この店の定番メニューである鉄板ナポリタンだ。じゅうじゅうと音を立てる赤いケチャップソースからは、甘酸っぱい香りと、わずかに焦げた香ばしい匂いが立ち上り、真司の鼻腔をくすぐる。
彼はお気に入りの、少し色あせた緑色のマウンテンパーカーの袖をまくり上げ、フォークを右手に握った。隣に座る恋人の由香は、お気に入りの白いローゲージのニットの袖口から細い手首をのぞかせ、スプーンでカボチャのポタージュスープを静かに口に運んでいる。クリーミーな黄色いスープが彼女の唇を湿らせる様子を、真司はぼんやりと見つめていた。
「ねえ、真司。さっきの心理学の講義、すごく面白くなかった?」
由香がスープを飲み干し、満足そうなため息をつきながら問いかけてきた。
「ああ、あの実験の話か。自分の手がまるで見知らぬ偽物の手に入れ替わってしまうみたいな感覚になるっていう、あれだろ?」
真司はフォークでパスタを巻き巻きしながら答えた。口に運ぶと、濃厚なケチャップの味が舌いっぱいに広がり、どこか懐かしい幸福感が胸を満たす。
「そう、ラバーハンドイリュージョン、日本語で言うとゴムの手錯覚ね。人間の脳って、視覚と触覚のタイミングが一致するだけで、目の前にある偽物のゴムの手を自分の体の一部だって勘違いしちゃうのよ。不思議よね」
由香は瞳を輝かせ、熱心に身を乗り出した。彼女の着ている白いニットからは、かすかに石鹸のような清潔な香りが漂ってくる。
「人間の脳なんて、意外と簡単に騙されちゃうもんなんだな。自分の体なんて一番よく分かっているはずなのに」
真司はそう言って笑い、冷たいお冷やのグラスに手を伸ばした。結露した水滴が指先に触れ、ひんやりとした刺激が脳に伝わる。その確かな感覚があるからこそ、自分の手が偽物と入れ替わるなどという話が、どこか現実味のないおとぎ話のように思えたのだ。
「ふふ、じゃあさ、今からここで実験してみない? ちょうどいいものがあるし」
由香は悪戯っぽく微笑むと、バッグの中から大きめの茶色い封筒を取り出した。それは彼女が今日、美術の授業の教材として購入したという、デッサン用のリアルなシリコン製の左手の模型だった。
「おいおい、喫茶店でそんなもの出すなよ。他のお客さんが見たらびっくりするだろう」
真司は苦笑しながら、周囲の様子を窺った。幸い、店内にいるのは奥の席で居眠りをしている老紳士と、厨房で皿を洗う店主だけだった。カチャカチャという皿の擦れ合う音と、低く流れるジャズの旋律が、店内の静けさを守っている。
「大丈夫よ、この席は死角になってるから。ほら、真司、左手をテーブルの下に隠して。その代わりに、このシリコンの手を君の左手があるべき位置に置くの」
由香の熱意に押し切られる形で、真司は観念して左手を膝の上に下ろした。テーブルの上には、彼のマウンテンパーカーの左袖の先から繋がるように、精巧に作られた人工の手が置かれた。皮膚のシワや爪の形まで、驚くほど本物そっくりに作られている。
「次に、このメニュー表で、真司の本当の左手を見えなくする。これで準備完了」
由香は立てかけたメニュー表で真司の視界を遮り、彼が自分の本物の左手を見られないようにした。今、真司の目に映るのは、袖の先から伸びる冷たいシリコンの手だけだ。
「よし、始めるよ。真司は、その偽物の手をじっと見つめていてね」
由香はそう言うと、ペンケースから2本の同じデザインの細いマドラーを取り出した。
「いくよ」
彼女は、テーブルの下にある真司の本物の左手の甲と、テーブルの上にあるシリコンの左手の甲を、2本のマドラーを使って同時に、まったく同じリズムで優しく撫で始めた。
「……どう? 何か感じる?」
由香の静かな声が、喫茶店の空気にとけていく。
「いや、別に。ただ、手の甲を撫でられているなっていう感覚があるだけだよ」
真司は最初、退屈そうに答えた。シリコンの手をじっと見つめる。由香の持つマドラーが、その人工の皮膚の上を規則正しく滑っていく。
一分、二分と時間が経過する。
店内に漂う珈琲の苦い香りと、鉄板ナポリタンの残りが放つ油の匂いが混ざり合う中、真司の感覚に奇妙な変化が訪れ始めた。
視界の先では、マドラーがシリコンの手を撫でている。そして同時に、自分の見えない左手の甲にも、まったく同じ感触が伝わってくる。視覚と触覚の情報が、脳の中で完全に同期していく。
「あ……」
真司の口から、小さく乾いた声が漏れた。
「どうしたの? 真司」
由香はマドラーを動かす手を止めず、覗き込むように彼の顔を見た。
「なんだか、変な感じがする。あのさ、由香。僕の本当の手はテーブルの下にあるはずなのに、なんだか、テーブルの上のあのゴムの手に、じわじわと感覚が移動していくみたいなんだ」
真司の背中に、すうっと冷たい汗が流れた。
見つめ続けているシリコンの手が、まるで自分の体の一部であるかのように思えてくる。皮膚の下を温かい血液が流れ、神経が通い始めたかのような、奇妙な錯覚。
「ふふ、脳が騙され始めてる証拠ね。そのまま見続けて」
由香の声が、少し遠くで響いているように感じられた。真司の意識は、完全に目の前の人工の手に集中していた。
その時だった。由香はマドラーを動かす手をぴたりと止めた。そして、真司の本当の手を撫でるのをやめ、テーブルの上のシリコンの手の甲だけを、指先で強めにツンと突いた。
真司の本物の手には、何も触れていないはずだった。しかし。
「うわっ!」
真司は思わず声を上げ、椅子から飛びのきそうになった。
「びっくりした! 今、本当に突かれたような衝撃が、左手に走ったぞ!」
真司は自分の左手をテーブルの下から引き揚げ、何度も握ったり開いたりした。手のひらにはじんわりと脂汗がにじみ、心臓が早鐘を打っている。衣服越しに、自分の鼓動がドクドクと伝わってきた。
「大成功! 本当にゴムの手を自分の手だって思い込んじゃったんだね」
由香は子供のように無邪気に笑い、満足そうにシリコンの手を回収してバッグにしまった。
「信じられない……。ただ見ていただけなのに、あんなにハッキリと自分の感覚が乗っ取られるなんて。脳の仕組みって、恐ろしいな」
真司は冷え切ってしまったお冷やを一口飲み、荒くなった呼吸を整えた。喉を通り抜ける水の冷たさが、ようやく彼を確かな現実の世界へと引き戻してくれた。
外を振り返ると、ガラス窓の向こうには、すっかり日の暮れた街並みが広がっていた。街灯の光が、濡れたアスファルトに反射して鈍く光っている。
「でも、人間の感覚なんて、それくらい曖昧で、揺らぎやすいものなのかもしれないね」
由香は優しく微笑みながら、真司の震える右手をそっと包み込んだ。彼女の手の温もりが、真司の皮膚を通じてじんわりと心まで染み渡っていく。
「そうだな。でも、今君が触れてくれているこの温かさだけは、絶対に本物だって分かるよ」
真司はそう言って、ようやく少し照れくさそうに笑い返した。二人は残ったスープとナポリタンを静かに平らげ、温かい珈琲を追加で注文した。店内に満ちる芳醇な香りに包まれながら、真司は自分の両手の存在を確かめるように、何度も指先を動かしていた。




