第18話 あなたの手は、暖かいのね…
午前の打ち合わせを終えて、エレベーターに向かっていたときだった。
ちょうど先に乗った人で満員になり、閉まるドアを見送るかたちに。
仕方なく階段で下ることにした。
踊り場に差し掛かったとき、すぐ後ろを歩いていた御影先輩の足音が、ひときわ強く鳴った。
「っ——」
細いヒールの先が段差に引っかかり、御影先輩の身体が一瞬ぐらりと傾いた。
反射的に、俺は手を伸ばしていた。
「……っ、危ないっ!」
御影先輩の手首を掴んで、ぐっと引き寄せる。
そのまま、胸の前に彼女を支えるかたちになった。
一瞬、静寂。
階段の途中、誰もいない空間に、ふたり分の息づかいだけが響いていた。
御影先輩は、少しだけ見上げるようにして俺を見た。
「……っ、ばか。いきなり触らないで……」
声は震えていた。でも、拒むような強さではなかった。
なにより——掴んだ手首に、微かに力が残っていた。
「す、すみません、反射的に……」
俺が慌てて手を離そうとしたとき。
「……待って」
その一言に、動きが止まった。
*
「……待って」
そう言った御影先輩の声は、かすかに震えていた。
俺はそのままの姿勢で、彼女の手を支えたまま動けなくなる。
「……あの、痛かったですか?」
「……ちがう」
少し間を置いて、御影先輩が小さく首を横に振った。
「……ちょっと、びっくりしただけ。だから……」
その“だから”の続きは言葉にならなかった。
でも、俺の手を握る指先に、微かに力がこもっていた。
*
あの手の中にいたほんの数秒——
たったそれだけのことが、どうしてこんなにも心をかき乱すのか、自分でもわからなかった。
怖くはなかった。
驚きはしたけど、拒絶の感情はなかった。
むしろ……安心していた。
そんな自分を認めるのが、いちばん怖かった。
*
数秒、いや、たぶん数十秒。
誰も通らない階段の踊り場で、俺たちはそのまま静かに向き合っていた。
体温が、じんわりと伝わってくる。
御影先輩の手は、思っていたよりずっと華奢で、そして——あたたかかった。
どきどきする。けれど、なぜか嫌じゃない。
息がかかる距離。
目をそらせば楽なのに、なぜか見続けてしまう。
*
静かだった。
あの瞬間、確かに足を踏み外した。
でも、私の心が揺らいだのは、助けられたあとの時間のほうだった。
手を掴まれて、腕を引かれて、支えられて。
普段なら、「離して」って言うところなのに。
「……嫌じゃなかった」
それが正直な気持ちだった。
そのまま黙っていたら、きっと何も言わずに離してくれていた。
でも、それが——少しだけ、寂しかったのかもしれない。
*
「……もう、大丈夫」
御影先輩が、ぽつりと呟いた。
その声に促されるように、俺はそっと彼女の手を離した。
ふわりと、温もりが指先からほどけていく。
御影先輩は目を逸らしたまま、小さく息を吐いた。
「……ありがとう。……助かったわ」
その言葉は、どこかぎこちなかったけれど——
はじめて聞いた、彼女の“素直”な感謝だった。
*
“もう大丈夫”って言ったのは、たぶん嘘だった。
あのまま、何も言わなければ——
きっと、もう少しだけ触れていられたかもしれない。
でも、これ以上いたら、自分のほうが先に崩れそうだった。
“助けられる”ことには、慣れていないから。
こんなに温かい手で、自分を引き寄せてくれる人がいたこと。
それだけで、何かが少しだけ揺らいでしまった。
階段で崩れたのは、たぶん足元だけじゃなかった。
*
階段を降り切って、オフィスに戻るまでの間は、ほとんど言葉を交わさなかった。
だけど、すれ違う誰もが気づかないくらいの距離で、俺たちは並んで歩いていた。
すぐ隣にいるのに、会話も目線もなくて。
それなのに、なんとなく心は近かった。
そんな、不思議な時間だった。
*
午後。
御影先輩は、いつも通りの顔で仕事をしていた。
冷静で、丁寧で、凛としていて。
さっきの出来事なんて、まるでなかったかのように。
でも、書類を手渡されたとき、ほんの一瞬だけ目が合った。
その視線の奥に、いつもとは違う何かが、確かにあった気がした。
あのとき握った手の感触が、ずっと指先に残っていた。
柔らかくて、細くて、あたたかかった。
御影先輩の手が、こんなにも温かいなんて——
今日、はじめて知った。
もし、もう一度あの瞬間が訪れたとしても——
俺はきっと、迷わず手を伸ばすと思う。




