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【怪文書】氏真公記を参考に今川氏真を再評価する 〜未来が見えすぎた男、今川氏真は日本サッカー発展に力を尽くす〜  作者: 田島はる


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第1話 今川義元討死から今川家滅亡までの今川氏真の考察

 従来の歴史観では、今川義元は新進気鋭の織田信長に討ち取られた公家崩れの愚将として描かれており、時代の風雲児である織田信長の引き立て役として散々な評価を受けてきた。


 それでも、最近に入り歴史シュミレーションゲームで能力値を高く設定されたり、時代ドラマにおいても武田信玄と同格の大物として描かれ、今川仮名目録の制定など従来の守護大名からの脱却が見られており、幕府とは違った統治体制を取ろうとしていることからも、今川義元を戦国最初の、ないし、初期の戦国大名として見る向きが強くなっており、近年では再評価の傾向が強くなっている。


 今川義元のファンには嬉しい流れだが、一方では今川義元の後継者である今川氏真に対しては、お家を滅ぼした愚将としての評価を受けており、激動の戦国乱世を生き抜き、後世まで家名を残した事実を差し引いても凡将という評価を免れないのが現状である。


 しかし、最近に入り今川氏真の正室である蔵春院の侍女が残したとされる資料、“氏真公記”が発見され、今川氏真の評価が覆ろうとしているのは、世間ではあまり知られていない。


 そこで、本作では蔵春院(の侍女)の視点から見た今川氏真の功績や後世に残した実績を鑑み、今日まで続く“愚将”今川氏真の再評価を行なおうと思う。


 今川氏真が最も愚将としての評価を受けた要因は、今川義元の桶狭間での討死に伴う家中を統制しきれなかったことにある。


 事実、今川義元及び多くの有力家臣、有力国衆の当主が討死したというのに有効な手立てを打てず、三河にて徳川家康が独立したばかりか、遠江の動揺を抑えきれず内乱状態となり、そこを武田信玄と徳川家康に付け込まれる形で両者の侵攻を招き、大名としての今川家は滅亡することとなる。


 桶狭間から今川家の滅亡まで、実に9年もの年月がありながら蹴鞠や和歌に興じ、政治を鑑みることがなかった結果、今川家の滅亡を招いたとすれば、今日までの今川氏真の評価も納得がいくというものである。


 しかし、氏真公記には以下のように記されている。




 義元公お討死の報を受け、動揺する家臣団に氏真公は次のように述べた。


『いずれ戦なき世が訪れた暁には、この国は……いや、日本は海の向こうの異人たちと蹴鞠で競うことになるであろう……。その時のために、私はこの国の蹴鞠を発展させ、蹴鞠で天下を布武せねばならぬのだ』





 当然だが、氏真の思惑を家臣たちに理解して貰えるはずもなく、この後、今川家は滅亡の憂き目に会うのだが、今日を生きる我々には違った視点から今川氏真の狙いが見えてくる。


 まず、氏真の言う“蹴鞠”とは、脚を使い鞠を蹴る競技で、公家の間で発展した文化ではあるが、これは今日の我々が知るところのサッカーと極めて近い競技であり、おそらく氏真は蹴鞠=サッカーのことを指していたのだと思われる。


 事実、氏真の予言通り、徳川家康によって戦国乱世が終結され、江戸幕府による250年もの太平の世 を謳歌した後、明治維新を迎え西欧列強と覇を競い、2度の世界大戦を乗り越えた後、世界的なスポーツとなったサッカーで国威を競うようになるのだが、氏真はこれを見越して日本をサッカー大国とするべく、今川家滅亡までの9年間を日本サッカー界の発展に注力していたのであれば、これまでの行動にもすべてに説明がつく。


 このことからも、氏真はお家を滅ぼした単なる凡将などではなく、400年もの先の未来を見据え日本サッカー界発展に尽くした極めて稀有な武将であったことが伺える。


 事実、氏真のお膝元であった、駿河、遠江は現在では静岡県と名を変え、日本有数のサッカー大国として知られている。これも、氏真が日本サッカー界発展に寄与した紛れもない証拠と言えるだろう。


 戦国大名が後世に残した功績は数あれど、250年もの江戸時代、明治維新から激動の昭和を経て、現在まで残り続ける文化を根付かせたことからも、今川氏真の驚異的な内政手腕がなくては実現し得なかったことは間違いない。


 とはいえ、旧来の“今川氏真愚将論者”からは、9年もの歳月がありながら義元死後のお家を建て直せず、滅亡を招いたとの見方をする向きがあり、この思想は歴史家から一般庶民に至るまで支配的に広がっており、今日まで形作られた今川氏真像のテンプレートとされている。しかし、これは“今川氏真愚将論者”による極めて悪質な印象操作と言わざるを得ない。


 歴史上、大名家を崩壊させた一戦というのはいくつも存在している。西は龍造寺氏と島津氏が戦った沖田畷の戦いや、同じく九州の大友氏と島津氏の耳川の戦い。また、東日本に目を向ければ、お隣の武田氏も織田信長との長篠の戦いにより多くの重臣を失い壊滅的な被害を被っている。


 この内、龍造寺氏の当主、龍造寺隆信が討死した1584年の沖田畷の戦いでは、隆信の死後まもなく鍋島直茂率いる龍造寺氏は島津氏への従属を余儀なくされ、1578年の耳川の戦いでは、重臣の多くを討ち取られた大友宗麟は1586年の豊薩合戦まで8年もの独立を保ったものの、時の天下人である豊臣秀吉の九州征伐がなくては滅亡も免れなかったという状況から、極めて危うい立場にあったことが伺える。


 また、1575年の長篠の戦いでは、織田•徳川の鉄砲隊に対し、騎兵で挑んだ武田家が多くの有力家臣の討死を招くこととなり、それから7年後には信長の嫡男である信忠の甲州征伐により名門甲斐源氏の末裔である武田家は滅亡することとなる。


 このことからも、同じように壊滅的な大敗を喫した大名家と比較しても、9年という歳月は決して短い時間ではなく、むしろ9年もの間瀕死の今川家を延命させたとの見方を考えれば、今川氏真を再評価する材料としては十分なはずである。


 少なくとも、今川氏真の政治的手腕は同時代の鍋島直茂や大友宗麟、武田勝頼と比較しても、決して見劣りしなかったに違いない。


 ましてや、大名が存命だった大友氏や武田氏に比べ、大名本人が討死した龍造寺氏が早々と島津氏への従属を余儀なくされたことも勘案すると、同じく大名討死の憂き目に遭った今川家が実に9年もの間独立を保ち、日本サッカー発展に力を尽くす傍ら、片手間で領国運営をしていた事実を鑑ると、今川氏真の内政手腕は鍋島直茂のそれをゆうに上回っていたことは疑いようもない。


 このことから、これまでの今川氏真評は“今川氏真愚将論者”によって悪意的に改竄されたものと言わざるを得ず、これまでの歴史がいかに“今川氏真愚将論者”にとって都合のいいものであったのか、改めて理解できたことだろう。

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