第19話 気まぐれなんかじゃないのに…
ちょっと長めです。
(御影視点)
朝の通勤電車の中、御影は昨日の出来事を思い返していた。階段でテシヲに掴まれ、胸元に支えられたあの瞬間――思い出すだけで、自分の心臓がいつもと違う音を立てるのがわかる。彼の手の温もりを思い出しては、頬がほんのり熱くなってしまう。ほとんど会話らしい会話はなかったのに、なぜか心が近づいたような気がした。
(……今日、ちゃんと平常心でいられるのかしら)
嬉しいような、恥ずかしいような、不思議な余韻がまだ残っている。だからこそ、顔を合わせるのが少しだけ怖い。オフィスに着くまでの間、御影の胸の内はそわそわと落ち着かなかった。
それでも、いつも通りに振る舞わなくては――職場なのだから。そう自分に言い聞かせ、御影はオフィスビルの入り口をくぐった。
「おはようございます、御影先輩!」
エントランスでちょうど鉢合わせたテシヲが、明るい声で挨拶してくる。
「……おはよう。」
御影は軽く会釈し、なるべく素っ気なく答えた。意識しすぎないように、と努めた結果だったが、返事は我ながらそっけなかったかもしれない。ちらりと盗み見たテシヲは、少しだけ首をかしげている。
(やっぱり変に思われたかも…)
心配になったが、照れくささが勝って視線を逸らしてしまう。昨日の階段での出来事を思えば、まともに顔を見るだけで鼓動が早まった。
そのまま一緒にエレベーターに乗り、オフィスのフロアまで上がる。ほんの数十秒の沈黙がやけに長く感じられた。隣に立つテシヲの気配が妙に近くて、御影は落ち着かない。
(昨日は…あんなに密着しちゃったんだもの、仕方ないわよね…)
思い出して勝手に意識してしまう自分が情けなくもあり、少し悔しい。
オフィスに着くと、それぞれのデスクへと歩き出す。テシヲとは部署が同じなので席も近い。普段なら彼との何気ないやり取りから一日が始まるのに、今日はどうにもぎこちない空気だった。テシヲも何か感じ取ったのか、ちらとこちらを窺うような視線を投げてきたが、御影は気づかないふりをしてパソコンの電源を入れた。
午前の業務が始まったものの、御影はさっきから心ここにあらずだった。
(ダメね、こんなんじゃ…)
意識を仕事に向けようとするが、昨日の出来事やテシヲのことばかり頭をよぎってしまう。書類に目を落としていても、数秒前に彼が隣で見せた困ったような顔が脳裏に浮かぶ。
(ちゃんと普通に接しなきゃ…いつも通りに…)
そう思えば思うほど、自分の中の「意識している」気持ちが膨らんでしまう気がした。
「御影先輩」
不意に名前を呼ばれ、はっと顔を上げる。テシヲが書類を手に立っていた。
「今よろしいですか、この間お願いしていた件なんですけど…」
「あ、ええ…」
なるべく平静を装い、資料に目を落とす。テシヲが説明してくれる内容に相槌を打ちながら、御影は自分の心の動揺を悟られないよう必死だった。隣に立つ彼の声を聞くだけで、鼓動が早まる。昨日までこんなことはなかったはずなのに。
説明が一段落し、テシヲが「では、これで進めますね」と微笑んだ。その笑顔につられて、御影もついふっと口元を緩めかける。
「あ…」
慌てて真顔に戻ったものの、遅かった。テシヲは目を瞬かせて御影の顔を見つめている。
「先輩、何か……」
「なんでもないわ。引き続きよろしくお願いね。」
御影は少し早口に言うと、書類を受け取ってくるりと背を向けた。
「え、はい…ありがとうございます」
背後で戸惑うテシヲの声が聞こえたが、そのまま自席に戻ってしまう。
自分の席に着くと、御影は小さく深呼吸した。
(ダメだ、意識しすぎて挙動不審になってる…)
資料の説明を受けていただけなのに、まともに彼の顔も見られないなんて。我ながら情けなくなる。テシヲの困惑した顔が脳裏に浮かび、熱くなった頬を両手で押さえた。
⸻
午前の休憩時間。御影は気分転換にと給湯室へ向かった。冷たい水で軽く顔を冷やし、鏡に映る自分に深呼吸してみせる。
(落ち着け、私…いつものシャキッとした自分でしょ)
頬を両手で軽く叩き、気合を入れ直す。そのとき、給湯室の隅にあるコーヒーメーカーが目に入った。
湯気を立てるコーヒーポットと紙コップのセット。ちょうど新しく淹れられたばかりらしく、香ばしい香りが漂ってくる。
「…そういえば、テシヲくん、朝は眠そうだったわね。」
独り言のように呟いて、御影は紙コップを二つ手に取った。一つには自分用のコーヒー、もう一つにはテシヲの分。上司である自分が部下にコーヒーを淹れて渡すなんて普段はしないけれど――今日くらいはいいだろう。今朝素っ気なくしてしまった埋め合わせ…というわけではない、はずだ。
(昨日はあんなことがあったんだし…これくらい別に不自然じゃないわよね)
自分にそう言い訳しつつ、御影は紙コップ二つを慎重に持って給湯室を出た。
テシヲのデスクへ戻ると、案の定彼は書類に目を通しながら小さくあくびをかみ殺している。朝早くから頑張っている証拠だろう。
「……テシヲくん。」
「はい?…あ、御影先輩。」
彼が顔を上げたところで、御影は無言で片方の紙コップを差し出した。
「えっと…?」
「飲むでしょ?コーヒー。」
「あ、ありがとうございます!いただきます。」
一瞬きょとんとしていたテシヲだったが、すぐに笑顔になって紙コップを受け取った。
「先輩が淹れてくれるなんて珍しいですね。今日は何かいいことでも?」
「べ、別に?たまたま目についただけよ。深い意味はないわ。」
御影はそっけなく答えつつ、その実、胸の高鳴りを抑えられないでいた。テシヲが嬉しそうにコーヒーを一口飲む。その喉が小さく動く様子にさえ、なぜかこちらまでドキドキしてしまう。
「ふぅ…おいしいです。ありがとうございます、先輩。」
「…そう。」
(そんなに喜んでくれるなら…淹れた甲斐があったというものね)
照れくささをごまかすように、御影は紙コップの縁にそっと唇をつけ自分のコーヒーをすすった。熱い液体が喉を通り、ほっとする。
「……先輩って、気まぐれですよね。」
不意にテシヲがくすっと笑いながら言った。
「え……?」
御影は思わず顔を上げる。テシヲはこちらを見つめたまま、ほんの冗談めかした笑みを浮かべていた。
「だって今朝はなんだかそっけなかったのに、急にコーヒーなんてくれるから。先輩、気まぐれだなーって。」
「……気まぐれ、って……」
心臓が、どくんと大きく跳ねた。カップを持つ手がかすかに震える。
冗談めかした軽い一言。それがなぜか、御影の胸に突き刺さった。
「…そう。私って、気まぐれなのね。」
絞り出すような声が、自分の喉から漏れた。
「え…」
テシヲがはっと目を瞬かせる。御影は俯いたまま、震える手で紙コップを机に置いた。
「悪かったわね、気まぐれで。」
「い、いえ!そんなつもりで言ったんじゃ…」
慌てるテシヲの声が耳に届く。でも御影はもう彼の顔を見ることができなかった。
「……仕事に戻るわ。」
小さな声でそれだけ言うと、御影は踵を返した。
自分のデスクまで戻る足取りは、先ほどとは打って変わって重かった。胸の奥に鋭い棘が刺さったような痛みを感じる。後ろでテシヲが動揺した様子で立ち尽くしている気配があったが、振り返れなかった。
⸻
席に戻った御影は、書類の文字をただ眺めていた。全然頭に入ってこない。
先ほどテシヲから投げかけられた言葉が、何度も何度も反響している。
「……気まぐれ、ですって…」
小さく呟いてみても、胸に刺さった棘はさらに深く突き刺さるように感じられた。
(私のどこが気まぐれだっていうの…?)
朝、そっけなくしたのは確かに悪かったかもしれない。でも、それだって…
(仕方ないじゃない…恥ずかしかったんだから)
意識しないでいようとすればするほど、不自然になってしまった。自分でももどかしいくらいに。
なのに、勇気を出してコーヒーを淹れて渡したら、今度は気まぐれ扱い?
(私は…そんな気まぐれでこんなことしたわけじゃないのに)
本当は、嬉しかったから。彼の力になりたかったから。
それだけなのに――伝わっていない。
隣の席からカタカタとタイピング音が聞こえる。普段なら気にも留めない音が、今日はやけに耳についた。横目でそっとテシヲの背中を盗み見る。彼はこちらに背を向け、黙々とキーボードを叩いていた。その仕草にもどこか元気がないように見えるのは、気のせいだろうか。
(……知らない)
御影はふいっと視線を落とし、無理やり手元の書類に目を戻した。今さら彼がどんな顔をしていようと、知ったことではない――そう自分に言い聞かせる。
しかし胸の痛みは一向に収まらなかった。
彼の言葉を思い出すたび、瞼の裏に浮かぶのは昨日の光景だった。あの階段での温かな時間。心がふっと通じたように感じたのは、気のせいだったのだろうか。彼にとっては、あれもこれも、先輩が見せる一時の気まぐれ…それくらいにしか思っていないというの?
(…テシヲくんには、わからないんだわ)
ぎゅっと拳を握る。情けないけれど、悔しさで瞳が潤みそうになる。
(私がどんな気持ちでいるかなんて…わかるわけ、ないわよね)
胸の中で、静かに呟く。言えるはずもない本当の気持ち。それを知らない彼を責める資格なんて、自分にはない。わかっている。
だけど。
それでも心のどこかで、気づいてほしかった。言わなくても、何かを察してほしかった。そんなのは無理な願いだと理解しつつも、そう願ってしまう自分が嫌だった。
⸻
午後になっても、二人の間にまとわりついた重苦しい空気はそのままだった。テシヲもさすがに気にしているのか、御影に話しかけてこようとはしない。業務連絡さえメールで送ってくる始末だ。離れた席から何度か視線を感じた気がしたが、御影はずっとパソコン画面に集中しているふりをした。
(このまま一日が終わるの……?)
画面上の文字列を追いながら、心ここにあらずの自分に内心ため息をつく。結局ほとんど仕事が手につかないまま、もう終業時刻が近づいていた。
机の上に積まれた書類をまとめ、今日やるべきことの終了チェックをしていると、隣からおずおずと声がした。
「御影先輩…」
顔を上げると、テシヲが立っていた。いつになく遠慮がちな表情だ。
「…何かしら。」
できるだけ平坦な声を出す。テシヲは一瞬口ごもったあと、小さく息を吸った。
「あの、今日の…朝のことなんですけど。」
「……。」
御影は視線を書類に落としたまま動かさない。心なしか鼓動が早くなるのがわかる。
「気を悪くされたなら、本当にごめんなさい。俺、先輩をからかうつもりじゃ――」
「別に、気にしてなんかいないわ。」
遮るように言って、御影は立ち上がった。
「もう終業時間よ。急ぎの用件でなければ、続きは明日にしてちょうだい。」
そう言い放ち、抱えていた書類の束を脇に抱える。
「……先輩。」
「私は先に部長にこれを提出してくるから。」
テシヲの言葉を振り切るように足早に歩き出し、そのまま彼の横を通り過ぎた。ほんの一瞬、すれ違いざまに彼が何か言いかけたような気がしたけれど、立ち止まれなかった。
部長への提出を終えて自席に戻ると、テシヲは既にいなかった。机の上は綺麗に片付いていて、彼の姿も見当たらない。
(…帰ったのね)
胸がずきっと痛んだ。自分から避けておいて、何を勝手に傷ついているのだろう。
御影は黙って自分のデスクを片付け始めた。キーボードを拭き、ファイルを棚に戻し、最後に机上のスマホを手に取る。画面を点けると、新着メッセージの通知が一つだけ光っていた。
「あ…」
一瞬、テシヲからかもしれないという期待が胸をよぎる。けれど、それはただのシステム通知で、彼からのものではなかった。
小さく息を吐き、スマホをバッグにしまう。未練がましい期待をした自分が情けない。結局、テシヲからは何もないまま一日が終わってしまった。
(私が勝手に怒って、突き放しちゃったんだもの。当たり前よね…)
わかっている。全部自分のせいだ。なのに、心の隅でもう一人の自分が拗ねたように呟く。
(どうして何も言ってくれないのよ…)
仲直りのきっかけさえ掴めないまま、今日が終わってしまう。その現実に、また胸が痛んだ。
⸻
オフィスを出ると、夜風がビル街を吹き抜けていった。ふと見上げた空には、いつの間にか雲が広がっている。
昼間の蒸し暑さも幾分和らいだ空気の中、御影は一人で駅に向かって歩いていた。いつもなら、隣にテシヲがいて他愛ない会話を交わす時間。だけど今日は、冷たい風が一層身に沁みる。
カツ、カツ…とヒールの音が乾いた路面に響く。その音をBGMに、御影の頭の中では反省と後悔がぐるぐるとループしていた。
(私…最低だ)
頑なに突き放したあの態度。謝ろうとしてくれた彼を、無視するような形で終わらせてしまった。
(素直じゃないにも程があるわよ…私)
わかっている。そんな自分が嫌になる。でも、あのときどうしても正面から向き合えなかった。
言ってしまいそうだったのだ。
「私、本当は――」
喉まで出かかった言葉を思い出し、御影はぶんぶんと首を振った。考えてはいけない。認めてしまったら最後、もう自分ではいられなくなる気がして怖かった。
駅までの道、あと数分というところで、御影はたまらず足を止めた。人気の少ない路地の街灯の下、バッグからスマホを取り出す。
テシヲとのメッセージ履歴を開いた。直近のやり取りは業務連絡ばかりで、プライベートな会話はほとんどない。画面に表示された「テシヲ」という名前を指でなぞりながら、御影はしばらく迷った。
(…何を送るの?謝る?それとも、平気なふりしていつも通りに?)
どの選択肢もピンとこなかった。結局、伝えたい本当の気持ちはどれでもないのだから。
ため息とともにスマホの画面を消す。そして夜空を仰いで、ふっと力なく笑いがこぼれた。
(結局…私の気持ちは、言わなきゃ伝わらないんだ)
当たり前のことなのに、認めたくなかった。できるなら、察してほしかった。言わずとも伝わる、なんて都合のいい奇跡を期待していた。
だけど、それはただのわがままなのだ。
「言わなきゃ、わからない? そんなの、ずるいじゃない……」
手の中のスマホを見つめながら、御影は静かにそう呟いた。自嘲気味な声が、夜の冷たい空気に溶けて消えていく。
胸の奥に残った小さな棘が、きゅっと疼いた気がした。




