第十話
台風が去った後のように。
ほうほうのていでハビエル様が去ったあと、数呼吸分の沈黙があり、そこからざわわと時間が動き出した。
「イネスを連れてゆくことは許さぬ」
などと、さっきのカルロス様を真似をする学者さんがいて、周りがはやしたてる。
見れば、カルロス様は困った顔で後頭部を掻いている。さきほどまでの威厳をどこに置き忘れてきたのか、くたびれたおじさんがそこにいた。
でも、すごく親しみがあった。すごく遠くにあった姿が、目の前に見える。
自然と、ため息が出た。仕方のないお方だと。
一歩進むごとに頬が緩んでゆくのが分かる。私の顔って、こんなにも柔らかかったかしら。
カルロス様。そう呼びかける。自分の声は、今までと明らかに違った。硬くて、角ばっていたものが、ふんわりとして柔らかい。
こんなにも変わるのだと。カルロス様は、どれくらい私に世界を教えてくれるのだろう。
どうか、もっと。
「迷惑ではなかったか?」
「えっ?」
後悔の色と反省の色を絡ませた視線が私の周囲をふよふよと回る。所在なく、身の置き場に困っているように見える。その椅子は、遠慮なく座ってもいいのに。
不安ゆえにか少し焦れたようにカルロス様は連ねて言う。
「婚約破棄のことだ。だが、本意でなかったとしてもあの男はやめておけ」
ここに至っても視線を合わせない。悪いことは言っていないと謎のアピールが何だかおかしくて、危うく噴き出しそうになった。
「あの男はやめておけ」
今度は女性の学者さんが真似をする。駄目だ。こらえきれずに吹いてしまった。だって、すごく似てた。
みんなが爆笑する中、私はそっとカルロス様の腕に指をかけた。鏡を見てないから分からないから想像で言うけど、私は、こんな顔をするのは初めてだ。
こちらに気付いたカルロス様が少し驚いたような顔をする。そんなに意外だったかしら。
やがて口を結び、いつもの疲れた表情に戻っても、カルロス様は私から視線を外さなかった。
それでも私には分かる。
うっすらと微笑んでいるし、視線は穏やかで暖かい。
書物庫の窓から差し込む、春の日差しのようなお方。
だから私は、たくさんの想いを込めて。
「カルロス様。私を見出して下さり、本当にありがとうございます」
一歩下がって片足を引き、スカートの両端をつまむ。たくさんの気持ちを余さず乗せて、私はゆっくりと頭を下げた――。
◇ ◇ ◇
家に帰ると、また、エントランスでお義母様が待っていた。それはもう、すごい形相で私を見下ろしていた。
お義母様も大変ねぇ、なんて思ってしまうほど、私にはひとまずの余裕があった。
でもこれは、カルロス様や侍女のお陰。心の準備ができていなければ、腰砕けになっていただろう。だってお義母様はやっぱり恐い。
帰宅を勧めてくれたのはカルロス様。
疲れただろうから帰って休めと言われ、最初は意味が分からなかった。
ハビエル・デ・ソリア様がお帰りになって、私は高揚感に包まれていた。
その経緯で感情が大きく揺れ、確かに疲れは感じていた。でもそれは心地よいものであり、仕事をするのによいアクセントとなったはずだ。
だから大丈夫です。続けます。私は、そう言うつもりで一歩足を出そうとした。
すると、後ろから侍女が引き止める。
振り返り、手を離すよう言おうとしたところに、彼女はそっと、私の耳元に冷水を浴びせた。
旦那様と奥様にご説明を。
さあっと何かが引いていくのが分かる。私は、有頂天になっていたのだ。
こうして、私は馬車に乗り、色々と考えを巡らせ家に帰った。この時ばかりはゆっくりとしか歩けない老馬に感謝だった。
おかげで、じっくり考えることができた。
落ち着いた目で見ると、お義母様の後ろにベアトリスがいるのに気付く。
つまり、まずは状況の確認からか。どれくらい歪んで伝わっているのだろう。
「イネス。あなた、不貞を働いていたんですって?」
「えっ?」
「しかも相手はお父様ほどの方と聞きました」
「えっ?」
「仕事と称して不貞相手との逢瀬を楽しんでいるなどおぞましいこと。恥を知りなさい!」
「えー……」
さすがにこれは想定外だった。
とんでもなく歪んで伝わっている。歪めて伝えたのか歪んで受け取ったのか。
あ、奥からお父様が出てきた。こっちはどうだろう。こちらを見ながらお義母様の隣に立つ。
正面から見ると、怒ってはいないのかな、と思った。どちらかと言えば困惑しているような表情。
ベアトリスの言葉を全て信じてはいないのだろうけど、否定してくれないのは悲しかった。
お義母様に代わってお父様が継いで尋問が続く。頭ごなしの否定が中断されたことはありがたい。
しかし困ったな。先に報告が行っていたとしても、多少の誤解があるくらいだと思っていたから、これは想定外だ。
「ソリア卿に失礼があってはならんと伝えた言葉をもう忘れたか」
「いいえ、お父様。しかと覚えております」
「ならばなぜだ?」
子爵の娘ごときが、伯爵閣下の面子を潰す行為がどのような意味を持つか、それが分かるはずなのにどうして不貞を働いた?
そう問われても、やってないことはやってないとしか答えようがない。
「違うんです。私は何も」
「何が違うの! ありがたくも婚約してくださった閣下の顔に泥を塗るなんて……っ!」
言葉に詰まるほど怒りに打ち震えるのは当然だった。
これは、お義母様が骨を折って婚約まで漕ぎ着けた案件だ。破談にされただけでも腹立たしいのに、それを壊したのがいつも見下している薄汚い小娘なのだから、怒りもなおさらだろう。
つまり、私の言葉は入らない。
そしてどうやらこれはお父様にも当てはまるように見えるし、だったら他者の言葉が必要だろう。
思い浮かぶのは当然、ひとりの疲れた顔。
そうね。カルロス様に頭を下げれば一筆書いて下さるかしら。
私の言うことが信じて貰えないのだら、もう他人の手を借りるしかない。
こんなことと思われても私には重要なことだから、たくさん頭を下げて、たくさん働いて、お給料も返上して。カルロス様が納得してくれる対価を支払おう。
そうすれば、なんとか。
ひとまずここは耐えて、なんとかカルロス様と連絡を取る方法を考えよう。
また、いつもの奥歯を噛みしめ、体を硬くしようとした時だった。
「お嬢様は嘘をついておられません」
後ろからすっと影が出てきた。よく見たら侍女だった。
そうだ。彼女がいた。大きなため息が自然に漏れる。助かったと思った。
しかし、そんな私をちらりと見た彼女の目は冷たくて。少なくとも積極的に私を助けようというつもりはなさそうだった。
まぁでも、それは織り込み済み。見たことそのままを報告して欲しいと伝えていたわけだし、有利になる証言をして欲しいとは頼んでいない。
そもそも、不貞なんてしていないのだから、ベアトリスのように曲げたり持ったりしない限り、結果的には私に有利となる証言をしてくれるはずだと彼女の報告を黙って見守る。
「私は本日、初めておふたりのご様子を拝見いたしましたが、不貞の間柄とは思えませんでした」
侍女の視線は、お義母様の肩口に向かっていた。そこにはちょうど、ベアトリスの顔がある。
同じ条件のはずのベアトリスが、どうやって不貞の匂いを感じ取れたのか。この場にいる誰もが侍女の声を空耳しただろう。
お義母様が後ろを振り返ると、口を尖らせたベアトリスが姿を現した。全身から不満の気持ちがゆらゆらと湧き上がっている。
「だってお姉様、抱きしめられていたじゃない」
「それは、ハビエル様が無理に連れ帰ろうとなさったので、保護なさったのが正しいかと」
「お姉様のこと、自分が見つけたものだって言っていたわ」
「お嬢様の才能を、お見つけになったとお話されていました」
なるほど。嘘は言っていないのね。圧倒的に情報が足りないだけ。
次々と正確な情報を付け足され、ぐぎぎ……と歯噛みするベアトリス。
「ああそれと……」
「無礼者!」
通路の影から怒声が上がった。
「お前はイネスからいくらで雇われたのだ? よくもぬけぬけとベアトリスの名誉を傷付けられるものだ」
「ハビエル様ぁ」
ベアトリスが駆け寄り、抱きつく。ほらね。不貞の関係にあるふたりはこういう抱き合うのよ。
ハビエル様はベアトリスの頭をよしよしと撫でてから脇に寄せ、侍女を睨み付けた。
「分を弁えろ。平民風情が偽りを並べて良い場所ではない」
びしっと指差し、数秒間。ベアトリスがきゃーと黄色い声を出す。夢見る乙女とはこのことか。
お義母様まで、やはりハビエル様が正しいのだという顔をしていた。
お父様は疑っている、と言うか事実に行き着いたようだけど、例によって積極的に口を出す気はないようだった。
ちょっと、不利な形になっている。
やはり身分なのだろうか。伯爵であるハビエル様を前にして、誰もが頭を上げられない現状を私は打破できないでいた。
このままでは押し切られてしまう。どうしたら。
焦っていると、家の従僕がやってきて、お父様に何事かを告げた。耳打ちをされたお父様は両目を見開き、私たちに貴人を出迎える、と短く告げて、言葉を返す間もなく足早に外へと出て行った。
私も弾かれるように体が動き、お義母様に続いて外へ出た。ベアトリスはハビエル様とごちゃごちゃやっているようだったが、貴人と言われてそちらに構っている暇はない。
従僕が扉を開け、眩しい太陽に目を細める。手をかざした先ではお父様が膝をついていた。頭が向く方向へ視線を上げるとそこには馬車から降りたところであろう壮年の男性が、数人の騎士に周囲を守られこちらを向いていた。
瑠璃色の上衣は体に沿うように仕立てられ、布地そのものが輝いて見える。
袖口や前合わせには金糸の刺繍がふんだんに施され、動くたびにまぶしいほどだ。
肩から流れる深紅のマントは重厚で、灰色の毛皮で縁取りされている。胸元には銀色の大きな留め具が鈍く光を返しており、そこに刻まれているのは王家の紋章だった。
腰につるした片刃剣は、控えめながら宝石がちりばめられている。
くすんだ金髪は整えられ、いつものくたびれた象徴である無精髭は完全に剃られていた。
距離感が、分からなくなる。距離が近くなったと思っていたのは勘違いだと思った。
護衛や従者を引き連れ、こちらへどんどん近付いてきているのに、遠くに感じる。神々が棲まうとされる山を、麓から見上げているような気分だった。
そんな高みから見下ろせば、私など、気付くはずもない。
はずだった。
「イネス」
だけど、カルロス様はこちらをはっきりと捉え、しっかりと見据え、微笑んだ。
私を、見付けてくれた。
カルロス様は私の手を取り、横に立たせてお父様を見た。
お義母様が呆然としていた。
エントランスの方では出てこられなかったふたりの姿も見えた。青ざめて、震えている。本日二回目ね。
「トレド子爵。出迎え感謝する」
「はっ」
「素晴らしい教育に敬意を表する。イネスは素晴らしき宝よ」
「……娘自身の努力でございます。私は何もしておりません」
「どうやら謙遜は血筋らしい。環境を整えたのは貴公であろう」
「は……」
「すまぬが、イネスを私にくれ」
「はっ……は?」
お父様がぽかんとして顔を上げると、カルロス様がにやりとして従者に合図をした。
自然と顔が緩んでくるのが分かる。
従者がお父様の前に出て、脇に抱えていた羊皮紙を広げて読み上げる。
「アルマール侯カルロス・デ・ルシエルバの名において。イネス・デ・トレドにクロニスタの姓を与える」
「クロニスタ……」
小声で呟くお父様の目が一瞬だけ泳いだ。たぶん、その名の意味するところが推測できたからだろう。
クロニスタには歴史編纂みたいな意味がある。つまり文書系の役職が付随するだろうし、文書に関わるならトレド家の権益が侵されかねない。
「また、イネス・ド・クロニスタを書物庫の管理人に任じ、アルマール侯の代理として、王立の書物庫の管理を任せるものである」
イネスを手元に置くだけの処置ですよ。トレド家の権益は一切侵しませんよ。翻訳するならこんな感じだろうか。かなり恥ずかしいのですが。
でも、言葉の外に秘められたカルロス様の言い訳じみたお気持ちは、お父様であればこそ、届いたはずだ。揺れたのはさっきの、ほんの僅かな時間だけなので正確な気持ちは分からないけれど、まぁ、大丈夫。なはず。
「これは一代限りの叙爵であり、男爵に準ずる処遇を与えるものである。今後、彼女が望まぬ限り、彼女はいかなる家門の支配も受けぬゆえ、そう心得よ」
「ははぁ」
……うん。これだけ。川岸で見付けたきれいな石を置いて家に帰るような気持ちだったけど、これ以上は望みすぎ。これでいいのよ。
お父様も冷静にカルロス様の命令を受け取っている。立ち上がり、羊皮紙を受け取るそのお姿は、“知の番人”に相応しい振る舞いだと思った。
もちろん、お父様がどんな気持ちなのかは分からないけれど、たぶん、喜んではくれているんじゃないかな。
それにしてもいきなり私をくれ、だなんて言って。本当に不貞を疑われたらどうするおつもりだったのかしら。
ぎりぎりの冗談だとは分かっているけれど、お父様たちには笑えないものだっただろう。
そして私たちもそれを笑い話にするため、何も起こらないし、起こさない。
ふたりは不貞をしていたから、カルロス様は権力で婚約を破棄させ、手元に置くため地位を与えた、などと言われないために。
まぁ、仕方ないよね。そもそも、だし、これは庇護の関係だ。
そうに違いない。
ねぇ、そうでしょう?
隣を見上げると、カルロス様と目が合った。心がじんわりと温かくなってゆくのが分かる。
「国のために、そなたの知識と才能を役立ててくれ。期待している」
いつの間にか手にしていたものは、星型のブローチだった。書物庫にいる学者さんたちが胸に付けているもので、中央にはペンを持つ熊がデザインされた、銀製のブローチ。
私は、名実ともにカルロス様から受け入れられたのだ。
ね。言ったでしょ。何もないのよ。
自分自身に言い聞かせ、諦めが混じった、それでもとびきりの笑顔で応えようとすると、エントランスから駆け寄る姿がひとつ。その向こうには、顔を青くして引き留められなかった伯爵様が見えた。
「まあ、お姉様」
びくりとした。身体が自然と反応する。あっ、と思ったころには固まっていた。ああ、やはり私は恐ろしいのだ。収奪の合図である、この言葉が。今にも震えがきそう。言葉も出てこない。
ベアトリスは私が手にした星を見てため息を漏らす。
「なんてきれいなんでしょう。ね、お姉様」
「あ、あ……」
言わなきゃいけないのに。これは、何よりも大切なものだから、誰にも渡さないって言わないと。私が、私である証なのに。
「これ、くださいな」
ああ……。
自然に身体が動く。がくりとうなだれ、ベアトリスの目の前にブローチを差し出す形に。
「ならぬ」
白雪のようにか細い指が、砂漠に落ちた星くずをつかもうとして止まる。
ベアトリスが不思議そうにカルロス様を見上げる。なぜ止められたのか全く分かっていない。
「なぜですの? 私が欲しいと言えば、お姉様は全てくださいます。お姉様のものは、私のものですのよ?」
小首をかしげるベアトリスは無垢そのもの。まっしろで、純粋で。
ため息のひとつも落ちるというもの。とんでもないことだ。でもそうか。そうよね。お父様とお義母様が愕然としているの、分からないでしょうね?
「イネスのものはイネスだけのものであり、断じてそなたのものではない。今後は、誰にも奪わせぬ」
「えっ……でも、お姉様がお嫌でも、お母様にお願いすればお姉様は喜んで差し出してくださいますもの。ねぇ、お母様?」
今日はいい天気ですねと言うように、ベアトリスはお義母様を振り返る。一方、最悪のタイミングで話を振られたお義母様は、ぎょっとして視線を宙に舞わせ、もごもごした。
カルロス様は深く、それはもう長いため息をついて、ジロリとお義母様を見た。こんなにもご不快であると態度にするところ、初めて見た。しかも、私のことで。
「姉のものを際限なく欲しがり、その婚約者まで奪うような人間を育て上げる。まこと、見事な教育よな」
「――っっ!」
「せめてこれ以降は、姉に触れることすら許されぬと教育するがよかろう。彼女はクロニスタ準男爵だ」
「かし……こまり、ました……」
ぶるぶる震え、無理に声を絞り出す義母様。しかし、カルロス様は絞り粕には興味も示さず次の標的へと向かっていく。膝をつくことすら忘れているハビエル様だ。
「そこな商人」
「は……」
「イネスはトレド家を出る。当然、そなたとの婚約は破棄だ。分かっているな?」
「も、もちろんでございます……」
「身分が低い相手だからと侮り、無理を通そうとすればいつかしっぺ返しをくらうもの。このこと、胸に刻み、これから商売に励むがよい」
「金言、ありがとう、ございま、す……」
どうだ? とばかりにカルロス様がこちらを見た。いや、やりすぎですって。こんな、精神をひどく打ち据えるようなやり方。私は、ふるふると首を振る。もう少しこう、手心を。
「それ以上のことをされているのに、か?」
カルロス様が私の手を取る。白い指と、小麦色の指が絡まりどきりとする。だから駄目ですって。ほっぺたが熱い。
「イネス。空を見ろ」
「えっ?」
「顔を上げて歩め。そなたは、空の青さや雲の白さ。世界の広さをこれから少しずつ学んでゆくのだ」
カルロス様にならって空を見上げる。
少しだけ首が痛いけれど、いつか、慣れるのだろうか。
太陽が眩しかった。空ってこんなにも青く、広いものだったのかしら。あ、雲の形がかわいい。
狭い部屋の窓から見ていた空は、とても狭く、暗いものだった。
私は、本当に幸せだ。
こんなこと、いいのかしら。これだけの幸運を受け取ってしまっても、本当にいいのかしら。
もちろん、この果てしなく続く空は、いつも晴れているわけではない。雨が降ったり、雪も降ったりするだろう。
それでも私は、色々な人に囲まれて、ともに、飛んでいけるはずだ。
どこまでも、どこまでも。




