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小ラインス

 誰かが扉を開けたので、風に流れた紙くずがラインスのブーツの紐に引っかかった。ラインスは足を軽くふった。紙くずは外れて、吹かれて飛んで、略装姿の数人の騎士たちが集まっているところまで転がった。そこではついさっきまでフレヴェ師によって行われた公開説教の感想を言っている。笑ったり、お互いの肩を叩いたりしていた。

「間違いない。あの説教師。バートレットだよ」

「違うだろ」

「やじが入ったとき、首が真っ赤になって、血管が浮かび上がっただろ? バートレットだよ。ほら、あいつがメロン屋ともめたとき、あんな感じだった」

「いや、でも、あいつは聖騎士団の精神修養をクリアしたんだろ?」

「したよ。それで、百人隊長が――」

「待て。あいつ、百人隊長と会ったのか?」

「会ったよ。でも、どうってことはなかった。お互い、話の通じる大人なんだし」

「でも、あの百人隊長はバートレットのことをいびっていたわけだ。あの禿げた頭を見るたびにバートレットは首を真っ赤にして、青筋浮かべるんだ」

「そんなことよりクロスボウ部隊への給料が払えないのはどうなったんだ?」

「団長が国王から金を借りたそうだ」

「ということは、北方の蛮族相手の遠征があるな」

「仕方がない。歩兵なしで戦えた時代はおれたちの爺さん世代の話だよ」

「バートレットはなんであんなに歩兵を嫌ったんだ?」

「別に歩兵を嫌うのはバートレットだけじゃない。騎士ってのは心の深いところに歩兵や弓兵への、なんていうか、蔑視みたいなものがあるんだ」

「おれは違うぞ。クロスボウ部隊の援護なしに騎馬突撃なんて絶対にしないからな」

「そのうち、おれたちも馬に乗りながらクロスボウに矢を装填する練習をさせられるな」

「そんなことさせるくらいなら、クロスボウ兵に馬の乗り方を教えたほうがはやくないか?」

「そのうち、騎士は闘技場のなかだけで存在するおとぎ話になるんだろうな」

 ラインスは立ち上がり、剣の吊りベルトを穴ひとつ分上げて、柄を腰に引き付けた。風は果物の皮を裏返し、ラインスの前髪を乱した。それを手櫛で軽く後ろになでつけると、開きっぱなしの扉から外に出た。さっきまでいた会堂は大きな庭園にある施設のひとつで、他には天文台や公共浴場、図書館、時計製造を教える学校があった。これらの大きな施設は、歴代国王のなかでも四十代になっても跡継ぎが生まれない王たちが民を相手に徳を積んだら、神さまが子宝を授けてくれるかもしれないという、不安と迷信で作り出したものだった。ラインスは人工の川と葦の原にかかった橋を渡り、水を使った時刻具や大昔の侵略戦争で持ち帰った巨大な彫像の並ぶ列柱回廊を歩き、アーケードの下の縞模様の大理石のテーブルにつき、スープを買った。

 若い男がラインスの対面の席に座った。ほっそりした青いプールポワンに遊び人風に見えるための工夫かベルトに派手に湾曲した短剣を差していた。

「すごい説教でしたね」

 ほかにテーブルには誰もついていない。

「僕に話しているのか?」

「ええ」

「説教ってのはフレヴェのことか?」

「炎を吐くような説教とはまさにあのことですよ」

「そうだな」

「本当に?」

「僕としては、どっちでもいいんだ」

「まあ、それはわたしも同じです。でも、火あぶりについての話は、実際、起こると思いますか?」

「決めるのは興行主だ」

「死刑も見世物になると思えば、やるってことですね」

「公開処刑はいまに始まったことじゃない」

「でも、その手の処刑は町の広場に処刑台を組んで、首吊りなり斬首なりしたら、資材をバラバラにしますよね。でも、フレヴェ師は闘技場でやれとおっしゃる。処刑を見る人間の数が段違いに増えますよね?」

「それが、僕と何の関係がある?」

「闘技場は御父上にとって聖域のような場所だったでしょう?」

「じゃあ、僕の父を知ってて話しかけてきたわけだ」

「そうです。みんな言ってますよ。テオーフィロ・ラインスにはスタイルがあったって」

「僕が知っている限り、父はアリーナを聖域と言ったことはない。そのかわりにこう言っていた。『あそこにいるのは犯罪者ばかりだ。アリーナにしろ、客席にしろ』」

「ずいぶん手厳しいんですね」

「一番ひどいのは主賓席にいる、とも言っていた。それに、食べる目的以外で流される血はみな呪われる、とも言っていた」

「戦争もですか?」

「戦争は特に」

「あなたも同じ考えですか?」

「ああ。僕も同じだよ」

「国王陛下と祖国のために流される血は呪われるんですか」

「あんたが何を欲しがってるかはわかるよ。だから、それをやるよ。祖国と国王陛下の戦争のために血は数ある呪いのなかでも最も穢れた呪いがかかる」

 スープがやってきた。玉になって浮かぶ脂にスプーンを差しては口に運び、ときおり浮かんだポークが口に入る。皿に残ったスープをパンで拭って口に入れ、飲み込むまで、若い男は黙っていた。

「若手で盾を使わないのはあなただけですよ。それもスタイルですか?」

「盾が配られないだけだ。興行主は僕は生きるより死ぬほうが稼げると思っているらしい」

「剣闘士はやめないんですか?」

 ラインスは銅貨を数枚、テーブルに置いて、泉のあるほうへ歩いていく。若い男もついてきた。

「ついてくるな」

「きっとあなたほどの騎士なら剣闘士以外でも生きていく方法があると思いますよ」

「出征でもするか?」

「もっといいものですよ」

「僕にかまわないでくれ」

「正直に言います。わたしはフレヴェ師の興行主なんです」

「それは気の毒だったな」

「説教師を、こう演出するんです。そのときに、あなたのような立派な父親をもって、そして、自身も強い、そんな騎士がいれば、フレヴェ師の説教も箔がつくんですよ。もちろん、お礼は支払います。月に十ポンドは最低です。あとは客の入りによって――」

 ラインスは図書館に入った。書字板の詰まった静寂の神殿に入れば、さすがに若い興行主も口を閉じざるを得なかった。


 興行主があきらめて立ち去るまで、ラインスは図書館にいた。興行主が立ち去って、ひとりになれたころには日が暮れかけていた。城壁が作り出す巨大な影のなかに庭園全体がすっぽり入り込み、夕日が輝くのは展望塔の最上階にあるガラス機器だけだった。

 展望塔の開放時間は過ぎていたが、ドアに鍵はかかっていなかった。螺旋階段が時計回りに塔の内側をなぞっていた。踏み段は褐色のタイルを左右に配し、朱色の石を中央にはめ込んでいて、その色をブーツで踏んでも足音がまったくしない。屋上の展望台は不注意者が落下しないよう胸丈の胸壁で囲み、中央のテラコッタ製の円柱台座の上では魔法金属(ミスリル)でつくった金属の輪が宙に浮いていて、そのなかにガラスの球体があって、それが太陽のように輝いていた。

 ラインスは剣を抜いて、床に置き、マントの留め金を外した。マントは斬り合いになったときに腕に巻きつけて防具の代わりにすることを考えて作られたものでかなり重かった。それを魔法金属(ミスリル)の輪にかけると、輪が傾いた。屋上の縁によじ登り、立って、庭園を見下ろした。

 夜が来る前に帰ろうとする客たちが石造の建物からあらわれて、門のほうへと歩いていく。余裕のあるものはカンテラ持ちを雇っていて、薄暗い程度の影のなかで小金のあるところを見せていた。

 ラインスは空を見上げた。薔薇色の空が空間を満たし、茜色の雲の裏で様々な濃淡の影が紫色に息づいていた。そして――

「父さん。僕もやるだけのことはやったんです」

 ――、塔から飛び降りた。

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