第七話
翻訳作業はすいすいと進む。
美味しい白パンと瑞々しい果物でお腹は満足しているし、分からないところがあれば書架から本を借りればいい。
それでも分からなければ、カルロス様がいる。学者さんたちもいる。翻訳をするために、何ら不足のない環境だった。
これまでこなしてきた仕事は、暗い部屋でひとり黙々とペンを走らせる、肩の凝るだけの作業でしかなかった。
定型文や原文を単に清書するだけで、字が書けるなら誰でもできるものしかなかった。
でも今は違う。
辞書を片手に文章を読み、理解した内容をこの国の言葉へと再構築する。
定型文も原文も何ひとつない。この国で、いや、もしかすると世界で一番最初に私が新しく創り出す、たったひとつの訳本だ。
そう考えると、嬉しくなる。私でなくてもできたことだけど、翻訳したのは私だから、少しくらいはいいよね。
「見事やり遂げたな。遅くまでご苦労だった」
隣でカルロス様が満足そうな笑顔を見せた。暑すぎない太陽は常に私の心を温める。近くでいることに今更ながら照れくさくなり、少し顔を下げた。
「お膳立て頂いた結果でございます……」
「環境あってこそ才能は羽ばたける。過剰に卑下するな。誇れ」
「それは……はい」
何だか照れくさい。慣れないことばかりでどう反応していいのか分からないことだらけだ。
それでも、好意だけは素直に受け取っておこう。
「ありがとうございます」
「うむ」
学者さんたちにもお礼を伝えると、色んな表現で応えてくれた。嬉しい。ここは、悪意なんて言葉が存在しない夢のような空間だった。
いつまでもここにいたかったけれど、私には帰らなければいけない場所がある。窓の外は、深い紺色だった。
できる限り早めにまた来よう。後回しにさせてもらった依頼がある。
この気持ちがあれば、私は、夢から覚めても大丈夫だ。
「ところでイネス。帰りの足はあるのか?」
「あ……」
忘れていた。
馬車を帰していたことではなくて、その後のこと。
この仕事がいつ終わるか分からない以上、馬車を待たせるのは気の毒だし先に帰すのは当然で。
自分がどうやって帰るか考えなきゃと思ってそのまま忘れていた。
だって、楽しかったから。後先を忘れるほどに楽しい体験なんて、今までしたことがない。
「馬車を出そう。少し待っていろ」
「えっ、そんな。それはいけません」
「そなたは今日からこの書物庫の一員だ。ならば、馬車に乗って帰る権利がある。あいつらと同じくな」
「えっ?」
見れば、学者さんがふたり、近くに立っていた。笑顔でこちらに手を振る妙齢の女性と、穏やかに笑う中年男性。
話をするとふたりとも、そろそろ帰ろうと思っていたところだと言う。
ここに勤める学者さんたちは、それぞれのペースで仕事をしているので、帰る時間にばらつきがある。
だから、帰る時はそのつど、カルロス様に馬車の手配をお願いすることになっているとのことだった。
「カルロス様に……?」
「カルロス様は、ここの管理を任されているのよ」
「そうでしたか……ですから昨晩も遅くまでこちらに」
「ん? そうそう。カルロス様は、ここがお住まいのようなものだから」
「つまり、家に帰れないほどお忙しいのでしょうか?」
失礼ながらお父様より少しばかり下のような年齢と見受けるのに、あれほど疲れた顔をしているのは仕事が忙しいせいなのだろう。
書物庫にも簡易的なベッドがあるだろうけど、やはり家のベッドとは違うだろう。一般的には落ち着けると言われる場所で、ゆっくり休んだ方がいいに決まっている。
だとすると私ができることは何か。私に、こんな世界を教えてくれたカルロス様に恩返しがしたい。
できること。それはやはり仕事を振って貰うことだ。そうすることで少しでもカルロス様の負担を減らし、家に帰る時間ができれば疲れもとれるに違いない。
それに、私もここに来る理由ができる。
書物庫の一員だと言われるのはこれ以上なく嬉しいけれど、じゃあ何をしているんだと問われて答えられないのでは格好がつかない。
今は、目に見える何かが欲しい。自分を支える、大きな柱が一本でも多く欲しいのだ。
だから私は、カルロス様にお願いして仕事を頂こう。
「カルロス様、私に、どんどん仕事を振って下さいね」
◇ ◇ ◇
カルロス様のエスコートで馬車を降りると、土産だと肩掛けの革袋を頂いた。
両手で受け取ると、どさりとして重く、微かによい香りがした。これは。中身に想像が付く。でも、なぜ。
私には頂く理由がないと気持ちを視線に乗せてカルロス様を見上げると、口角を少し上げてこう答える。
「気にするな。いつも誰かに持たせている」
「しかし……」
「今日はそなたが仲間入りした日だからな。そなたに持たせても誰も異論はあるまいよ」
「仲間……」
胸の奥で火が灯った。その言葉がこの上なく嬉しかった。笑顔を抑えきれなかった。
カルロス様と中の人たちに挨拶をして、家へと向き直る。一歩、また一歩。私は、もらった勇気で歩き始める。
門の前には従僕がいて、私が近づくと扉を開けてくれた。頭を下げないのは今更だし、視線を下げるくらいでも充分だと思えた。
そして、開いた扉の向こう、エントランスには険しい顔で両手を組むお義母様。すごい怒りが立ち上っている。
まぁ、それは仕方ない。甘んじて怒鳴られよう。ぐっと奥歯を噛みしめ、頭を下げた。
「ただいま戻」
「こんな遅くまでどこに行っていたの!」
猛獣が吠えるように、大きく開いた口から毒針がいくつも私に降りかかった。
以前の私なら、そこで萎縮したまま何も答えられなくなっていただろう。ただしゃがみこみ、許しを請うだけの存在だったはずだ。
いや、そもそもこんな遅く帰るなどという行動を取ってはいない。こうなることが分かっているから。この毒針がどれほど痛く、長く私をむしばむかは実体験からよく理解している。
だけど、私は。
「王宮の書物庫に行っておりました。仕事を頼まれたのです。時間がかかり、帰りが遅くなったことは深くお詫び致します」
予想されたことだ。激しく吠えたてられ、噛みつかれる。雷ならまだしも、そうなると分かっていることに恐れおののいても意味がない。
もちろん、謝るべきことには深々と頭を下げる。貴族令嬢が無断で遅くまで外出するなど絶対にありえない行動だから、そこは素直に謝るべきだろう。
証拠はどこにあるのかと追撃の毒針を受けても、それは一緒に来ていただければ、としか返答できない。
「だとしても、ひと言も告げずに家を出るのは淑女のすることではありません。部屋で反省なさい。食事も抜きです」
「はい。ご心配をおかけして申し訳ございません」
拍子抜けだった。明日の外出禁止くらい言われるかと思っていたのに、こんなものか。部屋に戻って眠るだけでいいなんて、罰にもならない。
それとも明日、朝食の時に追加が言い渡されるのだろうか。
まぁ、どうでもいいけれど。
それにしても私は、今まで何をしていたのだろうと思う。何をそんなに恐れていたのだろう。とても不思議な気分だった。
色々と思い出そうとしても、そこまでひどいことをされた記憶って、実はあまりない。
いや違う。それは覚えていないだけだと頭のどこかで誰かが叫んだ。でも、本当に思い出せないのだ。思い出せるのは小さな、取るに足らないことばかり。
だって、激しくやっていたとして、もしそれが外に漏れたら、お義母さまの評判に傷がつく。だから、そこまでのものはなかったんじゃないかな?
だからたぶん、その程度のことに、私は深く、傷ついていたのだ。
あるいはそれは、差し出されたナイフに恐怖し、なのに自ら切り刻まれに行ったようなもので。
恐怖や嫌悪、不安や不信など、たくさんの悲しい感情が混ぜ合わされ、出来上がったモノとも言えるだろう。
だから今の私は、何とも思うことはない。
今のところは、かな。
私はまだまだ、何もかもが足りていないと思う。
もっと頑張らないといけない。
「何をしているの。さっさと部屋に戻りなさい」
「はい。おやすみなさいませ」
頭を下げて、部屋へと歩き出す。それと同時に、どこからともなく侍女が現れ、私の背後についた。
怒っているかな、とちらりと振り返ったけど、その表情からはいつも通り何も読み取れない。
いやでも怒っているだろうなぁ。書物庫に行く時、ついてこられたくなくて、こっそり抜けだしたから。
探しただろうし、お義母様から叱責を受けたかもしれない。
そう考えると、お義母様も気持ちはどうあれ、私がいないという事実に対応はしたはずだ。明日、もう一度謝っておこう。
そして、今も。
私は、階段を上りきったところ、踊り場で振り返る。
「お嬢様?」
「今日は、面倒をかけて、ごめんなさい」
「……本当ですよ。ずいぶんと探しました」
がばりと頭を下げると、間があってから、ぽつりと言葉が落ちてきた。
かき集めたそれは、ほとんどが安堵。意外にも、怒りや恨みなどはかけらも見つからなかった。
どういうことだろう。これも、そうなのだろうか。
例えばもし、一緒に行っていたとすれば、彼女は適切なタイミングでお義母様に連絡を取っただろう。
そうなれば面倒ごとは起きなかった可能性が高い。
顔を上げたそこにも、ほのかなぬくもりがあった。
「あまりおいたが過ぎますと、私の首が飛びます。自重なさってください」
「うん。それは、ごめんなさい。もうしないわ」
「安心しました。ようやく残り物をもらいに行けそうです」
「えっ、まだご飯食べていないの?」
「お嬢様を捜索しておりましたので」
困ったように笑う彼女に、猛烈な罪悪感が沸き上がった。やってしまった。これはだめだ。私はすぐさま彼女の手を引き、有無を言わさず自室へ連れ込んだ。
しっかりと扉を閉めると、中に誰もいないのを確認し、私は頂いた革袋に手を突っ込む。うん。思ってた通りのものが入っている。
「これ、食べて」
革袋から手を取り出し、彼女の目の前に差し出し開く。てのひらには杏の実がふたつ。
当然、侍女は驚く。そこで私がどこで何をしてきたのかを詳しく説明した。
次は逃げないので同行して、仕事をしているところを実際に見てもらいたいと伝えたところ、さすがに察しがよい。目を白黒させていたのもつかの間、穏やかな表情に戻ると、何度か大きく頷いた。
そして彼女は、にやりと悪い笑みを浮かべて私に確認する。
「そのご様子を奥様にお伝えすればよろしいのですね?」
考えるまでもなく私は、今までの人生で何ら恥じるようなことはしていない。と言うか、私にできることなどありはしなかった。
なら、彼女がお義母様に何を報告しようと、別に困ることはないはずだ。私は一体何を恐れ、彼女の何を警戒していたのだろう。
噓の報告ひとつ、された覚えはないのに。
確かに、色分けするなら彼女は私の色ではない。
でも、だからと言ってその色の人が全員、私に対して攻撃的かと言えばそうではない。
波風を立てなくても済むところは、穏やかにいきたいものだ。
私は、侍女の手のひらに白パンも追加したのだった。
「……見ました? なんだか、お姉様じゃないみたいです」
階段の踊り場。扉がバタンとしまったのを確認して、姿を現す二人の男女。
ひとりは、令嬢。つぼみが柔らかくなり、花を開かせようとする間際の、甘さと艶っぽさが入り混じる年代の若い令嬢だ。ピンクブロンドに輝く髪は床につきそうなほど長く、ランタンの光を反射して宝石のように輝いている。
身にまとうは上質の羊毛で編まれた、ほつれひとつない長衣。真っ赤な染色は均一で、ムラがなく、同じ家に生まれた姉が与えられたものより数段上の品質を誇る。
「ふむ……本当に体調が悪かったのか、あれでは疑わしいな」
令嬢の隣で顎鬚を撫でるのも年若い男性だ。令嬢よりは十近くは年上の様子で、どこか繊細そうな、整った細面に下あごを覆う髭が特徴的。エメラルドの瞳が理知的に輝き、二人組の女性がいた場所を見つめている。
こちらも、上質なものを身にまとっており、長袖付きの腰丈の上衣にズボン。こちらの上衣は絹製で、令嬢よりもはるかに高価な服である。
「行った先で何かあったのでしょうか?」
「今は何とも言えんな。だが、注意する必要はあるだろう」
「ですよね。私、これから聞いてきます」
「いや、待つんだベベ」
「あっ」
歩き出そうとした令嬢の腕を取り、抱き寄せる。令嬢は困ったように眉を寄せたが、あまりの近さに嬉しさを隠し切れないでいる。
「明日でいい。私に考えがある」
「でも」
「あんなのよりも、君のほうが大切だ」
「もう……ハビ様ったら」
甘い香りを残して、彼らも踊り場から姿を消した。




