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第二話

 幼い頃から、違和感があった。

 ベアトリスが生まれたばかりで、大変なんだろうと思っていた。赤ちゃんのお世話って、朝も夜も関係ないと聞いたから。

 実際に見かけるといつも、ベアトリスを抱いていた。

 こちらを全く見ないとしても、いつかは。そう思っていた。

 

 そして、いつしかそれが勘違いで、差をつけられているのだと確信した。

 ベアトリスが三歳になり、ひとまずの区切りを迎えてもお義母様はベアトリスだけを手元に置き、私は部屋にも入れてもらえなかったから。


 何かをもらったこともない。

 物も、笑顔も。

 いつもくれるのは冷たい視線だけ。

 温かかなものをもらうのは、いつもベアトリスだけだった。

 そしてベアトリスは私の物を奪ってゆく。

 私が少しでも渋るとお義母様が入ってきて、強制的にベアトリスへ差し出すことになるのだ。

 

 妹を見るお義母様は、まさにお母さんって感じで、育児がひと段落つけばその包み込むような瞳は私にも向くのだろうと思っていたのに。


 

 お義母様が継母であると知ったのは、偶然だった。

 侍女が立ち話をしている所をたまたま通りがかったのだ。


「このお屋敷も、すっかり奥様色に変わったわね」

「そうね。後はお嬢様だけだわ。どうやって継承権を奪うのかしら」

 

 十二、三歳くらいの時だったか。

 最初は理解できなかったけど、少し考えたら分かった。分かってしまった。

 

 差が付いて当然だった。実の娘ではないのだから、愛情など湧くはずもない。

 お義母様の言動は、自然なのだ。

 ベアトリスの私に対するわがままも、侍女の冷たい態度も。

 この家で一番の権力者が誰なのか、正確に知っているなら誰だってそうなるだろう。

 

 お父様は、いつも我が家の格を上げるために奔走している。

 だから、家のことはお義母様に任せきりで、私の立場は知らないのかもしれない。

 よしんば、知っていたとしても何もしないだろう。お父様はらお義母様に逆らえない。

 

 だからベアトリスが本に興味を示さないと知って、どれほど嬉しかったか。

 奪われないものを見付けた私は、ひとりで本を読んで過ごすようになった。

 

 

「おい、大丈夫か?」


 どうやら私は、書架の本に手を掛けていたところで考え事をしていたようだ。

 気が付けば横から肩を掴まれ、身体を揺さぶられている。左へと首を向けると、一面に不安と微かな後悔を浮かべた顔が近くにあった。

 青年と呼ぶには成熟しすぎているような……いやいや、落ち着きのある佇まいに、なぜか安心する。

 この方は一体、おいくつくらいなのだろう。


「あ……何か?」 

「いや、すまない。体調が悪いのかと思ってな。ぼんやりしていたから」

 

 男性は少し勘違いしたようで、私から手を離して距離をとり、すごい勢いで頭を下げた。

 別にいいのに、律儀なことだと関心する。今回は私がぼんやりしていたせいだし、身分から考えてもそんなことをする必要がないのに。

 

 自然に小さな笑みが浮かぶ。

 胸がほのかに温かかった。

 私は今、“人と話をしている”のだと思った。

 久しく忘れていた感覚が沸騰した水のように次々と湧いてくる。私は、気遣いに感謝し、大丈夫である事を告げた。

 すると彼は、少しの間だけこちらをじろじろと見た。上下左右する異性の視線に居心地の悪さを感じるが、そこまで嫌だとは思わなかった。短時間であったからだろうか。


 彼はひとつ頷くと、書架から一冊の本を抜き出し、私に渡した。

 装丁をしておらず、一枚目が表紙のシンプルな本。全てが黄土色に変色しており、紙の大きさも揃えられていない。端はぎざぎざだった。

 でも私はこういうのを見ると楽しくなってくる。あれは昔の本だ。昔の人が、どんな思いでそれを書き記し、残したのか。すごく気になってしまう。


「随分と古そうですね……“教会の、経営を行う方法”?」


 良く分からない。古い外国語なので訳すのが難しい。首を右に左に傾げながらどう訳したものか考える。タイトルですらこんなのだから、中身はさらに難しいのだろう。

 しかし、この人は私にこんな難しい本を渡して何をさせたいのだろう。そう考えていると、頭上からほぅ、と感嘆の声が落ちてくる。

 何事かと見上げると、そこには鷹の羽のような濃い茶色の瞳が、きゅっと細められていた。

 確かめるような口調で、彼は言う。

  

「そなたは……そうか。トレド家の令嬢だな?」


 そなた?

 少し引っかかりを覚えながらも肯定の返事をする。疑問を挟ませない、自然と頷いてしまう空気があった。

 

「よく、ご存知で」

「この言語を読める令嬢など、トレド家のイネス嬢しかいまい」

「名前まで……ですが、学校上がりであれば可能性はあったはずですが?」


 名前まで知っていることに驚きつつも、好奇心が勝ってしまった。

 この国には他国に先駆けて、貴族子弟に無償で教育を施す王立の学校が作られている。

 選択できる教養科目ではあるけれど、この言葉を学ぶ生徒は一定数存在していて、私だけが読めるというのは大袈裟だ。

 卒業したら多くがきれいさっぱり忘れるという可能性があるとはいえ、私以外にも覚えている子弟はいるだろう。たぶん。


「いや。国母の学び舎で学ぶ者に、この言葉は教えられていないし、読めるほどの教養もない。なにせこれは、腐臭がするくらいに古いからな」


 彼の言う通りで、これはとりわけの古語だ。貴族令嬢の教養として必要とされていない言葉を知るのは、専門の教育をしっかりと施された証であり、そんな家は昔より文書を扱うトレド家だけだろう。

 そして、トレド家には娘がふたり。どちらだろうと考えた時、学校を卒業したばかりの長女にアタリをつけるのは当然の流れ。

 簡単な推理だったと彼は白い歯を見せた。少し無理している感があったが、むしろそれが逆に、親しみやすさを覚えた。

 ちなみに国母の学び舎とは、王立学校の俗称だ。数十年前ほどの、優れた政治家が学校を設立したのが由来らしい。昔の話だから良く知らないし、この言葉を使う人もほとんどいないからまぁいいとして。 

 ならばと私は笑顔で向き直った。

 

「正体を暴かれた私は、この本をどうすればよろしいでしょう?」

「そうだな……この本を、我らの言葉に訳してもらいたい」

「翻訳ですか」

「ん? もしや、喜劇の中で踊る方がお好みだったかな?」


 ニヤリとする彼に、意地が悪いと思う。

 と、同時に少し不安になった。彼は私のことをどこまで知っているのだろう。

 今夜のパーティーに参加している、ということだけではないだろう。トレド家みたいな伝統だけの家のことも知っていた。

 もしかしたら、ハビエル様との間のことも知っているかもしれない。

 そしてハビエル様が婚約者である私よりも、妹の方と仲が良いということも。

 

 楽しかった気持ちが沈んでゆく。

 

「お戯れを……そうであればここには参りません」

「す、すまん」

 

 はっとして彼は頭を下げた。本当に律儀だ。そして遊び心もあり、やり過ぎたらすぐに謝罪できる誠実さもある。

 こんな方がいてくれたなら、私はもう少し笑顔でいられたかもしれないし、もう少し顔を上げていられたかもしれない。

 ならせめて、今だけは――。

 そんなことを考えながら、私は翻訳のための机に案内された。

 ランタンも貸してくれて至れり尽くせりだった。


 と、思ったらランタンは他にもあったらしい。ちゃっかり自分用にもうひとつ用意して、もっと難しそうな本を読んでいる。

 完全に放置されたわけではなく、ときおり様子を見ては、アドバイスをくれたり、修正を入れたり。

 こちらから尋ねる事もあった。母語ではないので、良く分からない部分がちょこちょこと出てくる。

 でもこの難しいチャレンジは、私をとても充実した気持ちにさせてくれた。

 ページをめくる音とペンが走る音。そしてインクの匂いが、こんなにも楽しく思えるだなんて。


 だけどそれも、彼が「そろそろだ」と告げるまでだった。


「……そろそろとは?」

 

 少しのいらつきを感じながら首を捻り、尋ねると、逆に尋ねられた。顎をしゃくる方向は、大広間。

 

「パーティーが終わる頃だ。一緒に帰らねばまずいのでは?」

「あっ」

 

 そうだった。すっかり忘れていた。慌てて席を立つ。

 しかし。

 

「どう、しよう……」

 

 立ち上がったまま、足が動かなかった。

 

 ハビエル様がどう思うだろう。

 ベアトリスがどう言うだろう。

 お義母様に告げ口されるだろうか。

 さきほどまでの浮ついていた気持ちはすっかり隠れてしまい、不安と恐怖がにょきにょきと顔を出す。


「寝ていたことにすればどうだ?」


 単純だと思ったけれど、道に迷ったは通用しないし、とっさに考えつかなかったから、その方向で行くことにする。


「ありがとうございました。楽しかったです」

「イネス嬢」

 

 頭を下げて退出しようとすると、呼び止められた。


「こちらも楽しかった。また来るといい。仕事が途中だからな」

「よろしいので?」

「ああ。ここの衛士にも話を通しておく」

「ありがとうございます。必ず、参ります」


 深く頭を下げながら、疑問に思う。司書に話を通せるほどの権限って、一体この人は、どれほどの人なのだろう。

 だが今はどうでもいい。嬉しさの方が、大きく勝っていた。

 私が、必要とされたのだから。

 名前も知らない彼に、どのような思惑があるのか分からないけれど、それでも、その間だけでも。

 私は、必要とされる。この事実は、確かにこの場所にある。

 それが何より嬉しかった。

 彼はおそらく、私から何も奪わない。

 それがどれだけ嬉しいか。心が安まるか。

 十年以上も家から必要とされず、収奪され続けてきた私にとって、どこに繋がっているかなんて関係なかった。その紐を、手に取らずにはいられなかった。


「待っているぞ」


 そんなことを言われて、経験の浅い娘が浮き足立つのは仕方のないことだろう。


「よろしければ、お名前を伺っても?」


 戸口で振り返り、つい尋ねてしまった。恥ずかしさにほっぺたが熱くなり、少し顔を下げる。

 そして彼は、少しの沈黙ののち、こう答えた。


「カルロス、と呼んでくれ」

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