第1話 王女、入学する1
朝の光が、窓から差し込んでいた。
13歳の春、鏡の中に映る自身の姿を見つめながら、 サンクチュアリ王国王女、リゼット・フォン・サンクチュアリは、期待と不安で内混ぜな気持ちを抱えながらも今日何度目になるか分からない溜息を吐いた。
「――失礼いたします、殿下」
侍女のミーナが慣れた手つきでリゼットの髪を梳き、整えていく。前髪を飾りピンで留めたところでミーナがリゼットから離れた。
「ありがとう。ミーナ」
鏡の前に座ったリゼットは、小さく頷いて見せた。
今年、十三歳を迎えるリゼットは今日から、サンクチュアリ王立学園・中等部の生徒になる。
制服に袖を通した姿は、これまでの王女としての正装とは違って見える。
「普通の生徒に見えるかしら?」
「普通の生徒に見えたら困ります」
普段と違った様子のリゼットに軽い調子でミーナが笑って返す。
王女としての教育を受けて育ったリゼットが他の生徒と同じであってはならない。それは王家の一員として侮られる一因となり、ひいてはリゼットの身に及ぶ危険の度合いにも繋がるからだ。
ミーナが贔屓目に見ても鏡に映るリゼットは気品を備えた完璧な王女だ。
闇夜に映える月光を思わせる淡い銀髪。夜明けの色を宿した、不思議な色合いの瞳は光の度合いで朝焼け色にも変化する。顔のパーツは小さな顔にバランス良く配置され、活発な印象を受ける王家一家の中で唯一控えめで静かな印象を持つのがリゼットだ。
鏡越しにこちらを見返してくる夜明け色が日の光を受けて紫から淡い金色の朝焼け色へと変化する。
「……少し、緊張します」
「殿下でしたら大丈夫ですよ」
ミーナが微笑む。
「そうかしら」
「はい。とても落ち着いていらっしゃいます」
「それは……私が、……王女だから」
リゼットは言葉を探し、結局探しきれずに無難な答えに辿り着き少しだけ苦笑した。
王女なのだから、きちんとしていなければならない。王女なのだから堂々としていなければならない。それはもう、あたりまえの事だった。
「ただ、」
ぽつりと零れる。
「……できれば、静かに過ごしたいわ」
「少なくとも今日は無理ですね」
ミーナが小さくため息をついた。
何せ今日は入学式。新入生代表の挨拶は必然的にリゼットに決まった。
基本、引きこもりがちなリゼットはあまり表に顔を出さない。
今日は実質的なリゼットの同世代へのお披露目でもある。
顔を覚えてもらいたい、繋ぎを取りたいと思う生徒は同級生、上級生含めごまんと居る。
王女という立場上、社交は必須。生まれた時から難しい立場に立たされていたリゼットは周囲の空気に敏感で、誰にも言えない何かを一人で抱え込み、一時期心を病んでいた時期がある。
そういった事情もあり、同年代の相談相手として何人か見繕ったものの、結局そういった者が決まらないままずるずると今日まで来てしまった。
リゼットが親しくしている相手と言えば、セルディック公爵家の嫡男、くらいだが、いかんせん、年が離れすぎている。
他にリゼットが家族以外で心を許しているのはリゼットの乳母の娘であるミーナと専属護衛のレオンくらいだろう。
実質、同年代との交流が初めてとなるリゼットは、この機会に自衛の手段として自分の目で信頼できる相手を選別し、近づけたくない者らを捌く術を覚えねばならない。
何よりーー
「そう、ね。がんばるわ」
リゼットは鏡越しにミーナの顔を見ながら笑みを作って答えた。
ピピッ、ピッ
その時、小さな羽音と共に翡翠色の小鳥が部屋に舞い込んできた。
「まあ、また来たの?」
リゼットが手を伸ばせば小鳥は指に留まった。
「ミーナ」
「はい、お待ち下さい」
リゼットに差し出された空いた手にミーナがひとつまみの雑穀を乗せると小鳥が飛び移り、啄み始める。
「ふふっ」
その様を見てリゼットの笑みから硬さが抜ける。
「この鳥もすっかり馴れたものですね」
「ええ」
いつの頃からか遊びに来るようになった翡翠色の小鳥を眺め、ミーナが呆れたように言った。上質な翡翠の羽を持ち、つぶらな瞳は金色に見える。
生きた宝石のような見た目の美しさから何処かの貴族家から逃げてきたのかとも思ったが、そんな話も聞かない。
あまりにも頻繁に通うので、いっそのこと飼っても良いのではと鳥籠を用意しようとしたミーナを止めたのはリゼットだった。
羽を切るのも閉じ込めるのも可哀想だと。
以来、もてなし用の小鳥の餌だけがリゼットの部屋に常備されるようになった。
餌を啄む小鳥を見つめるリゼットの顔を見て、ミーナは安心した。
緊張はいくらか解れたようだった。
*
小鳥を見送ったリゼットは思いを馳せる。
三年後には、始まる物語がある。
5歳の頃に思い出した異世界の記憶と知識。
サンクチュアリ王国を舞台にした乙女ゲーム『アルコバレーノ∞』。その物語はつい1年ほど前に幕を閉じた。
その続編にあたる『アルコバレーノ∞2』がまさにそれだ。
けれど、知っているからといって、未来の全てがシナリオ通りに進むわけではない。
リゼットはその事実を身を以て知っている。
それを踏まえた上で断言できるが、前世を思い出したからと言ってそれをまだ13歳の自分がうまく使いこなせるとは思わない。
かつて、誰かが言っていた。『使えない知識は使いどころが来るまで捨ておけ』と。
だからこそ、リゼットは《《何もしない》》と決めていた。
「殿下?」
憂いた表情のリゼットにミーナが心配げに声をかける。
「なんでもないわ」
リゼットはそれ以上何も言わなかった。
そのとき、扉の外からノックと控えめな声がした。
「殿下」
「レオン?」
専属護衛騎士のレオンだった。
「女王陛下がお越しです」
レオンの言葉にリゼットが立ち上がる。
「お通しして」
レオンの返事も待たずに扉が開かれた。
「リゼット」
その声に、ずん、と部屋の空気が重みを増した。
日の光を浴びて輝く金の髪。思慮深さと厳しさを宿した深い青い瞳。落ち着いたデザインのドレスにハイヒール。
普通の女性では持ち得ない、何処かの世紀末を想起させる隆起した筋肉に圧倒的な体躯。
「お姉様」
穏やかな笑みを浮かべ、リゼットは1期ヒロインを見上げた。
*
乙女ゲーム『アルコバレーノ∞』のヒロインであり、リゼットの姉。
赤子の頃に起きた騒動のどさくさに紛れて行方不明となり、平民の愛情深い夫婦によって拾い、育てられ、潜在的な魔力の高さと優秀さで特待生として入学を果たし、
圧倒的な筋肉と理不尽さで女王即位というエンディングを迎えたエリス・フォン・サンクチュアリ。
明るく、溌剌とした華奢な美少女の劇的アフターの姿である。
「準備はできましたか?」
「はい。問題ありません」
答えたリゼットの後ろに控えたミーナが小さく首肯する。
「リゼット……」
「はい」
エリスは打ち震え、顔を輝かせた。
「可愛い! とっても可愛いわ、リゼット!」
「ありがとうございます」
リゼットが微笑む。
「ところでお姉様」
「何かしら?」
「……また大きくなりました?」
「わかる? 鍛錬の成果よ」
エリスは得意げに親指を立て、シニカルな笑みを浮かべる。
「どおりで」
リゼットは納得したように頷いた。見上げる角度が上がった気がしたのだ。心做しか首が痛い。
「素敵ですわ、お姉様」
しかし、リゼットは余計な事は言わなかった。一言褒める。それだけでエリスはご機嫌になる。
褒めすぎてしまうとエリスの周囲の人間に迷惑がかかってしまう。過去の経験で学んだリゼットはエリスの程よくご機嫌を取る術を身に付けていた。
しかし、最初はご機嫌だったエリスの表情がすっと曇った。
「お姉様?」
「……今日はね」
エリスがしゃがみ込み、リゼットと目線を合わせる。
「本当は、私もリゼットの入学式を見に行きたかったの」
「……それは」
「そうなのよ!!」
エリスは悔しそうに拳を握る。
「どうして今日に限って政務があんなにあるのかしら」
「お姉様、そういう問題ではありませんわ」
「ぐっ……」
本当にそういう問題ではないのだ。女王が入学式に来る。それだけで大騒ぎになる。それはよくないと思ったリゼットが嗜めるが、エリスも分かっているのだろう。それでも悔しいらしい。
「お父様とお母様も行きたがっていたのに……」
「お二人も、ですか?」
王家総出で王女の入学式に参加する。それはちょっとした国家行事ではないだろうか。
「ええ。でも宰相に止められたわ」
エリスは大きくため息をついた。
リゼットは少し考えた。
「それは……とても大変な事になりますものね」
「ぐぬっ……!」
困り顔で笑うリゼットにエリスが言葉に詰まる。
「り、リゼット、もう少し我儘を言ってもいいのよ。仕事を後回しにしてでもお姉様にだけは参席して欲しいとか……」
「お姉様、それは私の我儘ではなく、お姉様の我儘でしょう? それに、そんな事を私が言ってしまったら、国を回して下さってる皆様に《《私が》》恨まれてしまいます」
「ぐっっ!それは……」
「王女殿下の仰る通りです」
扉の方から静かな声がした。
「その声は……」
エリスが忌々しげに呟き振り返る。そこには隙のない正装に身を包んだ、細身の
中年の男が立っていた。
「……宰相!!」
補佐を連れた宰相が静かな眼差しでエリスを見つめている。
さらに少し離れた場所には、明らかに一般の護衛とは違う精鋭と思われる騎士が数名。
リゼットはそれを見て、少しだけ目を瞬かせた。
(シエル様ではない?)
リゼットは内心で首を傾げた。宰相の補佐官が複数いるのは知っている。
その補佐官の筆頭がシエル・ランバートで、シエルを連れた宰相の姿はよく見かける。しかし、今連れているのは別の補佐官だ。もっとも、宰相が常にシエルだけを連れているわけではない事はリゼットも知っている。
今回はたまたまそんな日だったのだろうとリゼットは一人納得した。
「陛下。本日の政務がございます」
「分かっているわ」
「そして、学園への御臨席はお控え頂く旨、ご納得された筈では?」
「……分かっているわ」
「先代国王陛下と王妃陛下にはご納得頂いております」
「それも分かっているわ」
拳を握りしめたエリスの二の腕が隆起する。
補佐官の顔がわずかに引きつるが、宰相は動じない。
「ならば、問題はございませんね」
「ぐぬぬぬ……!」
エリスは歯を食いしばり、未練がましくリゼットをチラチラと見ている。
リゼットは小さく息を吐いた。入学式の時間も迫っている。リゼットには新入生代表の挨拶もあるので他の生徒より早めに到着しなければならない。
この膠着状態を何とかしなければならないのだ。
「お姉様」
リゼットは静かに息を吸い、胸の前で手を祈るように組み、上目遣いでエリスを見上げた。今のリゼットは王女ではない。女優だ。
エリスがわずかに動揺を見せる。その隙をリゼットは見逃さなかった。
「私はお姉様のお立場もお父様とお母様のお立場もよく心得ておりますわ」
「リゼット……」
「お姉様……」
大人になりましょう。という言葉は胸のうちにそっとしまった。
そしてリゼットの作り出した空気を宰相が正確に汲み取り、絶妙な間で畳み掛ける。
「陛下。陛下が本当に殿下のためを思われるのであれば、本日はここで見送られるべきです」
エリスはとうとう観念した。
「……分かったわ」
エリスは長く深く息を吐き出した。
側にいたリゼットの整えた髪が乱れ、ミーナの眼光が鋭さを増した。
「ありがとうございます、陛下」
宰相が一礼する。
するとエリスはすぐにリゼットへ向き直った。
「でもでも、帰ってきたら全部聞かせてね」
「はい」
「一つ残らずよ?」
「はい、お姉様」
素直に頷くリゼットにエリスは満足そうに頷きを返した。
その間にもミーナがブラシを手に、リゼットの髪を整え直している。
ミーナが下がったタイミングで、エリスがリゼットを抱きしめようとした時だった。
「陛下」
その腕をミーナが止めた。
「……殿下のお髪が乱れますので」
「……」
エリスは渋々手を引っ込めた。
リゼットは笑う。
「お仕事、がんばって下さいまし。お姉様」
「ぐっ……、リゼットも、いってらっしゃい、」
半ば涙声をにじませながら、未練がましく手を振って、エリスはリゼットの部屋を宰相の連れた騎士たちの手によって退出させられていった。
その後ろで、宰相がリゼットに頭を下げた。
リゼットは笑って小さく手を振った。




