第五話
あの後、気分が優れないと部屋に下がり、布団に入った。
お父様の言いつけは私を引き留めるに充分な理由だったけど、ここまでひどい扱いを受けてどうしてその場に留まれるだろう。
それとも、私の考え過ぎ? 自意識過剰?
婚約者とではなく、その妹と親密になるのは正しい行動なの?
布団に入っていてもベアトリスの楽しそうな笑い声が聞こえてくる。
ときおり、ハビエル様の機嫌の良い声も。この家って、そんなに壁が薄かったかしらと思っていたら窓が少し開いていることに気付く。
そりゃそうだとため息ひとつ。
なんとも情けない気分でのろのろと布団から出て、窓へと歩み寄る。見下ろしたら、中庭で二人が楽しそうに談笑していた。
「ベベ、君と話していると元気が出るよ。イネスも君の半分くらい、見習ってくれると良いのだが」
そんな声が聞こえて、私はそっと窓を閉めた。
気持ちが沈んでゆく。そうか。私は、ベアトリスから物だけでなく人も奪われるのか。
それならもういい。
私は、ベッドには戻らず、衣装箱から一度脱いだ外出着を取り出した。
侍女が不審がるが、そんなのは気にもならない。私はひとりで服を着られるし、見たままをお義母様に報告すればいい。
私は侍女に何も告げず部屋を出て、ひとりお父様の部屋に向かった。
「失礼の上に無礼を重ねるのか」
「婚約者よりもその妹と懇ろになるのがあるべき道ならば、私の行動は失礼であり、無礼なのでしょう」
「む……」
「どうか、お父様。私には新たな支えが必要なのです」
ごめんなさい、お父様。
お父様は、少しだけ私に同情的だから、こんな言い方をしてしまった。
少しは私のことを公平に見て下さっているはずだから、甘えてしまった。これくらいは、せめて。
「お前の言いたいことは、理解している」
「なら」
「だが、お前は今なお、伯爵閣下の婚約者である」
「っ!」
「ここは、立場を貫き通せ」
「……分かりました」
お父様にも、立場があるのだ。
ハビエル様は伯爵。こちらは子爵。やめて欲しいとは言えない身分の差がある。
たとえ不実な扱いを受けたと訴えても、逆に姉の婚約者から声をかけられ、ホイホイ応じる倫理観は誰が教えたのかと指摘されるだろう。
そもそも、この婚約は、お父様がハビエル様に願ったこと。ハビエル様からの要求ならともかく、こちらから条件を変えて欲しいとは言い出しづらい。
これは、貴族社会の常識だから私にも理解はできる。
そして、不実な扱いを受けたからと相手をないがしろにしていいわけではなく、こういった逆境でこそ誠実さを忘れない方が後々、何かあった時に有利であるとも知っている。
つまり私は今、悪手を打とうとしており、本来、私がやらなければならないことはお父様が今朝、仰った通りなのだ。
「この時だからこそ、慎まねばならないのですね」
「いっときの感情に走るのは知の番人たる我が家の家風にあらず。熟慮せよ」
「お教え、ありがとうございます」
私は深々と頭を下げた。暗雲が一気に晴れたようだった。部屋で寝ていよう。
そう決めて私は立ち上がり、部屋を出ようとした。
「……閣下がお帰りになってからなら」
「はい?」
私は、振り返ってお父様を見る。お父様は窓の外をご覧になっていた。そこに何が見えているのかは分からない。
「なぜか、古びた馬車と老いた御者の手が空いているかもしれんな」
「えっ?」
独り言を呟くように。
淡々として呟くお父様の感情は読み取れなかった。
「ただ、無断外出をして、なおかつ帰りの遅い者に、夕飯を与えることはできんがな……」
「お父様……」
ありがたい、と思った。
ハビエル様がお帰りになってから書物庫に行ったとしても、すぐに夕食の時間になってしまう。
でも、お父様は帰りの遅い者には夕飯を与えぬと言った。
つまり、無断で外出するのだから、罰は必要で、それが夕飯抜き。
どうせ夕飯を抜くなら遅くまで仕事をすれば良いし、その間に夕食も摂れば良い。
そう、言っているのだと思った。
「……これはあくまで独り言ゆえ、この情報をどう活かすかについて、儂は関知せぬ」
逃げた。
でも、これは仕方のないことだ。
我が家は文書の保管・管理のためにお金が必要だけど、お父様はお金稼ぎが上手ではない。
対してお義母様は商売が上手で、我が家に大きく貢献しているから、お父様はお義母様に頭が上がらない。
だから、お父様が私の境遇に思うところがあったとしても、表立って私の味方など、できはしないのだ。
なのに、私の手引きをしたと知れたらお義母様の怒りはどれほどか。
うん。嫌だね。身震いする。
改めて私は、お父様の背中に深く頭を下げた。
◇ ◇ ◇
おんぼろの馬車と耳の遠い御者。そしてゆるゆる歩く馬。
逸る気持ちに反して進みは遅い。
でも、この遅さが浮き足立つ私の心を鎮める時間をくれる。
あれから、ハビエル様はしばらくベアトリスと談笑してから帰宅された。
私は、わざとふらつきながらハビエル様の前に出て、無礼を謝罪した。
さすがにハビエル様も大人だから、表面上は受け入れて下さったけれど、心の中ではどうだったろう。
でも、もう気にすることはない。表に出さないことは、事実と認定されないから。
私は謝罪して、ハビエル様は謝罪を受け入れて下さった。この事実さえあればいい。
それよりも今はお仕事に集中したい。
普通の馬車なら十五分ほどで到着するはずの王宮も、この馬車では三十分近くかかってしまった。
でも、遠回りは慣れているので、気にもならない。
門番さんに名前と用件を告げると、なぜかすぐ通され、案内を受けて書物庫へ行く。
衛士さんが書物庫をノックすると、中から若い、官吏らしき男性が出てきた。
彼は衛士から説明を受けると笑顔になって私に向き直り、右手を胸に当てて軽く礼をした。
「お待ちしておりましたイネス嬢。今日はもういらっしゃらないのかと」
「あ……イネス・デ・トレドでございます。どうぞよろしくお願いいたします」
「こちらこそ。歓迎しますよ。どうぞこちらへ」
ずいぶんと友好的に接してくれるものだ。
案内された書物庫には、官吏だろうか中年の男性や女性もいた。
そしてなぜかみんなが私を、歓迎しているように見える。女性なんかは私に手を振ってくれた。
なぜだろう。こんな、うさんくさい小娘なんかに。
家名のお陰だろうか。だとすると過剰な期待を抱かれても困る。私は学校を卒業したばかりで、何の実績もないのに。
すると、書架の間を通り、私を先導する男性が少しだけ振り返った。
なんだろうと思ったら、書物庫の人間がみな、私を待っていたのだと言う。
「貴女のような穏やかな方で安心しました」
こんな一言まで付け加えて。
なぜ、が頭の中でいくつも浮かび、ぐるぐる回る。
それはまるで野原を飛ぶ蝶のように。ふわふわ、ぐるぐると。
どうにか捕まえようとするけれど、虫取り網すら持たない私は無力で、なのに蝶はどんどん増えていって。
私は、いつしか立ち止まり、足元の石畳しか見えなくなっていた。
……やっぱり私は、どこに行ってもだめなんだろうか。
お義母様の仰る通りだ。
私は、次々と現れる蝶に対し、捕まえる技もなければ虫取り網も持っていない。
草原でしゃがみ込み、鱗粉を好きなだけふりかけられるだけの存在なのだ。
「どうした?」
ふと気がつくと、周囲だけ陰になっていた。
見上げると、カルロス様がいた。
今、一番見たかった顔がそこにあった。無精髭の、少し疲れた顔。濃い茶色の瞳が私をとらえ、くすんだ金髪がひと房、はらりと落ちた。
思っていた以上に背が高い。私の頭ひとつ分ほどの高さで、頑丈そうな顔の割に身体は痩せているように見えた。本ばかりを相手にしているせいだろうか。
そんな痩身を包むのは、ゆったりとした緑の服。とても発色が良く、染め方も均一で、見ただけで分かる。滑らかな生地だ。
つまり確実に、私よりも、遙かに身分が高い。
すぐさま深々と頭を下げるべきだと思ったけれど、体が動かなかった。良く分からないことだらけで、頭の整理が追い付かず、敬意を表せという命令が体に伝えられない。
それが、さらに焦りを呼ぶ。色んな感情が浮かび上がる。色とりどりの蝶だ。
「カルロス様……」
なんとか振り絞って出てきたのがこれ。頭を抱えたくなった。
でも、カルロス様はそんな私の無礼な態度を咎めなかった。
ただ静かに微笑むだけ。でも、それが私を温めた。
冷え切っていた身体が、じんわりと温かくなり、余分な力が抜けてゆく。
これは一体、何だろう?
ともかく、動けるようになったのは確かだ。今のうちに謝罪をしよう。またいつ動かなくなるか分からない。
「遅くなって申し訳ございません。急な用事ができてしまい」
「構わんよ。いつ来いとも言っていないからな」
「はい……」
とてもあっさりとしていた。身分の低い私が挨拶ひとつしないのに、それを気にも止めずに流すなんて。
やはり、分からない。自分の中の“常識”がぐちゃぐちゃになりそうだった。
「色々と驚いているようだが」
「はい」
「イネス嬢が来てくれた。これ自体が喜ばしいのだ。他は些事に過ぎんよ」
「なぜです? 私には喜ばれるような価値があるとは思えません。家でも厄介者扱いです」
「何だと?」
カルロス様が眉をひそめた瞬間、ガタガタと大きな物音がした。
見ると、書架の陰からわらわらと数人の男女がばつの悪そうな顔で姿を現した。
カルロス様は彼らを見て、少しため息をついたが、それだけ。再びこちらを向き、信じられないと呟き、何度も首を振った。
何がだろう。
目をパチクリしていると、一斉に書架の方から声が上がる。
「確かにそれはありえない」
「トレド家はどうしてしまったんだ」
どういうことだろう。
誰もがみな、驚愕の表情で、大きく目を見開き、両手で顔を押さえたり、猛獣のように大きな口を開けたりしている。
ちょっと大袈裟な気もしたけれど、そもそも、どうしてこの行動に至るのかが分からない。
何度、首を傾けてもやはり答えは出てこなかった。
「イネス」
すっ、と私の隣にカルロス様が立った。何とも思わずに見上げると、楽しそうに官吏たちの様子を見ていた。
そして、視線をそのままで、口を開く。
「信じられないかもしれんが、ここにいる者は、誰もが一流の学者だ」
「えっ?」
「そして彼らはみな、そなたの知識を認めている」
「えっ?」
「完璧ではない。充分でもない。だがそなたは、そなた自身の知識で、あいつらを認めさせたのだ」
「えぇ……」
嘘だ。とっさに勢いよく首を左右に振ってしまう。そんなこと、あるはずがない。
一流の学者さんらしからぬコミカルな動きをしていることに、ではなくて、一流の学者さんが私を認めるなんて信じられなかった。
姿を消していた蝶が、またひょっこり顔を出すくらいに。
「嘘ではないぞ」
カルロス様が、笑顔をこちらに向けた。
その証拠が、昨晩の本。あの本を数行でも訳せる者は、この国に数えるほどしかいないと言う。
確かにあの言語は、学校で学んだものではない。あくまで学校は基礎の知識や作法を教える場所。専門的なこと、高等なものはそれぞれが私費を投じて学ぶもの。
私は、運良く家に本があったから。昔から、本でも読んで黙っていろとお義母様に言われたから、そうしていただけだった。
環境が恵まれていただけだ。
その知識に価値があり、私に価値があるのではない。
「いや、それも違うな」
「そうでしょうか」
「環境が恵まれていたとしても、身につけることを選んだのはそなたであろう」
「それは、読むことしかできなかったから……何度も読めば、自然に身につきます」
「否定はしない。だが、何度も読むという選択をしたのは、そなただ。その結果、身についた」
反論できなかった。いや、したくなかった。
だって私は、認めたくなっていたから。
自分を。
私は、私でありたいと。
「誇れ。そなたは、そなたであることを」
瞬間、世界が鮮やかに色付いた。蝶がいずこかへと飛び去った。
私はこのまま、生きていていいんだと思った。
少なくともこの場所でなら、私は、私らしくあれるのだ。




