表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

19/21

第18話 あなたの手は、暖かいのね…


午前の打ち合わせを終えて、エレベーターに向かっていたときだった。


ちょうど先に乗った人で満員になり、閉まるドアを見送るかたちに。

仕方なく階段で下ることにした。


踊り場に差し掛かったとき、すぐ後ろを歩いていた御影先輩の足音が、ひときわ強く鳴った。


「っ——」


細いヒールの先が段差に引っかかり、御影先輩の身体が一瞬ぐらりと傾いた。


反射的に、俺は手を伸ばしていた。


「……っ、危ないっ!」


御影先輩の手首を掴んで、ぐっと引き寄せる。

そのまま、胸の前に彼女を支えるかたちになった。


一瞬、静寂。


階段の途中、誰もいない空間に、ふたり分の息づかいだけが響いていた。


御影先輩は、少しだけ見上げるようにして俺を見た。


「……っ、ばか。いきなり触らないで……」


声は震えていた。でも、拒むような強さではなかった。

なにより——掴んだ手首に、微かに力が残っていた。


「す、すみません、反射的に……」


俺が慌てて手を離そうとしたとき。


「……待って」


その一言に、動きが止まった。


*


「……待って」


そう言った御影先輩の声は、かすかに震えていた。


俺はそのままの姿勢で、彼女の手を支えたまま動けなくなる。


「……あの、痛かったですか?」


「……ちがう」


少し間を置いて、御影先輩が小さく首を横に振った。


「……ちょっと、びっくりしただけ。だから……」


その“だから”の続きは言葉にならなかった。


でも、俺の手を握る指先に、微かに力がこもっていた。


*


あの手の中にいたほんの数秒——

たったそれだけのことが、どうしてこんなにも心をかき乱すのか、自分でもわからなかった。


怖くはなかった。

驚きはしたけど、拒絶の感情はなかった。


むしろ……安心していた。


そんな自分を認めるのが、いちばん怖かった。


*


数秒、いや、たぶん数十秒。


誰も通らない階段の踊り場で、俺たちはそのまま静かに向き合っていた。


体温が、じんわりと伝わってくる。


御影先輩の手は、思っていたよりずっと華奢で、そして——あたたかかった。


どきどきする。けれど、なぜか嫌じゃない。


息がかかる距離。

目をそらせば楽なのに、なぜか見続けてしまう。


*


静かだった。


あの瞬間、確かに足を踏み外した。


でも、私の心が揺らいだのは、助けられたあとの時間のほうだった。


手を掴まれて、腕を引かれて、支えられて。

普段なら、「離して」って言うところなのに。


「……嫌じゃなかった」


それが正直な気持ちだった。


そのまま黙っていたら、きっと何も言わずに離してくれていた。


でも、それが——少しだけ、寂しかったのかもしれない。


*


「……もう、大丈夫」


御影先輩が、ぽつりと呟いた。


その声に促されるように、俺はそっと彼女の手を離した。


ふわりと、温もりが指先からほどけていく。


御影先輩は目を逸らしたまま、小さく息を吐いた。


「……ありがとう。……助かったわ」


その言葉は、どこかぎこちなかったけれど——


はじめて聞いた、彼女の“素直”な感謝だった。


*


“もう大丈夫”って言ったのは、たぶん嘘だった。


あのまま、何も言わなければ——

きっと、もう少しだけ触れていられたかもしれない。


でも、これ以上いたら、自分のほうが先に崩れそうだった。


“助けられる”ことには、慣れていないから。


こんなに温かい手で、自分を引き寄せてくれる人がいたこと。


それだけで、何かが少しだけ揺らいでしまった。


階段で崩れたのは、たぶん足元だけじゃなかった。


*


階段を降り切って、オフィスに戻るまでの間は、ほとんど言葉を交わさなかった。


だけど、すれ違う誰もが気づかないくらいの距離で、俺たちは並んで歩いていた。


すぐ隣にいるのに、会話も目線もなくて。

それなのに、なんとなく心は近かった。


そんな、不思議な時間だった。


*


午後。


御影先輩は、いつも通りの顔で仕事をしていた。


冷静で、丁寧で、凛としていて。


さっきの出来事なんて、まるでなかったかのように。


でも、書類を手渡されたとき、ほんの一瞬だけ目が合った。


その視線の奥に、いつもとは違う何かが、確かにあった気がした。



あのとき握った手の感触が、ずっと指先に残っていた。


柔らかくて、細くて、あたたかかった。


御影先輩の手が、こんなにも温かいなんて——


今日、はじめて知った。



もし、もう一度あの瞬間が訪れたとしても——


俺はきっと、迷わず手を伸ばすと思う。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ