目覚め
「旦那様はまだ目覚めないのか」
「このまま、目覚めなかったら……」
「不吉なことをいうものじゃない」
使用人たちの小さなつぶやきがさざめきのように広がっていった。
いつもは賑やかなルシファーの屋敷の中は水を打ったように静かだった。初秋の風が吹いていた。
バルバトス公の奇襲から1か月。執政官の席はアモンさんが代理となって勤め、純血派は一斉に検挙された。私はお屋敷にとどまって、ルシファーを看病していた。
「早く目覚めて……私に笑いかけて」
水差しのほかに、回復効果のある私のアイスコーヒーも置いてあった。時折、飲ませているのだが、なかなか目覚めてくれない。回復効果があるはずなのに。
そして、水差しを取った時だった。妙な感じがした。
この水、浄化の力が入ってる?
きらりと薄紫の炎が見えた。
こんなものを飲まされていては、よくなるものもよくならない。
それで、私は覚悟を決めた。
「危ないことには首を突っ込ませたくないのだけれどね……もう決めたって顔してるものね。しっかりお屋敷で働いてきなさいね」
アルバトロスには私を見送るマギーさん、師匠がいた。
「店のことは任せろ、そしてあいつを目覚めさせて結婚式に呼んでくれ」
迎えにきたアモンさんが目くばせした。もういいか、と。私はしっかり頷くと、アモンさんに近づく。移動魔法でお屋敷まで行くのだ。
「それじゃ、行ってきます」
「エリィ、あとは皿を片付けてほしいわ」
「はい。わかりました」
ルシファーの屋敷で働くことに決めて一週間。メイド服姿もすっかり板についてきた。初めは使用人たちがエリィに働かせるなんて酷だ、と言っていたのだけれど、私が頼み込んだ。少しでもルシファーを看病したいから、と。
ルシファーの部屋へ出入りできる悪魔は限られている。魔法の瞳の虹彩認証で認識し、そのログも取られていた。
私は聖水を水差しにいれた犯人を見つけ出すため、通常の業務をこなしながらアモンさんにだけ聖水混入のことを告げ、ログを洗っていた。
「アモンさん、今日ってお医者様来てませんでしたよね?」
ログには医師の記録がある。しかし、今日は来ていないはずだった。
「えぇ。気になるものが見つかりましたか?」
そして見つけた。
怪しい人物を。
「明日から旦那様の部屋への出入りは、魔力認証になります。そして、水差しは廃止して、エリィの淹れたコーヒーだけになります」
執事のアモンさんが使用人たちに告げるとどよめきが起きた。
「魔力回復薬でも効かなかったのに?」
「マナを摂取するだけで、回復するのか?」
これらの言葉を受けて、アモンさんが答えた。
「効きますよ、私の左目も完治しましたから」
そう言って、アモンさんは眼帯を取った。
傷跡は綺麗に消え去り、そこにはしっかりと視力を回復したアモンさんの姿があった。
「これなら!」
「きっと、旦那様はお目覚めになる!」
浮かれる使用人たちの中、こっそり抜けだし駆けていく姿があったのを私は見逃さなかった。私はそのあとを追った。
「私のルシファー様、あの女と一緒になる前に、私と地獄へ参りましょう」
そう呟いて聖水の入った瓶をルシファーに飲ませようとしていたのは――
「ナリ、やめなさい!」
「くっ、憎たらしいエリィ! お前さえいなければ!」
聖水をかけられそうになった瞬間。
「観念しなさい!」
アモンさんの拘束魔法がナリを微動だにさせなかった。
聖水は魔法で瓶の中へ戻され、アモンさんの手の中にゆっくりと飛んできた。
「理由を聞かせてもらうわ、アモンさん、口の拘束を解いて」
「お前が悪いんだ! 私のルシファー様は、私の淹れた紅茶を美味しいと言ってくださった。この下級悪魔のとりえもない私に!」
アモン様は、聞いてられないと言ったように呆れた顔をした。そして。
「それはエリィを想いだして言っていたにすぎないでしょう」
「そんなことはない! 私を好きだったはずなんだ! こんな下級悪魔の私をお屋敷に入れてくれるほどだから。それなのにぽっと出のお前が!」
ここでアモンさんはまた口を拘束しなおしたらしい。
でも、私にはナリの気持ちもわからないではなかった。あんなに美しい悪魔から美味しいと言ってもらえて、お屋敷に勤める。
まるで過去の自分に重なるところがあった。
何も言えない私に代わって、アモンさんが口を開いた。
「ナリ、あなたは知らないでしょうけれど天使のルシファーを悪魔にしたのはエリィなの。エリィが天使のまま死にゆこうとしていたルシファー様をコーヒーで悪魔に変えたの」
ナリの瞳には涙が浮かんでいた。もう、ナリ自身も分かっていたはずだった。
「ナリ、私たち、似てたのね。でも、その悪魔は誰のものでもないわ、ルシファーはルシファーよ。虹彩を欺く能力でここに出入りして、聖水なんか盛ったりして、何がしたかったの? 私はルシファーが好き。あなたは? 物だと思ってるでしょ」
私は、泣いているナリをひっぱたいた。
「私の大切なルシファーを殺させはしないわ」
ナリは、厳罰に処されることになった。強制労働か、サタン様の気が向けば消滅か。ただその前に、ナリが聖水を受け取っていたと思われる、純血派の連中を一掃しなければならない。そのために、ひどい拷問を受けるだろう。
心が痛まないかと言えば嘘になる。でも、それだけの事をナリはしてしまった。
友達だと、思ってたのにな。一方的な感情だったのだ。
気づけば一筋、涙がこぼれていた。その涙は、ルシファーの顔に落ちた。
「エリィ……?」
「ルシファー!!」
「すまない。長い間寝ていたようだな。お前のマナが顔を伝って、気が付いた」
体を起こそうとするルシファーを止めて、私は用意していたアイスコーヒーを口に含んだ。そして、口移しでルシファーに飲ませる。
「お前も、大胆なことをするようになったな」
「はい。あなたのせいです」




