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【怪文書】氏真公記を参考に今川氏真を再評価する 〜未来が見えすぎた男、今川氏真は日本サッカー発展に力を尽くす〜  作者: 田島はる


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第2話 甲陽軍鑑から見た“弱すぎる大将”今川氏真への反証

 甲陽軍鑑では、武田勝頼を“強すぎる大将”と評している。これは、圧倒的な武勇と自信過剰ゆえに家臣の諫言を聞き入れず、自らを肯定する者の意見ばかり重用して国を滅ぼしてしまうことを指しており、国を破滅に導く4つの大将の一つに数えられている。


 しかし、これには続きがあることはあまり知られていない。


 甲陽軍鑑では“弱すぎる大将”として今川氏真の名を挙げており、分別がなく佞臣の言葉を鵜呑みにして、ありのままの事実や強敵を見抜けぬ者を指している。


 これは後世における今川氏真評の一因となっており、言うまでもないが、“今川氏真愚将論者”による悪質なアンチ今川氏真のロビー活動で提示される根拠の一つとなっている。


 しかし、これはそもそも前提として間違っている。


 そもそも甲陽軍鑑は武田家臣、高坂昌信の口述を江戸時代の軍学者である小幡景憲によって編集されたもので、武田家が滅亡した1582年から実に20年以上も後世になって編纂されたものである。


 ただでさえ不確かな記憶に頼った史料な上、大名である今川家の滅亡が1569年であったことから、今川氏真を語る上での根拠としてはあまりに信憑性に乏しい。


 また、甲陽軍鑑を編纂したのが武田家の旧臣であったことも忘れてはならない。


 ご存知の通り、武田信玄は今川氏真と敵対し、不当にも今川家の本拠地であった駿河を攻め取った張本人である。


 その武田氏の残した史料ならば武田氏にとって都合の良い歴史が語られることは想像に難くなく、先の“弱すぎる大将”として今川氏真の名を揚げたのも、勝者である武田信玄を強調するため、不当に貶める意図があったことは間違いないだろう。


 実際、武田信玄は自身と幾度となく矛を交えた上杉謙信に対しては頑なに長尾姓で呼び続けており、上杉謙信の上杉氏継承を認めなかったという逸話がある。


 これは越後守護代である長尾氏から関東管領の上杉氏を継承することで、室町幕府における上杉謙信(当時は長尾輝虎だが便宜上上杉謙信とさせて頂く)自身の家格上昇を狙ったものに対し、自身より上の家格となることを嫌った武田信玄の印象操作であり、これは今川氏真に対しても同じことが言えるのではないだろうか。


 また、こうした話は武田信玄に限ったものではない。


 美濃の斎藤義龍が時の将軍、足利義輝より一色姓を名乗ることが認められた際、織田信長は頑なに“斎藤義龍”と呼び続けた結果、後世では“一色義龍”より“斎藤義龍”という名の方が残る結果となってしまっている。

 また、上記の上杉謙信も関東で幾度となく矛を交えた北条氏康、氏政に対しては、頑なに“伊勢氏康”、“伊勢氏政”と呼んでおり、北条氏康もまた、上杉謙信のことを“長尾”と呼んでいることから、武田信玄が特別他人を貶める人物であったのではなく、当時としては敵対する相手の家格上昇を認めないことが一般的であったことは留意しなければならない。


 とはいえ、甲陽軍鑑の記述が、武田信玄を持ち上げ、不当に今川氏真を貶める意図があったのが明らかな以上、上記をもって“今川氏真愚将論”の根拠とするにはあまりに早計であるのは理解して頂けたことだろう。







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