第3話 今川氏真の軍事能力に関する考察 〜信長が恐れた男、今川氏真〜
「徳川家康が最も恐れた男」というと、一昔前までは家康の知名度を笠に有能な武将を持ち上げる際の代名詞として使われてきた。
しかし、昨今では面白い逸話を持つ武将もあらかた取り上げ飽和しているか、あるいはよくあるキャッチフレーズとして「全米が泣いた」と同じレベルで大衆から受け取られ、“三英傑”徳川家康のネームバリューとは裏腹に陳腐化してしまっているのが現状だ。
中でも、「家康が最も恐れた男」として代表的な者は以下の通りである。
•明石全登
•石田三成
•今川義元
•上杉景勝
•上杉謙信
•宇喜多秀家
•大久保長安
•大谷吉継
•織田信長
•織田信秀
•加藤清正
•木村重成
•黒田官兵衛
•小早川隆景
•佐竹義宣
•真田昌幸
•真田幸村
•島左近
•島津家久
•島津義弘
•武田信玄
•立花宗茂
•伊達政宗
•長宗我部元親
•豊臣秀吉
•豊臣秀頼
•直江兼続
•長束正家
•福島正則
•前田利長
•松平忠輝
•松平信康
•毛利輝元
•最上義光
•結城秀康
このように、徳川家康は数多くの武将を恐れ、時には戦い、あるいは力を取り込むことで天下人の座を掴むことができた。
では、「織田信長が最も恐れた男」とは誰を指すだろうか。
筆者の調査では上記に該当すると思われるのは上杉謙信と武田信玄と考えられる。
両者はいずれも織田信長の領国からほど近い東国に位置しており、直接的、ないし間接的な影響を及ぼす範囲にあったこと。
また、両者は同年代を生きた武将としては最強格に分類されており、どちらも幾多もの戦いで勝利を収め、幾人もの名将を打ち破った伝説的な戦績から、織田信長が恐るるに足る人物であると判断したからだ。
では、織田信長は今川氏真のことをどう評していたのだろうか。
結論から述べると、筆者は「織田信長は今川氏真を恐れていた」と考えているが、これにはいくつか理由がある。
織田信長が桶狭間の戦いで東海一の弓取りと名高い今川義元を破ったというのは賢明な読者諸兄らもご存知の通りだ。
しかし、この後の織田信長は、あろうことか義元亡き後の今川家を無視し、背後を松平元康(後の徳川家康)に任せると、美濃攻略に着手している。
もし、今川氏真が通説通りの単なる暗愚であれば、織田信長ほどの名将が動揺する今川領国を見過ごすはずがない。
それどころか、独立心旺盛な三河武士を吸収し、自身の配下とした後は錯乱する遠州、駿河に対する攻勢を強め、織田信長が「海道一の弓取り」となることも十分にできたはずだ。
しかし、史実では徳川家康と同盟を結び、清須同盟が結ばれ、織田家が西進、徳川家が東進することで領地を拡大し、この同盟は両者の天下統一に大きく貢献していくこととなる。
一見、互いの理に適ったWin-Winな同盟に思えるが、この同盟には違和感が多い。
まず、織田信長率いる織田弾正忠家は当時としては尾張最大勢力を誇っており、その力は、独力で駿遠三に渡る領地を持つ今川義元と互角に戦えるだけの国力を有している。
また、戦国の世にあっては、「尾張守護の家臣の家臣」という立場にあったものの、その家格は三河の一国人領主であった松平家(徳川家)とは比べるべくもなく、ましてや独立から間もない徳川家が織田家と対等な同盟関係を構築するというのは、土台無理がある話だ。
では、なぜ織田信長は徳川家康との同盟に踏み切ったのか。
通説では、信長は美濃を獲り上洛するべく背後の安全を固めるために清須同盟を結んだとの見方が強いが、これは上記の三河併合でも背後の安全を確保できたという矛盾を孕んでおり、この問いに対する明確な答えとは言えない。
また、信長が斎藤義龍存命時の美濃に手出しができず、義龍死亡まで美濃攻略を待たなければならなかったことから、三河併合に関しては十分な時間的猶予があったことも留意しなければならない。
それでは、なぜ信長はこの不合理な盟約を結んだのか。そこには信長なりの思惑があったと推察される。
信長の思惑。それは、
織田信長は今川義元亡き後の今川領国を見逃したのではなく、新たな当主となった今川氏真の力を恐れ、正面衝突を避けるべく三河の徳川家康を支援し対今川氏真戦線を受け持たせたのではないか。
ということである。
そう考えると、義元亡き後の織田信長が今川領国に手を出さなかったことにも納得がいくというものである。
また、先ほど筆者が述べた「織田信長が最も恐れた男」として武田信玄や上杉謙信の名を挙げたが、彼らに関しても信長は直接戦闘を避けていた節が伺える。
武田信玄が西上作戦を開始し、徳川家康と交戦することとなった、世にいう三方ヶ原の戦いでは、織田信長は武田信玄と直接戦うことを避け、重臣の佐久間信盛を派遣するに留めている。
また、上杉謙信との関係が悪化した際は、信長は平身低頭で関係改善に務め、戦いが避けられないものとなってからは、重臣の柴田勝家に上杉謙信との戦いを任せていたことから、いかに“軍神”上杉謙信を恐れていたかが伺える。
そう考えると、織田信長が今川氏真と戦うことを恐れ、徳川家康や武田信玄に戦いを押し付けたとする見方は、「織田信長が最も恐れた男、今川氏真」にある種説得力を持たせていると言えるのではないだろうか。
しかし、この意見に対し、熱心な“今川氏真愚将論者”は次のように反論するだろう。
「信長は今川氏真が自身の脅威とならない凡将であったことを見抜き、脅威を感じなかったからこそ上洛に集中できたのだろう。徳川家康と同盟を結んだのも、背後をより盤石にするためなのだろう」と。
これは“今川氏真愚将論者”にありがちな、極めて稚拙で結果ありきな意見で論ずるに値しない戯言なのは言うまでもないことなのだが、これはそもそも因果が逆なのである。
そもそも、なぜ織田信長が東進ではなく上洛を目指したのか。それは、東に控える今川氏真と戦いたくなかったからである。
いかに東海一の弓取りである今川義元や譜代重臣たちを討ち取ったからといって、未だ今川家の力は健在である。織田信長ほどの男であれば、決して油断せず、冷静に戦力差を分析できたことだろう。
それこそ、刀根坂の戦いで重臣たちの制止を振り切り朝倉軍に壊滅的な損害を負わせるほどの猛追撃を行なった信長が、今川義元亡き後の今川家に追撃を仕掛けないことがそもそもありえないのである。
ましてや、相手が“愚将”今川氏真であれば、領地の拡大は容易かったと見るのが妥当だ。
しかし、賢明な読者諸兄らもご存知のとおり、織田信長は義元亡き後の今川家に攻め込むことはなく、その対応を徳川家康に押し付けることで、自らは上洛に集中している。
この信長の不可解な行動こそが、信長が今川氏真を恐れたという何よりの証拠なのではないだろうか。
史実では、織田信長は足利義昭の上洛要請に応じ、美濃、近江を押さえ上洛を達成している。だが、実際のところ足利義昭の要請は、信長にとって今川氏真との決戦を避ける格好の口実に映ったことだろう。
しかし、ここで賢明な読者諸兄らは疑問に思ったはずである。
なぜ織田信長にそこまで恐れさせるほどの男である今川氏真が、武田信玄と徳川家康によって容易く滅ぼされてしまったのだろうか、と。
ここで忘れてはならないのが、第一に、両者が戦国時代を代表する名将であったことだ。
武田信玄は瞬く間に信濃を併呑し、“軍神”上杉謙信と川中島で幾度も戦い、関東の覇者、北条氏康を破り、後述する徳川家康を三方ヶ原で破った、当時では最強の武将だ。
そして、徳川家康もまた、長篠の戦いで最強の武田騎馬隊を破り、小牧長久手の戦いでは当時最も天下に近い男であった豊臣秀吉を破り、天下分け目の関ヶ原の戦いでは数に勝る西軍を相手に見事に完勝して見せた、まさしく天下人の器にふさわしい軍略家である。
この両者を同時に敵に回したとあっては、たとえ織田信長が同じ立場に置かれたとしても、生き延びるのは難しかったのではないだろうか。
事実、手を取り合った武田信玄と徳川家康の両者と同時に敵対し、この二正面作戦に耐えられた者が歴史上存在しなかったことから、今川氏真がいかに絶望的な状況に置かれていたかがよくわかることだろう。
また、今川氏真は自身が最も苦手とする大軍で両者と相対せざるを得なかったことも考慮しなければならない。
『名将言行録』、『筑前博多史料豊前覚書』、『立斎旧聞記』では、名将、立花宗茂が、養子の立花忠茂や徳川義直から戦における兵の運用に関して問われた際、次のよう答えている。
「かの上杉謙信公は8000程度の兵を用いて戦をするのが己に適していると言われたそうだ。かくいう自分は経験上2000程度の兵数を手足の如く操れると感じたものだ。つまり、大将の才、能力に適した兵力は大将の数だけあるという事。兵力の大小に固執するより己の武の型を見極め、それに見合った兵を揃えた方がよい結果を得られるだろう」
この立花宗茂の言葉に照らし合わせれば、後世において『日本サッカーの父』とまで呼ばれた今川氏真が最も上手に扱える兵数はサッカーの1チームの人数である11人であったとことは明らかだろう。上杉謙信や立花宗茂とは、文字通り桁が違うのである。
そう考えれば、駿河侵攻で武田信玄に攻められた際に、今川氏真は自身に不利な戦いを強いられた末、決戦を避けたことも頷ける。
歴史にifはないが、この時、もしも武田信玄がスポーツマンシップに則り、正々堂々と11対11で戦いを挑んでいれば、今川氏真の勝ちは揺るがなかったことだろう。
事実、今川氏真は長篠の戦いの際、徳川軍で自身の率いるチームを参戦させている。この時、氏真チームのエースストライカーである朝比奈泰勝が武田四天王である内藤昌豊を討ち取るなどの活躍を見せ、織田•徳川連合軍を勝利に導いた。
このことから、今川氏真の選手としての能力だけでなく、コーチとしての力量の高さがよくわかるというのものだろう。
のちに、朝比奈泰勝は今川氏真から徳川家康の下に移籍し、大いに活躍したことから、いかに今川氏真のチームが優秀であったのかよく示していると言えるだろう。
余談であるが、上記の武田信玄の駿河侵攻に際し、今川氏真から絶縁状が叩きつけられたというが、その際に使われた紙が朱色だったことから、「血染めの絶縁状」と称されている。これは一説によると、世界最古のレッドカードであったとされている。
この時、無断で武田家に移籍した選手に対し、今川氏真がファウルを宣告したのはあまりにも有名だろう。言うまでもないが、これも世界最古のファウルである。
また、今川氏真の戦巧者ぶりを示すエピソードとして、次のものがある。
明治に入り、ドイツの軍人が関ヶ原の布陣図を見た際、「西軍の勝ちである」と断言した話は有名だが、彼が今川氏真の陣容を見た際、「サッカーの歴史が100年進んだ」と語った話はあまり知られていない。後に、そのドイツ人は陸軍を退役しサッカーの監督となり、その年のFIFAでドイツを優勝に導いたというのだから、いかに今川氏真の戦略が先進的なものだったのかよくわかるというものである。
さて、ここまでで今川氏真の采配がいかに優れたものであったのか、賢明な読者諸兄らは理解して貰えただろう。
しかし、ここで“今川氏真愚将論者”は以下のように反論することだろう。
「たとえ今川氏真本人の能力がどのようなものだったにしろ、史実において大名としての今川家が滅ぼされた以上、大名としての今川氏真の評価は愚将と言わざるを得ない」
これは“今川氏真愚将論者”らしい、実に荒唐無稽で支離滅裂な戯れ言なのだが、第一に前提が間違っている。
そもそもとして、今川氏真は自身の天下取りを狙っておらず、むしろ徳川家康の天下統一を予言しているのである。
氏真の正室である蔵春院の侍女の遺した 「氏真公記」では、人質時代の徳川家康に対し、今川氏真は以下のような言葉を残している。
「竹千代(徳川家康)は今川に収まる器ではない。やがて今川から独立を果たし、武田としのぎを削り、いずれは武田を滅ぼすことだろう。その後、天下分け目の戦いを制し、天下を手中に収めるに違いない。その時には、これまでの今川で培った知識を存分に活かし、250年に渡る太平の世の礎を築くだろう」
こうした今川氏真の「予言」通り、徳川家康は今川家からの独立を果たすと、瞬く間に遠江を併合し、織田信長の甲州征伐による武田領国崩壊に乗じて駿河を手中に収めると、かつての主君、今川義元と並ぶ権勢を誇るにまで至った。
その後は本能寺の変の後に起こった天正壬午の乱を制して甲斐、信濃の一部を併呑すると、日ノ本有数の勢力にまで膨れあがり、あの豊臣秀吉をして外交的戦術で屈服させざるを得ないほどの傑物として君臨することとなる。
こうした今川氏真の予言めいた極めて鋭い洞察があったからこそ、氏真は家康と戦うことを避け、むしろ敵側である家康に的確なパス回しを繰り返すことで今川家を滅亡に向かわせ、家康の天下取りを間接的にアシストしたのだろう。
事実、今川家滅亡後、氏真は一時蔵春院の生家である北条家に身を寄せた後、あろうことか自家を滅ぼした徳川家に身を寄せている。
これは、徳川家康が今川氏真からの多大なアシストがあったことを認識していたから受け入れたに他ならず、敵対した大名家の当主同士としては、極めて異例のことだろう。
(余談だが、石田三成はこの時の氏真の立ち回りからヒントを得て、七将襲撃事件を乗り切ったとされている。家康の天下取りのため、時には政敵の命まで助けるほどの知略の高さは、まさしく今川氏真でなければ成し遂げられないスーパープレイであったと言えるだろう)
さて、ここまでで聡明な読者諸兄らなら今川氏真の武将としての能力の高さを理解して貰えたと思うが、一方で、氏真の個としての武勇の高さにも注目しなくてはならない。
かの織田信長は若い時分相撲を嗜んだと言う。これは足腰を鍛える鍛錬であった一方で、下級武士の二男三男を鍛え自らの精兵とする軍事訓練であったとされている。
一方で今川氏真は塚原卜伝から新当流の剣術を学び、奥義である「一之太刀」を伝授されていたという。
この新当流は足利義輝も師事していた聞くから、当時としてはいかに優れた剣術であったかがよくわかるというものであろう。
仮にこの両者が相対した時、どのような結末となるだろうか。公平を喫して、信長の得意種目である相撲と、氏真の得意種目である剣術で一騎打ちをした際、果たしてどちらが勝るのだろうか。結果は考えるまでもないだろう。
だが、信長の名誉のため、万に一つ、今川氏真が刀を落として互いに素手となった際は、織田信長にも針の穴に糸を通すが如き極小の勝ち筋が生まれる可能性があることは明記しておく。
しかしながら、今川氏真は蹴鞠の名手であったことから、運動神経。とりわけ足捌きに関しては当代一であったことから、たとえ素手であったとしても必ずしも信長に軍配が上がるわけではないことには留意しなければならない。
また、仮に信長が自身の得意な武器である鉄砲を装備していたとしても、銃身の掃除から火薬の装填、弾込めにおよそ30秒もの時間がかかることから、やはり氏真に軍配が上がるのは言うまでもないだろう。
時代の風雲児とされ、天下統一に王手をかけた織田信長と、その信長をして最も恐れた男、今川氏真。
両者が直接矛を交えたことはないが、織田信長が今川氏真との戦いを明確に避けたという事実がある以上、両者の戦いは今川氏真の「不戦勝」と言えるのではないか。一“今川氏真名将論者”の筆者としては、そう思わずにはいられない。




