怪魚オロク
彼が別れを切り出したがっているのはわかっていた。
そして、わたしのなかでも恋の炎はとっくに灰となって消えていることを。
「小雨が降る前にどこかに行こう」
「うん」
彼は優しいし、わたしもその優しさにこたえたいと思うが、それは恋や愛ではなく、義務感からの行為だった。お隣さんからパイをもらったら、こちらもパイを焼いて返さないといけない、一種のしがらみだ。
雲は雨を降らせるかもしれないし、降らせないかもしれない。往来は雨を意識していないようだった。ねじって巻いたバンダナの上にワイン壺を乗せた女性たちが列をなして、届け先の酒場へと歩いていくが、その壺口を布で閉じているのは埃や虫、そして尿瓶の中身を窓からぶちまける人びとを警戒してのことだ。
誰も雨が降るとは思っていない。
リーオだけだった。雨が降ると思っているのは。
男女の恋愛が「じゃあな」「あばよ」で終わらせることができないのも世間並みに知っているつもりだから、別れを導く空気を作り出すのも難しいことは承知している。やり方をしくじったら、結局、別れられず、ずるずると関係が続いているのではないかと、わたしは恐れていた。
既に外堀は利口な大人たちによって埋められていた。幼馴染、というだけで、大人たちはわたしたちが結婚するものだと確信していた。わたしたちのあいだで愛情がまだ恋愛の形で存在していて、いずれは所帯を持つと思っている。もう、先延ばしもできない。ただ、別れた後の両親や親戚とのあいだで起こる会話の数々を思うと、うんざりした。
わたしもリーオもただ放っておいてほしいのだ。そして、自分たちのタイミングで別れさせてほしいのだ。それも持参金の話が出れば、ますます別れにくくなる。父がとある土地のことについて、妙によく話すようになった。はやく別れないといけない。
スカーフを手でおさえて、空を仰いだ。快晴ではないが、雨が降るようにも見えない。先ほどのカフェを出ずに、そこで決着をつけるべきだったかもしれない。ここでリーオに降るはずもない雨のことで気を遣われながら歩くのはひどくこたえた。城壁近くの緑地に出ると、顔じゅう髭だらけの巡礼たちが調子の外れた歌を唱えるように歌いながら、喜捨を求めていた。どこか木立の向こうから凧が上がっていた。
「あんな高いところからなら、どんな眺めかしら」
「建物がおもちゃみたいに見えるよ」
「人間はきっと小さな虫ね」
「人間虫ってね」
緑地の縁の道を歩いた。右手には店が並んでいた。暖炉のそばで薪を入れておくのに使う鉄の籠を売っている店だ。品物は空き瓶や錠前などが少しあるだけで、奥では店主があくびをしていた。愚鈍な目をしていた。自分に対する不当な死刑判決が読まれても、目の前に若返りの薬と金貨を重ねられても、変わらずあの目で世界を見つめ続ける。もし、そうだとしたら、それは人間と呼べるのか。
人間虫。
その小屋を見つけたのはリーオだった。
粗末な板づくりで看板にしている帆布には塗料で赤く『怪魚オロク』とある。
「見世物小屋だ」
まるで初めて見るように声を無理に弾ませて言った。
「見てみようか」
ひとり二ペンスと書かれた箱が置いてある横で老婆が灯心を編んでいた。銅貨を取り出したときだけ、こちらを見て、手を止めた。お金を箱に落とすと、また目を灯心の茎に戻して編み始めた。ふたつのことを同時にできないようだ。
粗末な板部屋を縦に長く作り、背もたれのない長椅子をふたつずつ左右に置きならべていた。舞台は最奥にあり、明かりは獣脂蝋燭を燃やして確保していたので、ひどいにおいがした。おそらくタダ見を防ぐ目的で板部屋は節穴や隙間をすべてタールで塞いでいたので、古くなった水のにおいや汗のにおいが流れ出さず、拍車をかけた。
客はほとんどいなかった。前から三列目に兵士がひとりいた。土埃の落としきれない、どこかの辺境の警備隊に勤務しているらしい。休暇で王都に来たようで、貴重な時間を無駄にしたことに気づいて、はやくもうんざりしている様子だ。あとは最前列で裸足の男の子が三人、硬くなった足の裏をこすり合わせたり、服のなかに手を突っ込んで脇の下でアヒルの鳴きまねをしている。わたしたちは兵士が座っている列の反対側の長椅子に座った。
結局、これ以上、客が入ってこないまま、木戸を閉じ、見世物が始まった。司会を務める男が礼儀正しくお辞儀をすると、だいぶ剥げてきた頭のてっぺんがこちらに向けられ、そのつやつやした肌に獣脂蝋燭の灯が瞬いた。
「紳士淑女の皆さん。ようこそおいでくださいました。本日お見せするのは伝説の怪魚オロクです。見たものに幸運をもたらすというこの魚を皆さんにお見せできるよろこびにわたしは胸がいっぱいです。この魚は胡桃大の黄金が川のなかを当たり前に転がる金運の地クテンザの沼で捕らえられ、船に乗せられ、この王都までの旅では――」
つまり、王都まで、怪魚オロクを狙う海賊、徴税取立人、魔人、その他いろいろから必死の思いで守り通したのはありがたくもわたしたちにこの怪魚を見せるためだということを、司会は三十分かけて説明した。子どもたちは鬼ごっこをはじめ、兵士はいびきをかいていた。リーオはがっかりした様子を隠して、「もうすぐだよ」とか「いよいよだよ」と言って、場を取り繕う。本当は「じゃあ、もう、いいや。ここで別れちゃおう」と言いたいし、それは昨日、本人の口から確認した。わたしもそれに同意した。なのに、まだ別れずに見世物小屋で幸運を呼ぶ怪魚オロクの説明をうんざりしながらきいている。
「さあ、いよいよです! みなさん、心の準備はいいですか?」
子どもたちが最前列の席に戻り、兵士も頭をガクっと揺らして、目を覚ました。
わたしたちの興味がそれているあいだに、舞台の中央に赤い幕で隠された、おそらくガラスの水槽のような四角いものが置かれていた。
「さあ、いでよ、怪魚オロク!」
幕が少し水槽の角に引っかかって、もたついたが、とにかく外された。
予想の通り、そこには水槽があって、金色の大きな鱗と大きな目をした大きな頭の魚が底にべたっと沈んで、鰓蓋をけだるげに動かしている。このあたりでは見ない魚で、それに大きさは二フィートを超えるので、フラウィウス伯父さんの垂らす釣り針にかかれば、伯父さんは生涯の誇りとして、これを剝製にして居間に飾るだろう。
でも、それだけだ。
子どもたちは服に手を突っ込んで、それに喉も使って、アヒルの鳴きまねで騒ぎ、兵士はというと「勘弁してくれよな」とつぶやいて、体を前に傾けて、肘を膝の上に立てると、両手で顔を覆って、目をごしごしこすった。
わたしは怪魚オロクを見た。住み慣れた沼から無理やり遠くに来させられて、歓迎もされない。
女とどんな違いがあるのだろう?
「出ようか?」
「うん」
外に出て、わたしたちは吐き気をもよおす空気から解放され、緑地のほうへと歩いて行った。
途中、リーオが足を止めた。
そして、まだ灯心を編んでいる老婆と見世物小屋のほうを見て、小さく言った。
「人間虫ども」




