第八話
清々しい目覚めだった。
昨晩の良い記憶は今朝の希望に姿を変え、私の体をすいすいと動かす潤滑油になる。
ぱちりと目が開くとすぐにベッドを降り、侍女の手伝いで身だしなみを整える。
着替え終わるまであっという間。今までとは全然違う。
「お嬢様、今日は、体調がとても良さそうですね」
侍女も驚くほど。
それまでずっと、両肩に重い何かがのしかかっていた。
顔を洗い、服を着替えてしまうと食堂に行かねばならなかった。目にしたくないものを見て、口にしたくない言葉を紡ぎ、耳にしたくない言葉を聞かねばならない。
つらく苦しい一日がまた始まるというのに、身体が軽やかに動く。
「こんなに気持ちの良い朝は初めてだわ」
「まぁ。それはよろしゅうございました。お仕事にも精が出ることでしょう」
「そうね。やれることを、やるわ」
今日の髪型もいつも通り、三つ編みを一本、背中に垂らして完成だ。
これまでは手抜きのように思っていたけど、仕事中、髪を気にすることが少ないのはこの髪型だろうと思い至り、むしろありがたく思うようになった。不思議なものである。
「よし、行きますか」
正直なところ、いつ挫けるかとビクビクしている。でも、何があっても私には書物庫がある。やれる所まで頑張って、駄目になったら逃げ込めばいいんだと自分に言い聞かせ、侍女の先導で部屋を出た。
廊下を歩いていると、慣れた香りが漂っていることに気付く。普段ならこの時間にはありえない香りだった。
なるほど。すごいわねぇ。
嫌味ではなくて、純粋に感心した。この二日間で私はいろんな景色を見たけれど、世界はまだまだ広いのだと思う。
そこへ私よりも先に足を踏み入れたのだから、すごいと思ういる。しかも、少し変わった、私などでは及びもつかない手法で入ったのだから恐れ入る。
うん。震えてはいない。歩く速度も、歩幅も変わらない。私は、大丈夫。冷静だ。
目の前を歩く侍女の背中を見る。
ひとつ、疑念がわいた。
彼女は、知っていたのだろうか。知っていて、あえて私に教えなかったのだろうか。
それとも私を探し回っていたから、知る余地がなかったのか。
以前の私なら即座に前者だと決めつけていただろう。でも、今の私には彼女がそんなことをするような人には見えない。
あ、でも口止めされてた線もあるわね。
どちらでもいいわ。これで確定したのだから、後は淡々とやればいい。
食堂に入って私はまず、お父様とお義母様に昨夜の謝罪をした。特にお義母様には色々と手を尽くして下さったであろうことに改めて頭を下げ、感謝した。事実は知らない。
「家を出る時は必ずひと言告げるように」
「侍女を連れずに出てゆくなどもってのほか。外出の連絡すら寄越せないのなら、必ず侍女を伴いなさい」
「はい」
いつもより言葉に勢いがなくてびっくりした。王立の機関が絡んでいるからだろうか。それならそれで助かるけど、何が足りないような、畑に穴ぼこが空いているような感じだった。
ベアトリスはいつも通り、眩しい笑顔で私の無事を喜んでいる。
その隣に座る紳士とともに。
「……ハビエル様にも、お手数をおかけしたようで、本当に申し訳ございません」
「あ、ああ。無事でなによりだ」
なぜここに、とは問わない。私の心配してきてくれたのだと受け取るふりをして、礼を述べ、深く感謝する場面だ。
例えばベアトリスが私の立場なら逆に問い、動いて下さったハビエル様の情の深さと、食卓で会えたことに大きな喜びを示し、純粋さと、可愛らしさを強調しただろう。
でも、私にはそれができないし、そうあるのがお好みであえて昨晩、お義母様と一緒に出迎えなかったのだとすれば、そこは申し訳ないと思う。
でも、私は背伸びをしないと決めたから。
「昨日、家に帰ってから、君がいなくなったと知らせをもらって、慌てて舞い戻ったのだ。本当に、何事もなくて良かった」
重ねて、経緯を説明してくれる。それよりも私が帰宅した時、どこにいたのかを教えて頂きたいところだわね。
誰の部屋で、何をしていたのかを。
「そうでしたか……それは、大変ご心配をおかけいたしました」
「いや、君の婚約者なのだから、当然だ」
「ところで、私が帰宅した時は、すでにお休みに?」
「あ、ああ、そうだな。家の方々が気を遣ってくれたようだ。起こしてくれても良かったのだがな」
「お心遣い、ありがとうございます」
これでいいかな。私は、ちらりとお父様を見てから自分の席に座った。お父様たちとは離れた隅の席。
するとすぐにお父様が朝食の開始を告げる。私は心の中でほっとした。これでいいのね。これ以上の茶番は疲れるから助かる。
いつものようにスープの配膳は最後で、パンも最後に取りにゆく。お父様の近くにパン籠が置いてあるから席を立たないといけない。楽しそうな会話は見なくても耳に入ってくる。
今日は少しでいいだろう。ふわふわでも真っ白でもないパンをひとつと、しなびかけた果物をひとつ自分用の皿に盛り、席へ戻る。
「……今日も、書物庫に行くのか?」
「はい。これから毎日。しばらく」
「それは聞き捨てならないな」
見るまでもなくハビエル様だった。楽しそうに三人で話をしていたように見えたけど、話の途中で入ってくるなんて、驚いてしまう。
こちらが格下だものね。いきなり割って入られても仕方ないか。視線を戻せばお父様は何食わぬ顔で食事を再開しているし。
向き直ると、ひとりだけ白パンを手にした顔は面白くないと顔全体に書いていた。
「君は、私との約束があってもお仕事とやらを優先するつもりか?」
「とんでもございません。ハビエル様とのお約束を優先するのは当然のことでございます」
急な申し出ならともかく、あらかじめ伝えておけば、カルロス様は簡単に許可をくれそうだった。急なものでも事情によってはすぐにふたつ返事しそうなイメージがある、
だけど、ハビエル様はそうではないと低い声を漏らす。それはね、仰る通り、世の中には予定を返上してでも働かなければならないことがあるのは理解している。納期だったり身分の高い人のご気分だったり色々だ。
それでも、カルロス様なら許してくれそうなんだけど、こればっかりはカルロス様をご存知ないハビエル様には通じないだろう。
言い淀んでいると、ハビエル様がよし、と手を叩いて書物庫に行くと言い出した。
いやそれこそどうなんだろう。仕事場にいきなり押しかけるのは世の中の道理として、正しいことか。
「先触れを出せば良かろう。やましいことがなければ、受け入れられるはずだ」
「しかし……」
「私は伯爵だ」
それを出されると何も言えない。
先に出てカルロス様に説明だけしておこう。こんなことで首にされないよう、這いつくばってでも印象を良くしておかないと。
◇ ◇ ◇
「承知した」
表情ひとつ動かさず、カルロス様は軽く頷いただけだった。はて。
思っていたのと違う。それが最初の感想。
もっと不快を表に出されるものだと思っていた。いつもの疲れた顔で、深いため息をつくものだと。
だって婚約者が怒鳴り込んできますと言われて楽しいはずがない。都合も意思も確認せずいきなり我は伯爵なるぞ、では腹のひとつも立つだろう。
それなのに、カルロス様は気にもとめていない。
どうしてだろう。思い切って聞いてみても、事実だから、としか返ってこなかった。
それは、そうだけど。もっと、こう。
こう?
私は何を求めているのだろう。怒りや不快を表に出さないのはむしろありがたいはずだ。怒り狂い、怒鳴り散らすことを望んでいたわけではないのに。
それなのに、いざ落ち着いた反応をされると何やら物足りなく感じてしまう。
この気持ちを何と呼べば良いか分からず、首を何度も左右に傾け、そのせいでカルロス様から心配されてしまった。ほかの学者さんたちもそうだ。
でもみんな、揃いも揃って私の肩こりを心配して、横になろうとか、遠くを見ようとかだったから、これには苦笑いでしか応えられなかった。
でも、この配慮こそが嬉しかった。私の様子に気付き、心配して、休養を勧められる。こんな体験、ほとんどしたことがない。
学校でも基本は自ら主張しろ、だった。体調が悪いと自らが分析し、休養が必要と判断したなら休ませてくれと主張しろ。それが、学校の教育方針だった。
家? 言うまでもない。
そこで、頭の中に火が灯る。
なるほど。私は今の、この心地よさがどうなるか分からないから、カルロス様に物足りなさを感じたのだ。
ハビエル様が苦情を入れて、カルロス様がどう答えるか。ご不快を露わにし、ならば契約は解除だとなるのか、あるいは謝罪はするが仕事は続けてもらいたいとなるのか。
その結果次第で私の明日からが変わる。元通りの、灰を被るような生活か、それとも紙を積み重ねる生活か。全く違うのに、かけらも見えてこないから不安になったのだ。
どうしよう。
改めて聞くべきだろうか。聞いたら怒る? いつもくたびれた顔をしているから怒りっぽくなっていないだろうか。怒られるのは嫌だ。それに、私自身がハビエル様に悪い印象を抱かせて、その判断に影響を与えたくない。
こんな奴は持ち帰ってもらって結構、となるのだけは避けたい。
どうしたものかと考えていると、隣から私の名前が呼ばれる。カルロス様だった。
「顔が青くなったり白くなったりしているが、本当に大丈夫か?」
「あっ、すみません……」
思わず身を縮め、下を向いてしまった。顔に出ていたなんて恥ずかしい。ちらりと見るとカルロス様は不思議そうな顔をしていた。なぜ?
「何を謝るのだ? 続けたいのなら、体は大事にするべきだろう」
「あっ……」
それって、もしかして。
顔を上げ、恐る恐る尋ねる。私は、このまま続けてよいのか。煩わしいことになり、面倒に思われていないのか。
臨時で雇われた私など、機嫌ひとつで契約を破棄できるだろうに。
「おいおい。私を暴君にしないでくれ」
「あっ……」
「ひとたび雇い入れた仲間だ。望まれぬ限り手放さぬよ」
「仲間……」
いつの間にか集まっていた学者さんたちが頷く。嬉しすぎる。泣きそうだ。
でも私は本当に、こんなにも温かい湯船の中にいてもいいのだろうか。都合が悪くなれば出てゆけと言われないだろうか。
我ながら極端な話だとは思うけど、永遠に浸かっていてもいいと保障されない限り、安心できなかった。
私はいつ、あの毎日に戻されるのかと不安なのだ。
目の前では焚き火をして、温かいご飯と毛布を用意してくれているのに、そこに行けなくて震えている状態。
寒いのに、お腹が空いているのに――。
私の足には、重い鎖が何重にも巻き付いているのだ。




