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第九話

 ハビエル様が書物庫に到着したのは、お昼前のこと。

 従者と書物庫の係員に先導を受けるお姿を見て、心臓がきゅっとしてしまった。

 お姿が、もう、なんというか。

 

 これが戦勝パレードだったり競り市だったりすれば、華美な服装と装飾品、そして高級な香水の香りはご自身を高く見せる道具として大きな効果を発揮しただろう。

 でも、ここは書物庫。誰かと上下関係をはっきりさせる場ではなくて、数多くの本から知識を授かる静かな場所だ。最低限の装いは人として必要だろうけど、ファッションショーがしたいならそれ専用の場所ですればいい。

 まして、女性を連れてなど。

 

「へー書物庫って、こんな場所だったのですね。本当に本しかなくて、びっくりです」


 のほほんとした声とともに揺れるピンクブロンドの髪を見間違えるはずもない。

 そりゃあね。家の書物庫にもめったに立ち入らない彼女にとって、ここはさぞかし珍しい空間なのだろう。かび臭いーと無邪気に広言して周囲を別の意味で刺激している。

 でも、今はそんなことより婚約者の苦情を言いに来るのに女性同伴、しかもその女性は婚約者ではないというところが問題だった。

 カルロス様は目を細めているくらいだけど、学者さんたちは顔に出している人もいた。恥ずかしい。本当に恥ずかしい。

 

 香水の香りが強くなり、ベアトリスの声が大きくなってきたところでカルロス様が立ち上がる。

 こちらにやってきた案内係さんが横に逸れると、ハビエル様が数歩の距離にいて、その視線がカルロス様から背後の小さくなっている私に定められた。

 ハビエル様は、それまでベアトリスと楽しそうに会話をしていたようだったのに、こちらを認めたとたん、面白くなさそうな顔に早変わりする。


「そこにいたかイネス。ここは存外、かび臭いところだな。君にはよく似合っている」


 思わず私は、やるべきことを忘れてしまいそうになった。顎を上げ、冷気を吹き下ろすかのようなハビエル様の視線に身が凍りつきそうになってしまった。

 でも、なんとか踏ん張る。だって私は、この場所で、紙の衣服を身にまとい、インクの染みを装飾に、そしてかび臭さを香水とする生き方をしてみたいのだ。


 だから私はひるまない。

 お褒め頂きありがとうございます、と満面の笑顔を見せて、やるべきことを始める。私のこんな顔、見たことないでしょう?

 

 それに、ハビエル様がどんなつもりで言ったのかは分からないけれど、偶然とは言え、私の望む言葉を初めて頂けたのだから、そこは喜ぶべきところだと思うのよね。

 そうやって鼻歌でも歌いださんばかりのノリでカルロス様を紹介すると、ハビエル様もその斜め後ろにいるベアトリスもとても不思議そうな顔をしていた。虚を突かれたのか、どちらも気持ちが顔に出ている。あらあら。


 そしてその隙間に入り込むようにカルロス様が体を前に進め、軽く頭を下げた。

 向かい合ってみると、どちらも同じくらいの背丈で、白い肌。

 しかし、ハビエル様の方がご自身にたくさんのお金をかけているのは、ありありと見て分かった。

 方や、豪奢な身なり。方や、くたびれた身なり。まぁ、ね。

 

 だけど、カルロス様だって引けを取っていない。無精ひげを剃り、お肌のお手入れをすれば、若さ以外においてはいい勝負をするんじゃないかしら。


 心中で見比べられているとは思わないだろうカルロス様が友好的な笑みを浮かべ、ハビエル様に手を差し出す。

  

「お初にお目にかかります。カルロス・アルマールと申します。この度は」

「不要だ」


 まさか。

 言葉を失った。私だけでなくカルロス様にも冷気をまき散らすなんて。

 信じられない気持ちでハビエル様を見ると、ふん、とわざとらしく大きく鼻を鳴らした。

 

 あっ。そこで私は理解した。

 そうか。そうだったのか。ようやく理解した。ハビエル様のご機嫌が悪いのは、そういうことだったのだ。


 一言で言えば、これ。

 我は、伯爵ぞ。

 伯爵様がわざわざ来てやったというのに、こんなにも埃の舞い踊る場所とは何事ぞ。

 伯爵様を迎え入れるなら、それなりの準備というものがある。掃き清め、誰もが膝をついて出迎えるべき。

 それなのに、なんだこれは。

 無礼千万。許せぬ。


 こうなったから、私を見て開口一番、冷気を吐き出したのだ。お前がいてなぜこんなことになっている。気のひとつも利かせられないからお前は埃を被ったままなのだ。

 

 でも、それはそう。ハビエル様が正しい。私は、自分の未来のことで頭がいっぱいで、そこまで気が回らなかった。伯爵閣下が来ると分かっていて、もてなすことも、カルロス様に進言すらしないなんて、私は本当に駄目すぎる。何が紙のドレスにインクの宝石だ。調子に乗りすぎだ。

 

 恥ずかしい。情けない。高貴な方の出迎えひとつできずして知の番人とは聞いて呆れる。知識として知っていても、やらなければ知らないのと変わらないではないか。

 これではハビエル様がお怒りになるのは当然だ。こんなにも失礼なことはないのだから。

 

 学者さんたちもざわめいている。苦笑いする人や楽しそうに笑う人、中には顔を青くする人もいた。だよね。下手をすれば彼らも巻き添えを食う可能性があるもの。

 伯爵様に礼を尽くさなかった結果、職を失うなんて話はそこら中に溢れている。

 

 私は、どのように償えばいいのだろう。

 賠償金なんてもちろん払えない。できるのは労働くらいだけど、何年働けば償いになるのかなんてさっぱり分からない。


 詰みだ。

 図らずとも私の未来は視えてしまった。

 これまでと同じどころか、それ以上にひどい生活が待っている。私は、自分のミスで、自分が貴族令嬢として扱われる権利さえ失うだろう。


 その場にしゃがみこみたいくらいだった。

 大声で叫び、泣きたかった。

 そうできたらどんなに楽だろう。ベアトリスならたぶん、そうしているだろう。

 でも私は、“知の番人”として毅然としていたかった。カルロス様や学者さんたちが認めてくれた、私が私である証を最後まで守りたかった。ぐっと奥歯を噛み締めながら、泣きほうになるのを我慢する。

 すると、ハビエル様は少し鼻白んだ様子で私から視線を外し、後ろにいた従者へ顎で合図する。

 従者はひとつ頷き、大きな布袋を捧げ持つと、書籍や資料を広げた机の上に置く。ゴツリという音がして、次いですぐ、じゃらりという音に変わった。

 見るまでもなく分かる。ハビエル様はどこまで傲慢なのだろう。


 それでも、カルロス様はいつもと変わらずに平然としていた。どっさりと中身の入った袋を見ても、道端に落ちている石ころを見るのと同じような顔つきで眉ひとつ動かさない。

 

「……これは?」

「見慣れてはおらぬだろうゆえ、教えてやろう。これは、金貨を入れた袋だ。イネスは引き取る。これで我慢するがいい」


 まるで、高い山の頂きから見下ろしているかのよう。カルロス様を下級官吏と侮り、蔑んだ目でそれを受け取れと命令した。

 

 しかし、それでもカルロス様は片眉を少し上げただけだった。

 これが、身分の差だ。どれだけ辱めを受けても、耐えなければならない。書庫の管理者と伯爵では立つ位置が違う。

 私だってそう。そしてその差はハビエル様とカルロス様以上に広い。どれだけ見上げてもそのお姿はマントの端も見えないし、乱暴に私の手を引き、帰ると告げられても私には逆らうことなんて絶対にできない。

 二度とこの場所に来てはならんと言われても、だ。


「いらぬ」

「……へ?」


 慌てて両手で口をふさぐ。そっと見上げる。カルロス様は、今、何て言った?


「……最近は、高貴な声しか聞いておらぬゆえ、声とは思わなかったが、今のは言葉だったか?」

「ほう。新進気鋭の商人は、相場は読めても真贋は見抜けぬと見える」

「何?」

「空虚な中身を誤魔化し虚勢を張ることに腐心していては、本物など分かるまい」


 ひぃぃぃ……。

 激しい火花が見えた。逃げ出したい。でも真ん中に挟まれて動きが取れない。誰か助けてと学者さんたちを見回すけどみんな笑っていた。どうして?


「地べたで蠢く虫けらには空を飛ぶ大鳥の偉大さはわかるまい。それをじっくりと教えてやろう」


 何事かを命じられた従者が踵を返す。こちらに視線を戻したハビエル様は、すごく、昏い顔をしていた。

 そしてそれでも表情を変えず、興味のなさそうなカルロス様。どうしてそんなに平然としていられるのか。

 学者さんたちもそう。気持ちは違えどみんなが笑っている。悲観的な思いを抱いているひとは見る限り、ひとりもいない。

 頭の上で疑問符がくるくる回る。

 

 そうこうするうちに従者が帰ってきた。なぜか衛士をふたりも連れている。

 この者です、と従者がカルロス様を指差した。まさか、伯爵の威光で冤罪を仕立て上げるつもり?

 じっくり教えてやるって、まさか、そういうことなのだろうか。

 でも、私にはどうしようもない。学者さんたちはどうして何もしようとせず、楽しそうに成り行きを見守っているの?

 

「いや、その……」

「えっ……この方を?」

 

 なぜか衛士は戸惑い、顔を突き合わせていた。どうしてだろう。伯爵様のひと声なのに動かないなんて。

 焦れたハビエル様が早く捕らえろと怒鳴る。それは、今まで聞いたことのないくらい大きな声だった。

 その気持は理解できる。伯爵様として、これまで思い通りにならないことなんて殆どなかっただろう。まして、衛士が命令に動かないなんて体験は初めてに違いない。

 

 ……まさか。


 衛士たちは互いに首をひねっていた。奇しくもハビエル様と同じ気持ちなのだろう。

 どういうことなのか、という気持ち。


 私がひとつの結論に達したころ、年嵩の衛士がハビエル様の前に進み出て、恭しく頭を下げた。それはどうも大仰な感じだがした。

 

「いやぁ、誠に申し訳ございませんな。いくら伯爵様のご意向でも我々には荷が重く……」

「なぜだ!」

「いえね、我々の権限では、王弟殿下を捕らえることはできないのですよ」

「なん……だと……?」


 やはり。

 ハビエル様とベアトリスは、ふたり揃って同じような顔をしていた。ぽかんとした、人には見せられないほど、だらしのない顔。

 ベアトリスなんかは金魚みたいに、口をパクパクさせていた。

 

 そこからすぐに回復したハビエル様はさすがだ。手探りで確かめるように、ゆっくりと、口を動かす。

 

「殿下……だと?」

「はい。我らが輝ける王の、三番目の弟君でございます」

「三番……まさか、アルマール侯?」

「称号だけだがな」

「ひっ」


 カルロス様の割り込みに変な声を上げてのけぞるハビエル様は、湖のように真っ青な顔をしていた。目がきょろきょろと泳ぎ、ひどく慌て、焦っている。

 まぁ、ただの官吏だと思っていた相手がなんと、王族であったのなら誰だってそうなる。まして王弟殿下相手にどんな態度をとり、どんな言葉をかけてしまったのか、ついさっきのことだから思い出すまでもない。

 

 不敬だと突きつけた指をそのまま返されてしまった形だ。恐ろしさに全身がわななく。

 そしてカルロス様は狼狽する貴族など見慣れたものだとばかりに目を細め、冷たく言い放った。

 

「……どうやら成金は礼儀すら知らぬようだな」

「こっ、これは、失礼を……」

 

 これが、王族。伯爵の座よりも高みから見下ろす視線にハビエル様は怯え、弾かれるように膝をついた。次いで、ベアトリスが片足を引き、深く頭を下げた。一瞬見えた表情は、困惑、混乱。

 いつもはくすんでいる金髪が何よりも輝いて見えるな、なんて思っていると、ふいに手首を掴まれる。

 あれ、と思っている間に私は吸い込まれるようにカルロス様の腕の中に収められてしまった。えっ、ちょ。なんで。なぜか私、抱き寄せられてるのですけど。

 

 熱い。急激に顔が熱くなる。恥ずかしいという気持ちと、何だろう。何かだ。

 ふわり。

 混乱する私を鎮めるかのように、どこからかよい香りが鼻をくすぐった。湿り気を帯びた土のような、あるいは温かな新緑のような。もう一度、と思って鼻を鳴らしたけど、その時にはもう何も匂わない。これは……。

 

 それは、ハビエル様とは違う、近くに寄って初めて分かるていどの、さりげない香りで、それがカルロス様の香水。

 どきどきと心臓の音がうるさく鳴る。息が苦しくて、考えがうまくまとまらなかった。


「イネスを連れてゆくことは許さぬ。私が見つけた才能だ。そなたに彼女は過ぎたるものよ」

「し、しかし殿下。イネスは私の婚約者でございます」

「イネスとの婚約は破棄せよ」

「恐れながら殿下。いくら王族であっても臣下の婚姻には」

「事実に合わせればよかろう。そなたの不義は聞き及んでいる」

「う……」


 なぜ知っているのかと思ったけど、そうだ。この方は殿下だった。貧乏子爵の家庭事情を調べるくらい、朝飯前なのだろう。 

 そう思うと、顔がさらに赤くなる。屋敷内で私がどう過ごしているかなんて情報、使用人は誰もが簡単に売り渡すだろうし、何を知られてるか分かったものではない。もしかすると、背中にあるホクロの位置なんてことだって。


 そう思うと、もう顔を上げてはいられなくなった。とんでもなく恥ずかしすぎる。

 

 でも、カルロス様が私を腕の中に保護したままだから状況的にはありがたい。それに、抱き方。力を入れすぎず、緩すぎず。しっかりと抱かれていて、布越しに伝わる温かさが不思議と安心できた。多少の恐れ多さを感じながらも、顔のほてりが収まるまでは、このままでいたかった。

  

「……もう下がるがよい。この場所に銅臭は合わん」


 ぐっ、と私を抱く腕に力が入ってどきりとする。でもこれはたぶん、左手でしっしっとしたからバランスを取るためだ。たぶん。

 

 しかしまぁ、伯爵にしっしってやれるなんてやっぱり王族なんだなと改めて思う。

 そうやって見上げたカルロス様の目は、熱がないというか、学者さんたちや書物、そして、私を見る時とは全く違い、心底、ハビエル様に興味を持っていなかった。

 確かに、金貨の入った袋を忘れず持ち帰る後ろ姿は、伯爵様として似つかわしくないものだったかもしれないけどね。


 そこで現実に戻った。

 この状況、まずくないだろうか。

 ハビエル様は、どう見ただろう。侍女は、どう報告するのだろう。



「あの、カルロス様……」


 未だ熱さの残る顔を見られたくなくて、うつむきがちのまま身じろぎすると、カルロス様はふっと私を離してくれた。

 後ろ髪を引かれる思いでその場を離れると、まず最初に深く頭を下げた。多大な恩を頂いてしまったのだから当然だ。

 それは、一生かかっても返しきれないほど。真っ暗だった私の世界に糸を垂らし、救い出してくれた。

 

 この方のためなら。

 私は、どんなことでもするだろう。

 翻訳でも、侍女でも、できることなら何だって。

 

 だけど、カルロス様は鼻息荒い私にひとつ微笑むと、こう言った。

 

「糸を登ったのはそなただ」

「それは……はい」


 私は、突き放されたのかと思ってしょんぼりする。だけど、そうではないとカルロス様は首を振った。穏やかで、幼子に教え、諭すような優しい雰囲気だった。

 

「どれだけ糸を垂らしても、登らなければ何も変わらぬ。登ると決めて、登り、今を手に入れたのはそなただ」


 カルロス様は私の肩に手を置いた。


「そなたは、そなたであることを誇れ。そなたでなくては、この糸は登り得なかった」

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