第71話 災厄の古代神話(1)
「あっ、サウロ君!」
夕刻。ゼブラゼノクを倒したラシードは城への帰り道、馬で通りかかったハル・マリアの店の前の路地を慌てた様子で駆け回っていたルツとばったり出会った。
「どうしたんですか? ルツ姉さん」
ルツは見るからに焦っていて尋常ではない。すぐに下馬して訊ねたラシードの手をすがるように取って、彼女は必死に助けを求めた。
「スザンナがいないの。昨日の夜から……井戸に水を汲みに行くって言って外へ出たきり、ずっと帰って来ないのよ」
「スザンナさんが?」
スザンナが自宅の台所から持って行った桶は、逆さまに引っ繰り返った状態で井戸のすぐ傍に転がっていた。周囲には水がこぼれて濡れた跡もあり、ここで水を汲んでいた彼女に何かがあったことを示しているようだったとルツは言うのである。
「あの子、最近よく神様の声が聞こえるなんて言って変な行動するから心配だったんだけど……今は戦時下だし街の治安もどんどん悪くなってるし、もしものことがあったらどうしよう」
「落ち着いて。ルツ姉さん。とにかく手分けして探しましょう。俺の配下の兵からも人員を割いて捜索させるようにします」
既にシメオンとミリアムもルツから話を聞き、協力してあちこち探し回ってくれている。ラシードも再び馬の背に飛び乗り、スザンナの行方を追って市内を見回ることにした。
「余計なことはするなと言ったはずだぞ。アルミサエル」
光を全て吸い込んでしまうかのような漆黒の鱗は、眩しい夕陽を浴びても明るく照り輝いたりはしない。背中の翼を威嚇するように大きく広げたバラキエルに厳しく叱責されたダーリヤは、天界における自分の直属の上官であるこの竜人が湛える闇の冷たさから目を背けるように横を向いた。
「どうした? 今は誰も見ていない。人間への擬態など必要ないんだ。もう慣れたものとはいえ、醜い下等生物の姿に化けるのはやはり羞恥心もあるし、それに肩も凝るだろう」
「いえ、最近はこっちの姿の方が、何だか気楽でいられるものですから。それにこの若い人間の女の子の顔、なかなかの美しさだと自分でも思って気に入ってます」
バラキエルに促されても、ダーリヤは彼女の正体であるエメラルドのような淡い緑色の竜人の姿には戻ろうとしない。自分の鱗と同じ色を選んだ長衣の袖を軽く引っ張って形を整えたダーリヤは、わざと小生意気な澄まし顔を作って反論した。
「魔王の仔レオナルドはまだゼノクの力に目覚めたばかりで、高い魔力の負荷に肉体が慣れ切っていません。昨夜の無理が明らかに尾を引いている中、あのまま戦闘を続行させるのは危険だと判断しました」
「過保護ではないのか? 我々にとってレオゼノクは仲間や愛玩動物などではなくあくまで兵器だ。乱暴に扱い過ぎて壊してしまっては元も子もないが、人間たちが犬や猫を飼うように大事に可愛がってやる必要はない。戦果を上げるためであれば多少の酷使は許容範囲内だぞ」
「彼には感情があり、戦士として、また一個の人間としての誇りもあります。あまり粗雑で手前勝手な扱い方をすれば、やがて真実を知った時に怒ってこちらに牙を剥いてくるかも知れません」
「かつて、奴の先祖のレオニダスがロギエルに対してそうしたように……か?」
その通りです、とうなずくダーリヤだったが、本当はただ彼を守りたいという私情から言っているのだと見透かされているのは分かっていた。それでも、彼女は悪びれもせずあくまで堂々と居直った態度で自分の考えを述べる。
「彼の性格を一番よく把握しているのは、長年ずっと傍にいて見守ってきたこの私です。ご無礼ながらバラキエル様のやり方では彼はこちらの思うようには動いてくれず、むしろ場合によっては極めて厄介な反応を招きかねないと思います」
「確かに、人間の思考など私には理解できん」
蔑みと徒労感とをない交ぜにしたような声で、バラキエルはあっさりとダーリヤの意見を認めた。あんな愚かな奉仕種族らのどこにそこまで魅力を感じて肩入れしようとするのか、彼には自分がレオゼノクの世話を任せることにしたこの部下の女天使の奇妙な心情が全く分からない。
「現在の状況は複雑で、しかもひどく流動的だ。ジュシエル様の信奉者たちとロギエル教徒との戦いも今は膠着状態だが、恐らく数日の内に大きく戦局が動くことだろう。このような中で我々の計画を成功に導くには、あらゆる要素を考慮に入れた上での慎重かつ臨機応変な判断が求められる」
その高度に困難な役目を果たせるのは、今はダーリヤという偽名を使って人間界に潜り込ませているこの天使アルミサエルを置いて他にいない。しっかりやれよ、と激励と同時に釘を刺す言葉を彼女にかけてから、バラキエルは翼を羽ばたかせて夕焼けの空へと飛び去っていった。




