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リナスース

 フォロンは恋に落ちた。

 相手は美貌の去勢踊り子リナスースだった。悪友のビローに連れられて興味もなく入った劇場で、リナスースをひと目見て、魂まで鷲づかみにされた。華奢というよりは、むしろ細く引き締まっていた。ぴたりとした胸衣と風を受けると夢のような動きを見せるだぶっとしたズボンのあいだにはむき出しになった腹があり、それは鍛えられて筋肉がきっちり四角に分かれている。そして、薄い絹の帯を手にもてあそびながら優美に回転すると、それは人ではない、もっと高等な何かにしか見えない。そう、半神半人だ!

 それからフォロンはビローに何か理由をつけてはリナスースの出演する劇場へと足を運んだ。リナスースの出番まで、腹の出っ張った人を馬鹿にする芝居や蛇を飲み込みまた吐き出す老婆を見せられる時間が長く感じて焦るのだが、ビローはこの手の質の悪いユーモアが好きで笑い転げていた。

 リナスースへの好意が狂わんばかりの恋へと発展していくなかでフォロンは自分が同性愛者なのかと問い、いや去勢されているから違うと都合のいい結論に飛びつこうとするが、フォロンはリナスースの男性的美貌に心を動かされていることが多いことに気づき、また混乱した。

 仕事に実が入らず、注文を間違えて、火属性ダメージ軽減のポーションを作るはずが眠気を強力に吹き飛ばすポーションを作り、上司に叱られ、丸底フラスコの前で加熱用のランプをつけると、その揺らぐ火にリナスースを見つけて、ため息をつくのだった。

 リナスースには男女を問わず、愛好者ファンがいて、いくつかのグループにわかれていた。フォロンは男だけが参加しているグループに属することにした。愛好者の集いは六月の三度目の日曜日に行われ、ハムやチーズを挟んだパンと軽めのワインを注文して、穏やかに行われていた。彼らは他のグループを見下していた。というのも、女性だけのグループは肖像画や自分で育てた花束などもらっても始末に困る重いプレゼントをしてリナスースを困らせるからであり、また、ある男女混合のグループは金でリナスースの好意を買えるという侮辱を平然と口にしているからだった。

「じゃあ、何に心を動かされるんですか?」

 フォロンが恥を承知でたずねると、知的好奇心だと返ってきた。

「頭の軽いただの踊り子とは違うんだ」

「その、錬金術とかにも興味があるんでしょうか?」

「あらゆるものがその対象だよ、同志」

 そのグループでは同好の士のことを同志と呼んでいた。グループのリナスース愛好の態度はリナスースはみなに安らぎを与える存在であるから独占することはできない。その立場で応援をしようというものだった。だが、フォロンはそれでは我慢ができなかった。リナスースを自分だけのものにしたかった。また、このなかでリナスースの知的好奇心を満たせるのは錬金術士の自分だけだというおごりもあった。他のメンバーは商会の注文取りや樽大工であり、それに比べれば、大いに優位だと思っていたのだ。もちろん彼は工房の雇われ術士であり、ポーションの注文票に逆らった実験をすることは許されていなかったが、いずれ自分の工房を持てば、業界をあっと言わせる秘法を開発することだってできると思っていた。

 フォロンが入会して二か月後、このグループはバラバラに飛び散った。フォロンと同じでメンバーの全員がひそかにリナスースの独占を夢見ていて、それが何かのきっかけになって口論が起こり、誰が一番リナスースを愛しているかという不毛な議論が始まって、ひとりが自分は指を犠牲にできるといって小指を切り落として、痛さのあまり叫びだし、近所の苦情から警吏がやってきて、グループは解散させられた。各メンバーはあれだけ嘲笑っていた重いプレゼントをするグループや金銭で好意を買えると宣言するグループへ入会していったが、フォロンは人とつるむことにうんざりして、単独でリナスースを崇拝することにした。

 リナスースへの増幅する好意が普段の生活に使うはずの彼の思考力を奪っていったので、ポーションの生産で失敗が続き、ついにとうとう工房長が彼を実験から外し、書物庫の整理にまわした。虫干しもされず埃くずにまみれた書物はどれも古く、錬金術の手法を『頭を上に向けた鷲』とか『星の結んだ三角形』だの抽象的な表現でごまかしていた時代の書籍で現代の錬金術には何の役にも立たないものばかりだった。それを著者名順に整理して、Hの棚を整理していたときに小さな冊子が落ちてきた。古い黒革の冊子には題名がなく、著者名がなかった。表紙を開いて目に飛び込んだ文字を見て、フォロンは心臓が止まりかけた。

『去勢踊り子を惚れさせる薬』

 もし、ただの『惚れ薬』と書いてあったら、一笑に付して、ごみ箱行きだが、ここには去勢踊り子と書いてある。フォロンは運命についてはあいまいな態度をとっていたが、これについては運命を感じないわけにはいかなかった。彼はどうかこの本がアリウスの改革より後の、きちんと手順を記した本でありますようにとページを開くと、『炎獣の胡椒を三オンスほど入れてグリフォンの羽根でかき混ぜながら煮込み』と書いてあり、この本は抽象的な解読不能の本ではない、つまり、『去勢踊り子を惚れさせる薬』が本当に製造できることがはっきりとした。フォロンはその本を外套のポケットに入れると、胸のなかで暴れるように鼓動する心臓のせいで今にも死ぬのではないかとめまいを覚えながらも、書庫の整理をした。いいつけられた仕事が終わると、手帳を開き、必要な材料をリスト化してみたのだが、どれも薬種店で簡単に手に入るものであった。器具は工房にあるものを使わなければならないが、工房長は休日には工房を訪れず、鍵はマンドラゴラの枯れた鉢の下に置いてあるから、そのときポーションを作ればいい。

 リナスースが本当に自分のものになる道筋がはっきりと目の前にあらわれると、もう我慢ができず、うまいこと在庫のなかの硫黄と水銀が減っていたのを見つけると、材料を買い出しに行くと工房長をだまして出かけることができた。薬種店は街の反対側だったので、モーリス鍵店のある十字路で乗り合い馬車を捕まえて、乗り込んだ。手帳を何度も確認しながら、工房長の目を盗んでポーションをつくるスケジュールを組み立て、一週間後にはリナスースは自分以外の人間に見向きもしなくなるだろうと思い、ひとりであの美しい舞いを眺めて、自分は生きていけるのだろうかと幸福に悩んだ。そのあいだ、馬車はハイランド・グリーンを南に迂回し、王太子記念通りを横切り、川漁師たちの住むごみごみした集落に入った。目線を外にやると、はらわたを抜かれたナマズが逆さに吊られているのが目に入った。汚れた仕掛け網が杭を打った壁に広げられて、女たちが苔を磨き落としていた。王都のなかにこんな汚れた地区があることに驚いた。頭のなかがリナスースの美貌でいっぱいになっていたから、そのひどさは際立っていた。魚のうろこが飛び散った服や臭う藻の山、血で汚れた前掛けをした男たちが生きた鯉を背中から叩き割っている。そんな街からリナスースが飛び出してきたときは自分は現実と妄想の区別がつかなくなったのかと思った。

「すいません! 待ってください!」

 本を小脇に抱えて、乗り込んでくるのはリナスースだった。彼がどこに住んでいるのか、考えたことは何度もあったが、川漁師の家が並ぶ通りに住んでいるとは思ったこともなかった。てっきり、劇場の所有している瀟洒な一軒家で美しい花に囲まれて住んでいると思っていたのだ。

 リナスースは毛織のシャツと細いズボン、袖のない長衣をまとっていて、馬車に乗りながら、ボタンをかけていた。黒曜石のような艶やかな黒髪をした去勢踊り子はフォロンの隣に座って、右手で本を広げながら、左手では頬についた鯉のうろこを指先ではじき落とし、そのうろこがフォロンの、手帳を開いている右手に落ちた。

「ああ、すみません!」

 そういってリナスースは本をまた小脇に抱え、白い布でフォロンの手の甲からうろこを取った。リナスースがにこりと笑うと、フォロンは死んだように落ち着いた。

「失礼ですが、錬金術にご興味が?」とたずねるのも自分の声とは思われなかった。

「浅い知識で、恥ずかしながら。あなたは?」

「工房に勤めています」

「本職の方でしたか。その手帳は?」

 そこでフォロンの魂が体に戻ってきた。表紙の裏には『去勢踊り子を惚れさせる薬』と書いてあるのだ。落ち着いていたときに打たれるはずだった心拍が倍の激しさでもって胸腔に暴れた。

「これは、その、ええ、大したものではないですよ」

「でも、これは炎獣胡椒で水銀係数を二以下におさめる実験のようですね」

「あ、いえ、まあ、この場合は、その感情介入効果が狙いかもしれませんが」そう言って、自分で墓穴を掘ったことに気づき、めまいが始まった。「ですが、その、別に邪な意図ばかりでも、ね、なくてですね」

「感情介入効果には僕も興味があるんです。僕は踊り子をしているんです。その――」それから少し恥ずかし気につけ加えた。「――去勢踊り子なんですが」

 その恥ずかし気な顔にフォロンは理性を吹き飛ばしかけた。

「恥ずかしい話ですよね。わかります。僕を育ててくれた師匠はそのほうが声と体格がよくなると思ったらしいんですけど、そのせいで、僕は男の人の気持ちも女の人の気持ちもわからなくなったんです」

「はい。でも、その、それで魅力が損なわれるというわけでも」

「そうでしょうか?」

「ええ。まあ、個人の考えですが」

「いえ。そう言っていただいてうれしいです。あ、そうだ」

 そう言って、リナスースは端に銀箔を打ち込んだカードを取り出した。

「僕が踊っている劇場の、楽屋から入ることができます。その、もし、ご迷惑でなかったらですが……見に来ていただけませんか」

 リナスースからカードを受け取ったとき、フォロンはまた死人の落ち着きを手に入れていた。そのとき、馬車がぬかるみに沈んだ古い里程石を踏み、フォロンの手から黒い手帳が滑り落ちた。

「あ、落としましたよ」

 リナスースは手帳を拾い上げた。

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