縮まる距離
「もう、何度言ったらわかるのですか?」
頭の上の本はバランスを崩して無残にも床に落ちてゆく。
「マリナ先生、もう無理です……」
年配の眼鏡をかけたマリナというこの悪魔は、マナー講師としてつけられた。お屋敷に来て半月経つのに上品な歩き方ができない。
「仕方ないですわね。では、座学に切り替えましょう」
内心私はほっとした。座学は性に合っていたようで名だたる悪魔たちを覚えたり、歴史や食事のマナーなどは次第に身についていた。
「紅茶でございます、奥様」
座学を終えて、一息入れているとナリがマカロンと紅茶を持ってきた。
「ナリ、奥様なんて言わなくていいよ!」
ナリは下級悪魔で、堕天使ではないけれどお屋敷に採用されている。そして、同じ下級悪魔同士意気投合して仲良くなった。私にとって、初めてできた友達だ。
「一緒に食べようよ?」
「いけません、メイドの分際の私が奥様となど……」
ナリはいつも一線ひいて私に接してくる。ほかのメイドさんなどは、同じ堕天使だからか、特に意識していないらしくフランクに接してくるのに。
「今は休憩か?」
と、そこへルシファー様がやってきた。
「下がっていいぞ」
ルシファー様はナリを下がらせると、私の隣の席に座り、不敵な笑みで私を見つめてくる。
あぁ、なんか顔が熱い気がします! 夏だからですかね!
「食事のマナーはすっかり身に着いたようだな」
「はい、おかげさまで」
「もう、口元についた食べ物を取ってやることができないのは寂しいな」
そう言ってくすくす笑っている。
私はと言えば、いつかのデートを思い出してしまった。
「そういえば、ドレスが仕立てあがってきたぞ。見に行ってみるか?」
「うう、ドレスも仕立てあがって、ルシファー様もお越しになられたとなれば、やっぱりダンスの練習ですかね?」
これまで何回か練習をしたのだが、つまずいたりルシファー様の足を踏んだりもうひどかった。
「俺との練習は嫌か?」
「嫌じゃ、ないですけど……」
また足を踏むのかとげんなりしていると。
「お前を見ていると、どうやら魔力の流れが乱れているようだ。それが動きに影響している」
「魔力の流れ?」
「あぁ、だからマナが漏れ出しているのも頷ける」
そういうことだったのかと我ながらやっと理解した。
「だから、提案があるのだが……」
そう言ったルシファー様が顔を近づけてきた。
「キスしていいか?」
「なっ!」
「やましい意味で言ったんじゃない。オレの魔力を注ぎ込んで安定させるだけだ。それには体液が最適なだけだ!」
でも、私の心はやましいことを考えてしまっています!
「いいか?」
こくん、と頷くだけで精一杯だった。
ちゅ、と初めは探るような唇が触れた。でもすぐに舌が入って来て口内をむさぼられる。時折、息遣いで出る声が自分でも恥ずかしくて終わってほしいような、終わらないでほしいような気分にさせる。お互い息が上がっていた。
すっと、唇が離れるとまだ熱を欲している自分がいた。
「エリィ、好きだ」
「もう、そういうのは先にいうものじゃないですか?」
笑いあう二人の言葉を、物陰でナリが目を見開いて聞いていた。
「おや、今日は一度も旦那様の足を踏んでいませんね?」
休憩が終わり、ダンスの練習をしているとマリナ先生が驚いた顔をした。
「ステップも以前より軽やかだこと」
「そうだな、上出来だ」
「だから早く魔力を制御したらいいと言ったじゃありませんか」
マリナ先生、今何と言いましたか?
「一時的なものかもしれませんし、これからは毎日スキンシップしてくださいね」
顔を覆ったのは私だけで、ルシファー様は咳払いしたのみだった。
「それに、エリィ、あなたも旦那様に様をつけなくてもいいのですよ?」
「え、呼び捨てってことですか?」
「夫婦になるのでしょう?」
そこに、アモンさんが入って来て言った。今は執事の一員としてこの屋敷で働いている。
「エリィのことはパーティで堕天使との友好を示すためにお披露目するからな。夫婦にならずしてどうする」
聞いてなかったことなんですけど!?
「ルシファー、お前、まさか騙して連れてきたのか?」
「騙しては……ない」
「でも本当のことは言ってないですよね!!」
しかし、アモンさんは続ける。
「観念しろ、エリィ。この男は元からこういう男だ」
その夜。自室としてあてがわれた部屋のバルコニーで、寝付けずにぼんやりしていた。
ルシファー様に関して、聞きたいことが多すぎる。一体いつ、私を知ったのか。何故、私を300年も守ってきたのか。私には心当たりがない。
そこへ、控えめなノックの音が響いて、私は思わず飛び上がった。
ドアに近づいて声を聴けば、そのルシファー様だ。
「どうしたんですか、こんな時間に」
「エリィに話しておきたいことがある。部屋に入れてはもらえまいか?」
迷う気持ちよりも、疑問が解消されるかもしれないと、私はルシファー様を部屋に入れてしまった。
「どうしたんですか、改まって」
「いや、昼間のことを謝りたかったのと……お前との出会いについて話しておきたかった。俺が300年前、堕天使として落ちてきた時のことを」




