第六話
「イネス嬢のおかげで仕事進みますよ。ありがとう」
「あ、いえ……」
翻訳作業をしていると、学者さんのひとりが私に声をかけて横を通り過ぎる。
ひとりが通り過ぎると、なぜか私の机の周囲を通る人が増える。
そして、そのたびにひと言、嬉しくなるような言葉が添えられる。
そのたびに胸がいっぱいになった。
机に積み上げられるのは感謝の言葉だけではなかったけれど、それでもいいと思う。こんな温かな気持ちになるなら、仕事のひとつやふたつ。
「いやいや。乗せられているぞ」
カルロス様は学者さんたちをひとにらみして追い払った。
別にいいのに。
「なんだその目は。だが、私が頼んだ仕事をなおざりにされては困る」
「ですが、気分転換になりますので……」
「そう言って安請け合いするからこうなる」
カルロス様がジトリと見るのは、私が座る机の端に、積み上がる本や資料。
少し、請け負いすぎただろうか。並行して行うとどちらとも今日中には終わりそうにない、かな。
最初は部分的な翻訳だったのに、いつしかページ単位での翻訳依頼になっている。しかも、古語ではなく隣国の言葉もある。隣国の言葉は学校でも習うし、この国では教養の範囲だったような。これくらいは自分でやって欲しいかな。
しかし、この山。どれから手を付けたものか。どれを優先していいのかが分からない。
今度からどれくらい急ぐか、仕分ける箱みたいなのが必要よね、などと考えていると、向こうの方から声が上がった。
「私のは急がなくていいですよ。明後日くらいまでにお願いできれば」
「俺のは急ぎでお願い」
「分かりました」
笑顔で手を振る。すると、コツリと軽く頭を叩かれた。
「だから私の依頼を先にやれ」
「あっ……すみません」
「分かればいい。何を受け、何を断るか。どれだけ受けるかなど、仕事をする上で判断力は持たなくてはいけない」
「はい」
嬉しかった。
様々なことを教えてもらうのが。
学校のような一対多数ではなく、私ひとりに対して時間を割き、向き合って下さる。
私を、私として扱って下さる。
それがとても嬉しかった。
カルロス様は、私の世界を広げてくれる。
それからしばらく、私の机の周りは平和となり、インクの香りとペンの走る音、綴られた文字だけが世界を構成した。
そしてたまに、私の独り言と、カルロス様の助言。
「地面から鼻が生えた? 花じゃなくて……?」
「地震による地形変化だな。地面が盛り上がることがあるらしい」
「そうなのですか……」
こんなふうに、世界が、ひとつずつ広がってゆく。色が増えてゆく。
すると、その先が見えてくる。色のついていない世界が次々と現れて、これに色を塗っていく作業がこんなにも楽しいだなんて知らなかった。
家の中ではできない体験だ。世界への扉を開いて下さったカルロス様には本当に感謝してもしきれない。
「翻訳ひとつするにしても、色々な知識が必要だ。言葉のまま訳していては読みづらい」
なるほど、と頷きながら見たカルロス様は、口にパンを押し込みながら本を読んでいた。
ぎょっとして周囲を見渡すと、やはり同じような光景が見えた。中には口にパンをくわえながらペンを走らせている人もいる。
これが、学者さんの食事風景なのだろうか。研究や勉強を続けたい気持ちは分かるけど、ずっと資料とにらめっこするなら、少しは休憩をとった方がいいような気もする。
つられて私のお腹が控えめに鳴る。やらかしてしまった。これは絶対に隣の机に座るカルロス様にも聞こえただろう。
とっさに俯き、顔の熱さに耐える。すると、視界の隅にパン籠が入ってきた。
「よかったら食べてくれ」
「あ、はい……」
「好きなだけ食べていいから」
「好きなだけ……」
口に持って行こうとした手が止まる。
そんなことを言われても戸惑うばかりだ。私は、好きなだけどうぞ、なんて場面に遭遇した記憶がないから、どのように返事していいのか分からない。
貴族令嬢のたしなみとしては、ひとつかじって終わりだけど、果たしてそれが正解なのか、確信が持てない。違うような気がする。
目上の方のご厚意に、失礼に当たるのではないか。カルロス様のお顔は、言葉通りの意味のように思えたのだ。
こんなこと、以前なら迷わなかっただろう。でも、最近は“貴族社会の常識”が否定される出来事ばかりだったから、常識に捉われない答えの方が正しいように思える。
「ああ。そうか」
「えっ?」
「パンだけでは味気ないな。果物をとってくる」
「あ……」
止める間もなくカルロス様は席を立ち、果物の入った籠を持って帰ってきた。
さぁ、食べろと私の机の上に籠が置かれる。盛られた果物はサクランボや杏、桑の実など季節のもので、どれも瑞々しく、甘い香りが強く漂っていた。
我が家の食卓や、町の市場に並ぶものよりも、遙かに。
おそらく、この手に持つ白パンも、すごくおいしいのだろう。
だからこそ私は、目の前に立つカルロス様に首を左右に振るしかなかった。
「申し訳ございません。私は、これだけのものに支払える対価がございません」
「対価?」
やはり感覚が違う。それがどこから来ているかはともかく、この扱いは、私には身分不相応であることはしっかりとお伝えしなければいけないと思った。
ベアトリスなら喜んでこれを享受しただろう。でも、私は小心者で、これを幸運と受け入れ美食を楽しむ気分にはなれなかった。
慣れていないのもある。むすむずして落ち着かないのだ。たぶん、これがいちばんの理由。
そしてそれを、私はいかにもそれっぽく言い繕うのだ。
「……これらは、ひとつひとつが高級なものであるとお見受け致します。私の手持ちでは、ひとつも頂くことはできません」
「食事を摂らねば良い仕事はできぬ。ここにあるものは全て無料ゆえ、安心して食べるといい」
カルロス様は苦笑いして、王家直属の部門とはそういうものだと説明する。
だから私とは感覚が違うのだと、少し寂しくなった。
「それではただの無駄遣いです」
「む?」
「備品ならまだ分かります。ですが、その日によって合計金額が変わるものを無制限に設定するのはいかがなものでしょうか」
食べ物は収穫量や出来栄えによって、年ごとに値段が変わる。
その日に食べる量も、私ですら同じではない。
決まった予算があって、その中であればどれだけ食べても良い、というのであればまだ分かるが、好きな時に、好きなだけ、というのは少々野放図すぎやしないだろうか。
「あっ……」
気付いた時にはもう遅い。カルロス様が私を見る目は鷹が獲物を見定めるかのように細く、絞られていた。
まずい。
説明するつもりが生意気な口を叩いてしまった。
ただの小娘が、王家直属の部門の、責任者と思わしき人に、偉そうにも批判をしてしまったのだ。
とんでもないことだ。ありえないことをやらかしてしまった。
お父様に迷惑がかかる。お義母様がとてつもなく怒る。ベアトリスが嗤い、ハビエル様は完全に離れてしまわれるだろう。
私は、自分で自分の未来を閉ざしてしまった。
カルロス様の視線が怖い。お義母様が値踏みするような目だ。自然と視線が下がってゆく。
そうだ。むしろ、無礼討ちにしてくれないだろうか。
そうしたら皆がすっきりする。私などがいなくなっても誰も困りはしないのだ。
「イネス。顔を上げろ」
「はい……」
泣きそうな、人には見せられない顔だけど言われたからには仕方ない。どんな時でも返事はすぐに。悲しい性だ。
何も答えたくなくても、返事だけはしなければならないと、私は過去の経験で学んでいる。
ちらりと見たカルロス様は、思ったより穏やかな顔をしていた。怒っていないのかすでに通り越してしまったか。
「国母の学び舎を卒業しただけとは思えぬその知識は、どこで手に入れた?」
どうやら断罪をする前に情報収集をするようだった。穏やかではなく冷静。まぁ、どちらでもいい。別にどうなろうと構わないので、素直に答える。
「全て、本が教えてくれました」
「ほう……トレド家の蔵書はここと比べても遜色ないと聞く。ならば先ほどの言葉にも頷けるな」
あれ? やっぱり、怒っていないような。
目をパチクリさせて首を傾げる。
「見事な見識だ。しかしそれは一般論。ここの学者たちは大して食事を摂らぬ。大して食わぬゆえの無制限なのだ」
「あ……」
「将来、大食いの学者が現れた時は、イネスの言う通りにしよう」
そうか。そうよね。私なんかが思いつくことなんて、とうに検討されているに決まっていた。それを物知り顔で語って……何て恥ずかしいのだろう。
しかし私を見るカルロス様は温かい。いいのだろうかと思うほどに、温かかった。
「イネス」
「はぃ……」
「まずは食べろ。それともまさか、そなたが大食いか?」
「まぁ……っ」
いたずらっぽく笑ったカルロス様の瞳は、私が恐れていた断罪の目ではなかった。
ほれ、と差し出されたサクランボを一粒、おそるおそる口に含む。もぐ、と噛み潰した瞬間、口の中で甘酸っぱさが弾けた。
私は思わず目を丸くしてしまう。やはり、これは。
「……すごく、おいしい、です」
「だろう? ゆっくり食べるといい。食べ終わったら続きだ。そなたの知識が必要だからな」
必要。
決して言われたことのないその言葉は、芳醇な甘さで私の全身を満たした。
私自身ではなく、私の知識が必要とはれたとしても、それを備えたのは私。それを持つのは私。
顔を上げよう。このしびれるような陶酔を、私は堂々と感じてもいいのだ。




