第20話『たぶん、今がいちばん近い。』
夜のホームには、ひんやりとした静けさが満ちていた。終電間際の駅は人影もまばらで、俺と御影先輩の二人きりと言っていい。遠くで電車の走る音が微かに響く以外、ほとんど物音ひとつない。ホームの天井灯が白い光を投げかけ、先輩の横顔をぼんやりと照らしていた。
御影先輩は無言で俺の隣に立っている。かすかな風が吹き抜け、先輩の髪の一房が揺れた。その髪越しにうかがえる表情は……どこか落ち着かないように見える。唇はきゅっと結ばれていて、目は正面の闇をじっと見つめているけれど、その瞳の奥には揺れが感じられた。強がって平静を装っているみたいだけど、指先が小さく震えているのを俺は見逃さなかった。
(先輩も……緊張してる?)
隣に立つ先輩の肩越しにちらりと顔を伺うと、御影先輩は気づいていないのか、それとも気づかないふりをしているのか、視線を合わせてはくれない。代わりに白い喉が小さく上下するのが見えた。飲み込んだ息が、かすかに震えている。
俺はごくりと唾を飲む。胸の奥がドキドキとうるさく脈打っていた。冷たい夜気を吸い込んでも、一向に熱く火照った体温は下がらない。
チャンスは、おそらく今しかない。
――言わなきゃ、わからない。
頭の片隅で、誰かの声がそう囁いた気がした。いや、違う。たしか、ほんの少し前に御影先輩が……。
「言いたいことがあるなら、ちゃんと言いなさいよ。言わなきゃ、わからないんだから……」
不意に、数時間前の彼女の言葉が蘇る。帰り際、会社を出るときに小さく呟いた御影先輩の声。あれは、きっと自分にも言い聞かせるような、そんな響きだった。
(そうだ。先輩はそう言ってたじゃないか)
もし伝えたい想いがあるなら、言葉にしなくちゃ伝わらない――あのときの先輩の震える声が、今の俺の背中を押していた。
だから、決めたんだ。今日、今、この瞬間に伝えようって。
俺は握りしめていた拳に力を込め、そっと開く。隣に目をやれば、御影先輩の右手が体の横で微かに動いた気がした。躊躇うように、何かを探すように。俺の左手とは、あと数センチしか離れていない。
(この手を取ってしまえたら、どんなに楽だろう)
一瞬、そんな考えが頭をよぎる。だけど同時に、ただ手を握るだけじゃ足りないとも思った。ちゃんと伝えなきゃいけない。彼女がかつて言ったように、言葉にしなきゃ始まらないこともある。
意を決して、俺はゆっくりと顔を上げた。
「御影先輩……」
名前を呼ぶと、自分でも驚くほど声が震えた。乾いた喉から掠れるような音しか出てこない。それでも、先輩は小さく「……何?」と返事をしてくれた。こちらを向いたその横顔は強ばっているようで、でも薄明かりの中で睫毛が微かに揺れて見えた。
「その……ずっと先輩に伝えたいことが……ありました」
心臓が壊れそうなほど高鳴る。視界の端で、御影先輩の指がぴくりと動いた。
「……伝えたいこと?」
御影先輩がか細い声で問い返す。いつも凛とした彼女からは想像もつかないほど、たどたどしく優しい声音だった。その声にも後押しされ、俺は思いを言葉に乗せようと口を開く。
「はい。俺、先輩のことが――」
ここまで。喉の奥から震えるような音が漏れた、そのときだった。
「……バカね」
ふいに、御影先輩がそう呟いた。消え入りそうな、ごく小さな声で。
「え……?」
思わず言葉が詰まる。顔を上げると、御影先輩は恥ずかしそうに目を伏せていた。頬がほんのり朱に染まっている。怒っているのとは違う、どこか柔らかな表情。
「ほんと、バカ……」
もう一度、今度は僅かに震えた声で繰り返す。呆れたような、それでいて戸惑っているような響きだった。
俺は混乱しながらも、必死に口を開く。「せ、先輩? あの、俺……」
何か言わなくちゃ、と焦る心を見透かすように、御影先輩はゆっくり首を振った。そして――震える吐息とともに、静かな声が夜の空気に溶けていく。
「……言わなくても、いいわよ。そんなの」
はっとして、御影先輩を見つめる。彼女はまだ視線を合わせてくれない。でも、路線図の看板から反射した光に浮かぶ横顔が、さっきまでよりずっと穏やかに見えた。薄い桜色に染まった頬。形のいい唇が、すこしだけ緩んでいる。
「そ、それって……」
思わず訊ねかけて、俺は口ごもる。胸が高鳴りすぎて、言葉がうまく続かない。
御影先輩は小さく溜息をついた。肩の力が抜けたように見える。そして、ゆるゆるとこちらに顔を向けた。おそるおそるといった仕草で俺と目が合う。
夜の明かりの下でも分かる。御影先輩の瞳が、潤んで優しく揺れているのが。
「言わなくても……わかるに決まってるでしょう? そんなこと」
消え入りそうな声。でも、確かにそう言った。最後の「そんなこと」は、ほんの少しだけ語尾が弾んで聞こえた。照れ隠しの調子が混じっているのが分かって、胸の奥が熱くなる。
(わかるに決まってる……今、そう言ったよな)
つまりそれは、そういうことで――
込み上げる喜びに、思わず泣きそうになるのを必死で堪える。俺の目尻にも熱いものが滲みそうになったけれど、それを隠すように苦笑いを浮かべた。
「……ですよね。俺、遠回りしすぎましたか」
精一杯、冗談めかして言ってみる。声が震えていなかったか自信はない。でも御影先輩はクスッと小さく笑ってくれたようだった。
「さあ、どうかしら」
小首をかしげて返す横顔は、どこか晴れやかだ。耳まで赤いのに、無理に平静を装おうとしているのが先輩らしくて、愛おしい。
言葉はなくても通じ合える――そんな瞬間が本当にあるんだと、胸に温かなものが満ちていく。
やがて再び静寂が二人を包んだ。俺たちは黙ったまま、並んでホームの先を見つめる。遠くに列車のライトが見え始めたのが分かったけれど、まだ時間はあるみたいだった。
ふと、視線を落とす。俺たちの足元に伸びた二つの影が寄り添っている。その先端では、俺の影の手と先輩の影の手が、触れそうで触れずに震えていた。現実の俺たちの手も同じだ。あとほんの数センチの距離が、お互いの手の間に残されたままになっている。
昔は遥かに遠い距離があったと思う。少なくとも俺は、御影先輩とこんなに近くに並んで立つ日が来るなんて想像もしていなかった。出会った頃の彼女は、手の届かない場所にいる人だと思っていたんだから。
それが今は、肩が触れそうなほどすぐ隣にいる。触れたら壊れてしまいそうなほど大事に思っていた存在が、同じ空気を分け合っている。
言葉なんてなくたって、届く想いがある。
そう気づいた今、怖いものなんて何もない。隣に御影先輩がいてくれる――ただそれだけで、心が満たされていくのを感じる。
こわごわと左手を動かしてみる。そっと、人差し指を伸ばして……隣の彼女の手に触れないギリギリのところで止めた。ほんの数センチの隙間。でも、もうそのわずかな距離さえ、どうでもいいことのように思えた。
静まり返ったホームに、電車が近づいてくるゴォーッという音が響き始める。いつの間にか吹き始めた夜風が、二人のコートの裾を揺らした。
御影先輩がゆっくりと瞬きをするのがわかった。彼女もまた、こちらに視線を落としている。触れそうで触れない俺の指先と、自分の指先を。
唇が何かを言おうとして、小さく動いた。
だけど結局、その唇から言葉が発せられることはなかった。代わりに、先輩の右手がそっと動いて、小さな白い拳をそっと開く。俺の小指の先からほんの数センチ横で、先輩の指先がひらひらと風に揺れた。
それは、まるで何かを受け入れる合図のように見えて──俺の胸は高鳴る。
カタン、と遠くでポイントが軋む音がした。電車がもうすぐやって来る。だけど不思議と焦りはない。たぶん、俺たちはもう大丈夫だから。
俺たちの手のあいだに残された隙間は、ほんのわずかだ。その距離が心地よくて、そして愛おしかった。
たぶん、今がいちばん近い。
短い話でしたけど一応完結とさせて頂きます。
読んでくださった方、ありがとうございます!(´▽`)




