第三話
翌朝。良い夢を見たのに、その内容を思い出せないような。そんなもどかしさを感じながら支度をする。
でも、昨日のことは夢ではない。
指を見ると、インクの黒。
昨晩、確かに私は私だった。
トレド家の、という肩書きはあれど、イネスとして望まれたものを自分の意志で受け、手がけた。
それは、至福の時間。王立学校のなんとか係なんて比べものにならない。自分の持てるもの全てを使った、甘美な時間だった。
お父様から許しを得られたなら、またあの時間を経験できる。
ここでいても何ら得ることはなく、むしろ失う日々。それならば自分の知識や技術を使い、できることをやってみたい。
私は、私としてありたい。
ふと、窓を見ると、門の前に馬車が停まっていた。我が家の従僕が対応しているのが見える。
どこかの使者だろうか。まだどこも動き出していない時間なのに、大変なことだと思いながら視線を外す。
侍女が示すのはいつもの地味な室内着だ。別に着飾りたいとは思わないし、派手な衣装なんてそもそも持っていないしね。
手伝いを受けながら身支度を済ませ、部屋を出る。
「あら、お姉様。おはようございます」
同じく食堂へ向かうであろうベアトリスと廊下で会い、共に歩を進めた。
妹として私よりも一歩下がることなんてない。いつも通り、彼女が先頭だ。
途中、振り返って彼女が言った。
「昨晩は驚きましたわ。お姉様、帰ってらっしゃらないんですもの」
「ごめんなさいね。気がついたらうたた寝をしていて……」
「ハビ様も驚いてらっしゃいましたわ。舞踏が始まった時にはお姉さまがいらっしゃらなくて」
ベアトリスはここでいったん話を区切り、侍女が開けた食堂への扉をくぐり抜けた。
それは、とても自然な行動。先ほどもそうだけど、彼女にとって私よりも先に歩くことなど、当り前のことなのだろう。
でも、ここで自分がトレド家の嫡女であることを訴えても、誰も取り合ってはくれないのは十年以上前から知っている。
そうでなければ先に生まれたはずの私が他家へ嫁に出されるはずがない。
男兄弟がいない我が家なのに、私は嫡女ではなく、まるで庶子のような扱いを受けている。
食堂の席順も三人は並んで座るのに、私は逆側、しかも正面ではなく三人から離れた場所が私の席。
貴族教育で学んだ常識が次々と否定される日常に最初は戸惑い、悲しく思った時もあったけれど、今はもう何も感じない。感じなくなった。
ご飯も一応、具入りのスープを食べさせてもらえるのだから。
多少、質が悪いものを回されても、器には穴も空いていないのだから。
そうよ。物語に出てくるみたいな、下働きのようなことはさせられないし、洗濯がいい加減だったり物がなくなるみたいな嫌がらせはないのだから、それで充分だと。
そう考えているから私は、ぎりぎり踏みとどまれているのだろう。
厳かな声でお父様が食事の開始を告げ、一番最後に籠からパンを取り出し、チーズとイチヂクを遠慮しつつ自分の皿に盛り、むしゃむしゃする。
すると、珍しくお父様が話しかけてきた。何かと思えば、昨晩のお叱りだった。そうよね。
「伯爵閣下に無礼な態度をとってはいかん」
「はい。申し訳ございません」
頭を下げると、すぐにベアトリスが口を挟む。
「大丈夫ですわお姉様。私がいましたから、ハビ様は怒ってらっしゃいません」
自分が舞踏の相手を務めたのだと。自分がフォローしておいたのだと鼻高々に話す。思うことはあるけれど、感謝すべき事実だから何も言えない。
「婚約者を蔑ろにするなどあり得ないわ。何を考えているの!」
「申し訳ございません」
便乗するようにお義母様から怒号が飛ぶ。隙を見せてしまった自分が悪いのだから、受けなければならない。
「体調が優れないのなら、部屋で大人しくしていたらいいのよ。我が家の名誉を汚さないでちょうだい」
「はい……」
「そうよ。今度からはベアトリスだけ出席すればいいわ。ハビエル様にエスコートをお願いするのよ」
「わあ、本当ですかお母様。嬉しいです。ハビ様、リードがとってもお上手なんですよ。とても踊りやすくて、夢のようでした」
カチャカチャとナイフを皿に当てながら無邪気な言葉を次々にテーブルへとこぼしてゆく。
お義母様は、目を細めてそれを温かく見つめていた。
お父様は知らんぷり。
以前の私なら、ちぎったパンを無理矢理、水と一緒に流し込んでいただろう。奪われた宝石の痛みに、泣きそうになっていたに違いない。
けれど、今の私にはあの場所がある。
お父様に許可を頂く必要はあるけれど、せっかく見つけた気の置けない場所に行けば、私は。
(……待っているぞ)
昨夜、あの暗がりでもらった低い声が、温かな防壁となって私を守っていた。
「……お父様、少しお話が」
勇気を出して、朝食を食べる父の手を止める。
「何だ?」
「少し、ご相談が。後でお時間を頂いてもよろしいでしょうか」
「いいだろう。執務室で話を聞く」
意外だった。いつもなら執務室に招かずここで話せと言うのに、今日は幸運の女神が微笑んだらしい。
ならばこの機会をありがたく活かすとしよう。
◇ ◇ ◇
朝食が終わって、面白くなさそうなお義母様とベアトリスを尻目に私はお父様の執務室へと足を運んだ。
許しを得て扉を開けると紙とインクの匂いが飛び出してきて、私の顔にぶつかる。幼い頃より慣れ親しみ、私を救ってくれた頼みの匂い。私の、大好きな匂いだ。
部屋に入って左側。最近の本から古いもの、紙束のようなものまで多く並べられた本棚は宝物のように思えて、この部屋に呼ばれるといつも一歩目で立ち止まってしまう。
「まず座れ」
そう。こうやってよくたしなめられる。
慌てて応接スペースのソファーに座り、ふた呼吸分ほど待つと、難しい顔でペンを走らせている手が止まり、顔が上がった。
彫りが深く、深く刻まれた眉間のシワが目立っていた。
私と同じ、黒い髪と小麦色の肌。瞳の色だけがブラウンで私とは違う。私の青は亡きお母様譲りだ。
少し似ているせいなのかは分からないけれど、お父様の私への当たりは理性的だ。
関心がないだけ、とも言えるけど、少なくともお父様は、感情的な理由から私を嫌ってはいない……と思う。他家への嫁入りという形で追い出そうとはしているけれどね。
「まずは、順を追って説明してもらおう。うたた寝していただけではあるまい」
「はい……えっ?」
なぜ、それを。
書物庫へ通う許可を得るための言葉が全て消えてしまった。
問答の想定までして、覚えてきたのに、きれいさっぱり。
耳に入る時間などなかったはず。
「正直に話せ。齟齬がなければ潰すつもりはない」
「え、あ、はい……」
真っ白になったものを組み直す時間はない。観念して昨晩のことを正直に話した。
人酔いし、夜風に当たろうと大広間を出てふらふらと歩いている内に書物庫へ行き着いたこと。
そこでお父様より少し下あたりと思われる年齢の男性と出会い、話をしたところ、家名を買われ、翻訳の仕事を依頼されたこと。
うたた寝は嘘であることを最後に付け加えても、お父様は軽く頷いただけだった。
拍子抜けだ。
お父様は机に肘をつき、軽く握った拳に顎を置いた。視線は下げ、手近に広げられた紙へ。
少しの沈黙があった。
お父様の視線が規則的に左から右へと動いている。私の言葉との整合性を確かめているような。
だとするとあれはもしや、手紙なのだろうか。今朝、門前に停まっていた馬車は誰かの使い?
唾がやけに飲み込みづらい。私の予想が正しければ、手紙の内容と私の報告は一致する必要があるはずだ。誰かは分からないけど、お願い。
どうか神様、国母様。
お父様は顔を上げると、ひと言、頷いた。
「いいだろう。今日から、書物庫に通うことを許可する」
「お父様……ありがとうございます」
「さすがに王家直属の部門からの要請ではな。名誉なことであるゆえ」
「王家直属……?」
喜色から一転して首を傾げていると、お父様が眉を寄せた。
「誰と会ったのかすら知らないのか?」
今更ながら思い出す。私は、彼のことを何も聞いていない。教えてもらったのは名前だけだ。
「カルロス様、と仰っていました」
「ふむ……まぁ良い。よくある名前だ。その男はおそらく、王立書物院の役人だろう」
「王立書物院……」
胸が躍った。彼が王家所蔵の本や資料を保護・管理する部門の官吏だったなんて。
うまく仕事をやり遂げたら褒美に王家の蔵書を読ませてもらえるかも。どんな本があるのだろう。
「……意気込むのは良いが、伯爵閣下をなおざりにせぬよう。失礼があってはならん」
「そ、それは、もちろん」
先回りしたかのようにお父様が釘を刺してきた。さすがに私の性格をよくご存知だ。
心がなくても婚約者としての礼儀を尽くすのは、貴族社会に生きる者なら当然のこと。
ならば、昨日のハビエル様のなさりようはどうなのか。
確かに、私の行動自体は褒められたものではなかった。でも、だったらなぜ、ハビエル様は、ベアトリスと楽しくお話をなさっていたの?
……ううん。今はやめておこう。
ともあれ、これでまたあの場所に行けるのだから。
私が、私であっても良いあの場所へ――。




