ゴムの手錯覚 私の手はどこにある
ゴムの手錯覚 私の手はどこにある
六月の雨上がりだった。
商店街の濡れたアスファルトからは土と雨水の匂いが立ちのぼり、薄い雲の切れ間から差し込む夕日が水たまりを金色に染めていた。
栞は白いブラウスの袖をまくりながら、市民センターの階段を上っていた。
入口のポスターには大きく書かれている。
『ふしぎな脳の実験体験会』
「なんだか怪しいわねえ」
栞が苦笑すると、隣を歩く健一が肩をすくめた。
「無料だし、面白そうじゃないか」
「無料って言葉に弱いのよね」
「知ってる」
二人は笑った。
会場へ入ると、木の床の匂いと冷房のひんやりした空気が肌を撫でた。
長机が並び、白衣を着た若い研究員たちが準備をしている。
栞の目を引いたのは机の上に置かれた一本のゴム製の手だった。
「きゃっ」
思わず声が出た。
「なにあれ」
「手だな」
「見ればわかるわよ」
近づくと、それは本物そっくりだった。
薄い血管の色。
爪の半透明な質感。
指先の細かな皺。
まるで切り取った人間の手がそこに置かれているようだった。
「不気味……」
栞は顔をしかめた。
すると女性研究員が微笑んだ。
「今日はゴムの手錯覚を体験していただきます」
「ゴムの手錯覚?」
「脳が、自分の身体をどう認識しているかを体験できる実験です」
栞は首をかしげた。
「脳ってそんなに騙されるんですか?」
「意外なほど簡単に騙されますよ」
研究員は楽しそうだった。
数分後。
栞は椅子に座っていた。
テーブルの上には例のゴムの手。
そして本物の左手は仕切り板の向こうに隠されている。
「じゃあ始めますね」
研究員が柔らかな筆を持った。
さらさら。
さらさら。
筆先がゴムの手の人差し指を撫でる。
同時に隠された栞の本物の指も撫でられる。
柔らかな毛先が皮膚をくすぐった。
「わあ……」
少し気持ちいい。
絵筆で絵を描かれるような感覚だった。
さらさら。
さらさら。
同じタイミング。
同じ場所。
同じ動き。
何度も何度も続く。
やがて栞は妙な気分になった。
「……あれ?」
「どうしました?」
「なんか……」
栞は目をぱちぱちさせた。
「そのゴムの手が、自分の手みたい」
研究員が笑う。
「成功ですね」
「えっ?」
「脳がゴムの手を自分の身体だと認識し始めています」
栞はぞくりとした。
本当にそうだった。
目の前のゴムの手に触れられるたび、自分が触れられている気がする。
隠れている本物の手の存在感が薄くなっていく。
代わりにゴムの手が自分の身体になっていく。
「うわあ……変な感じ」
「怖いですか?」
「ちょっとだけ」
その時だった。
研究員が突然、ゴムの手に定規を振り下ろした。
バシン!
「きゃあっ!」
栞は思わず悲鳴を上げて身体を引いた。
胸がどきどきしている。
手のひらに汗がにじんでいた。
周囲から笑い声が起きる。
「大丈夫ですよ」
研究員が言った。
「本物の手は無事です」
栞は胸を押さえた。
「びっくりした……」
健一は大笑いしている。
「完全に騙されてたな」
「だって痛そうだったのよ!」
「ゴムなのに?」
「そうなのよ!」
栞自身も笑い出した。
しかし心の奥では不思議な感覚が残っていた。
帰り道。
二人は商店街の定食屋へ入った。
暖簾をくぐると出汁の香りがふわりと鼻をくすぐる。
揚げ物の音。
味噌汁の湯気。
夕食時の賑わい。
窓際の席に座ると、栞は唐揚げ定食を注文した。
運ばれてきた皿には黄金色の唐揚げ。
千切りキャベツ。
湯気の立つご飯。
豆腐とわかめの味噌汁。
「いただきます」
二人は箸を取った。
揚げたての唐揚げを噛む。
衣の香ばしさ。
肉汁の旨味。
思わず頬が緩む。
「幸せ」
栞が呟く。
「単純だな」
「おいしいものは正義なの」
健一は笑った。
しばらくして栞がぽつりと言った。
「でもさ」
「ん?」
「今日の実験、ちょっと考えちゃった」
「何を?」
栞は箸を置いた。
窓の外では濡れた道路にネオンが映っている。
「私たちって、自分のことを分かってるつもりでいるでしょう?」
「ああ」
「でも脳は簡単に騙される」
「そうだな」
「じゃあ、自分が思ってる自分も、本当は間違ってることがあるのかな」
健一は少し考えた。
それから味噌汁を飲んだ。
「あるだろうな」
「やっぱり?」
「俺なんかしょっちゅうだ」
栞は目を丸くした。
「そうなの?」
「自分はダメな人間だと思い込んでた時期もあったし」
「うん」
「でも周りから見るとそうじゃなかったりする」
湯気が二人の間を漂う。
「逆もある」
健一は続けた。
「自分は正しいと思っていても、実は間違ってることもある」
「なるほど」
「脳は案外あてにならない」
栞はくすっと笑った。
「今日のゴムの手みたいね」
「そう」
「見えているもの全部が真実じゃない」
外では夜風が街路樹を揺らしていた。
葉擦れの音が静かに聞こえる。
栞は自分の手を見た。
本物の手。
温かい手。
長年使ってきた手。
今日一日だけでも、この手が自分のものではなくなったような気がした。
それなのに今は確かにここにある。
「変なの」
「何が?」
「ずっと一緒にいる自分の身体なのに、脳に言われなきゃ分からないなんて」
健一は笑った。
「だから人間は面白いんだろうな」
栞も笑った。
温かいご飯の湯気。
味噌の香り。
店内の賑やかな話し声。
そのすべてが妙に愛おしく感じられた。
自分が感じる世界。
自分だと思っている身体。
当たり前だと思っていたものは、案外あやふやなのかもしれない。
それでも。
だからこそ。
今ここで感じる温もりは大切なのだろう。
栞はそっと両手を合わせた。
「ごちそうさま」
その声は、雨上がりの夜の空気に静かに溶けていった。




