狼ゲーム 2
私たちはまず、外を向いて円になっていた椅子を反転させて内向きの円を作った。誰かが号令をかけたわけではない。自然とそうなった。
私は順繰りに五人の顔を見る。
残念なことに、私にはそれだけでは誰が狼なのか察することはできなかった。
この五人の中に狼がいる……。
そのことを理解していても、誰も、隠しごとをしているような表情はしていない。
素直に、感心した。誰とも知らない狼に。
私がもしも狼だったら、もうこの時点で尻尾を出していたところだろう。隠し事をするのもコミュニケーション能力のひとつ。それは私が学生時代に忘れてきたものだ。
「それではまず――」
音頭を取ったのは、うづきちゃんだった。
初対面から薄々感じ取っていたところではあるが、彼女にはリーダーシップがある。人に信頼される才能と、人をある程度は信頼できる才能。
人に信頼される自信があるから意見を表明することを恐れないし。
人を信頼できるから、こんなことも言えてしまう。
「狼のカードを引いた方に勧告します、自首をしてくださりはしないでしょうか?」
ざわっとした。
うづきちゃんを除く五人は、私を含めその言葉に動揺した。
なにを言っているのだろう。
自首なんてするわけがない。
だって。
このゲームは、ほとんど狼の必勝だ。先ほど淡雪ちゃんが言った通り、このゲーム、狼と羊でプレイする行動に外面的な違いは存在しない。黙って羊のふりをしていれば、絶対に狼バレすることはない。
そのことがうづきちゃんにわからないとも思えない。
そして実際、うづきちゃんはわかっていた。そのことを。わかった上で、その先のことまで考えていた。
「誰が狼ですかって訊いて、はい私ですって答える奴がいるわけないでしょ」
荊木ちゃんが呆れを孕んだ声音で言う。
それに対して、うづきちゃんは、
「そうでしょうか? わたくしはそうは思いません。人間には良心というものがありますから」
と答えた。
良心……か。
たしかにそれなら私にもある。両親はいないが、良心はある。
しかしそれが、なんだと言うのだろうか。
「このゲーム、実質的には狼を特定する方法が存在しないゲームです。ならばわたくしたちは今から、追放するひとりを議論しなければならない――平たく言いますと、誰かに狼を押し付けて、その方を追い出さなければならないのです」
「つまり、うづき――あんたが言いたいのは……」
「そうです。わたくしは、醜く言い争う前に辞退者を募りたいと思っています。どうか、狼のカードを引いた方ではなくとも、自分が狼だと言ってくださる高潔な方はいらっしゃいませんか?」
いらっしゃるわけがなかった。
うづきちゃんの提案は、たしかに的を射たものだったと思う。
辞退者が自ら名乗り出てくれるなら、それに越したことはない。ゲームは簡単に終わるし、その後のオーディションに進む五人のプレイヤーの心理としてもとても軽いものとなる。他者を思いやる気持ちが、良心が、ほんの少しでもあるならば、ここは進んで狼の皮を被るべき局面だ。
ただ、実際にそんな自己犠牲ができる人間はここにはいなかった。
百万を六等分できない私たちである。
ここにいるのは月の兎ではなく、狼と羊だけだ。
私だって。
こんな私だって、予選と第一オーディションを勝ち抜いてきた。下してきた彼女たちへの礼節として、そんな簡単に道を譲ってやることはできない。
私も、そして彼女たちも。
そう易々とは負けてあげられない。
「……そうですか。そうですよね。失礼しました。余計な提案をしたことをお詫びしましょう」
「謝る必要ないって」
星海ちゃんが言った。
「こっちこそ、嫌な役回り押し付けてごめん。誰も流流の言ったこと、余計な提案だなんて思ってないよ。そうだよね。星海たち、今から誰かを追い出さないといけないんだよね。ありがと、流流。星海、なんとなく流れに任せようとしてた。でも、そんなんじゃダメだよね」
「ダメということはないと思いますが」
「いや、ダメだよ。負かすなら、ちゃんと勝つつもりで戦わなきゃ」
「男前ですね、星海さんは。そこに痺れる憧れる」
うづきちゃんが言って、星海ちゃんが笑った。
一瞬だけ、そこには和やかな空気があった。互いが互いを疑い合い、蹴落とし合う悪魔のようなゲームは、最初から始まっていなかったかのように。
ただ、それは一瞬だった。
星海ちゃんの小さな笑い声が止んで、僅かな沈黙が訪れて、その沈黙を時計の針の音が埋めている間に、荊木ちゃんが立ち上がる。
「時間の無駄」
彼女は独り言のように言った。
全員に棘を向けるような独り言だった。
時間の無駄、と。
「馴れ合ってる場合じゃないでしょ。仲良くなったって、誰かを選外にしなきゃいけない事実はなくならない。それとも、あんたらは仲良くなれなかった奴に投票するつもり? 一緒にトイレに行かない奴を、爪弾き者にするみたいに」
荊木ちゃんが皮肉を込めて言ったところで、うづきちゃんが挑戦的な表情を彼女に向ける。
「大胆ですね、荊木さん。もしも今、この中の誰かを村八分にするとしたら、それは荊木さんになってしまいますよ」
「そうしたいならそうすれば?」
荊木ちゃんは強気に言い返した。
売り言葉に買い言葉、という単語が脳裡を掠める。
どこか攻撃的で素っ気ない彼女は、私に野良猫のイメージを抱かせた。
「でも、ウチよりもっと投票すべき人がいると思うけど」
「興味深いですね。参考までに、荊木さんが誰に投票するのか伺っても?」
「少し考えればわかるでしょ」
荊木ちゃんは顎を小さくしゃくって示した。
その切れ長の瞳に射竦められた淡雪ちゃんが、僅かに肩を震わせる。
「実のところ、ウチは音楽やりたいからVTuber目指してるだけで、それがどんな仕事するのかもあまりわかってないけど、でも、妊婦に務まるほど楽な仕事でもないんじゃないの? デビューしてすぐに産休育休って、そんなわけにもいかないだろうし」
反論は、なかった。
淡雪ちゃん本人もうづきちゃんも、そして私も、沈黙を彼女に返した。
荊木ちゃんは痛ましい表情で最後に淡雪ちゃんを見ると、気まずそうに視線を逸らす。彼女にも人並み以上の優しさがあるのだと、その仕草から見て取れた。可哀想だと思う気持ちが、ないわけではない。でも、それで意見を翻すような人間でもない。
「ウチは淡雪に入れる」
それだけ言い置いて、荊木ちゃんはラウンジを退出した。
うづきちゃんが細く、長く息を吐く。膝の上で楚々と揃えられた両手は、もぞもぞと何度も組み替えられていた。淡雪ちゃんは丸まるように俯いて、両腕で双子を抱いている。
沈黙は長くは続かなかった。
今度は、カレンちゃんが立ち上がる。
「アザミさんが朋絵さんに入れるというのなら、わたしもそうしたいと思います。アザミさんとはマブダチですからね。病めるときも健やかなるときも、です。それにお手洗いにもいきたいですし、わたしはここで失礼します」
相も変わらず冗談なのか妄言なのか判断が難しいことを言って、彼女はラウンジを退室していった。
私は再び、淡雪ちゃんに視線を向ける。
彼女は俯いたまま、ピクリとも動かないでいた。ともすれば眠っているようにも、死んでいるようにも見えた。
これで、淡雪ちゃんに二票。
進退窮まった彼女を私たちは憐れむような目で見ていた。
やがて、うづきちゃんが小さく嘆息しながら立ち上がった。
彼女がどういう決断をしたのか、その決断にどれだけ悩んだのか、その小さくも重たい溜息の密度から察することができる。
そのまま無言でラウンジを出ていくのかとばかり思っていたが、彼女はドアの前で振り向いて、淡雪ちゃんに伏し目を寄越した。
「申し訳ないとは、思っています。でも、わたくしも負けるわけにはいかないので」
淡雪ちゃんは言葉を返さず、身体を捩ることもなかった。
ただ、頭を垂れる。断頭を待つ罪人のように。
うづきちゃんはしばらく淡雪ちゃんを見ていたが、いつまでも返ってこない言葉に目を細めてラウンジを出ていった。
負けるわけにはいかない、とうづきちゃんは言った。
そんなの全員そうだ、と私は思う。
負けたくない。ここまで勝ってきたのだから。それぞれ思惑は違っても、事由は違っても、想いの多寡は違っても、心のどこかに勝ちたいと、VTuberになりたいと思っているからここまできたのだ。
それでも、現実は残酷だった。
これで淡雪ちゃんに三票入った。半数だ。
淡雪ちゃんが生き残るには、ここに残っている三人の票を一か所に集めてスプリットを狙うしかない――狙うしかない、のに。
「ねえ、朋絵はどうしてVTuberになりたいの?」
星海ちゃんの質問に淡雪ちゃんはやはり言葉返さない。
返さなければならないのに。
「星海はね、自分の声がかわいいと思ってるナルシストだから、向いてるかなって思って応募したんだよね。声優の道とかも考えたんだけど、ほら、演技とかハズいし星海には向いてないかなって」
語り掛ける星海ちゃんの声は、淡雪ちゃんに届く前に臙脂色の床に墜落してしまったみたいだった。
数秒の沈黙。
星海ちゃんはあどけない笑みを一瞬だけ引き攣らせて、それから沈黙を塗り潰すように口を開いた。
「あとね、最近彼氏に浮気されちゃって、ぶっ飛ばしてやりたいんだけど、まあ、ぶっ飛ばすわけにもいかないから、スターになって見返してやりたいって思ってるんだよね。見返すっていうか、後悔させるっていうか、ザマァ、みたいな? わかる?」
これには、淡雪ちゃんは少しだけ反応した。
聞こえていないわけでは、ないらしい。
聞こえていない方がマシだったかもしれないが。
「いいわね、学生はお気楽な恋ができて」
呟くように、毒を吐いた。
その声はどう考えても淡雪ちゃんのものだったけど、声音はまるで別人のものだった。
彼女の声は、それこそ淡雪のようにふんわりとした優しさに富んだもののはずなのに、今の彼女から伝わってくる声は、どこまでも冷たい。触れれば痛みを伴うほどに、冷たくて鋭くて刺々しい。
仕方のない、ことだったのかもしれない。
高校生の惚れた腫れたなんて、不倫の末の認知されない子を孕んだ彼女にとって、まさしくお気楽なものとして耳に届いたのだろう。
耳に届いて、耳に障ったのだろう。
思わず毒を吐くのも無理からぬ話だった。
けど、そんなことを言うべきではなかったことは、淡雪ちゃんならわかったはずだ。彼女は差し伸べられた救いの手を、自ら振り払ってしまった。絶対に失ってはいけない一票を、自分に差し向けさせてしまった。
お気楽な恋。
その単語が星海ちゃんの耳にどう聞こえたのか、それは彼女しか知る術はない。
だけど、浮気された恋の行方を『お気楽』と称されて気分が良くなるということはなかったはずだ。
しばらく、星海ちゃんは淡雪ちゃんを見ていた。そういう気配がした。小心者の私は怖くて、彼女の表情を見ることができなかった。
時計の秒針が何周かしたあと、星海ちゃんは終ぞ立ち上がった。制服のプリーツスカートを翻らせて、ラウンジの外を目指す。
「あ」
淡雪ちゃんは短い悲鳴のような声を上げて、顔を上げた。
星海ちゃんの背中を視線で追う。けれども、今度は星海ちゃんが振り返らなかった。
そうして、ラウンジには私と淡雪ちゃんのふたりだけの空間ができあがる。
逃げ遅れた、と私は思った。
制限時間はまだ十五分ほどある。だけど、もはや決着はついたようなものだった。
あの様子で、星海ちゃんが淡雪ちゃんに入れないわけがないだろう。となると、淡雪ちゃんには既に四票入っている。過半数だ。今からどんなことが起きたって、ゲームはひっくり返らない。
逃げ遅れた。
この気まずい空気から逃げ遅れた。
淡雪ちゃんに慰めの言葉をかけるか悩んだ末、なにを言ってもトドメになると判断した私は無言のまま立ち上がって、出口を目指す。
「………」
と。
淡雪ちゃんの近くを通りかかった瞬間、彼女に袖を掴まれた。
心臓が跳ねる。
ゆっくりと淡雪ちゃんに視線を向けると、彼女は私に縋るような視線を向けていた。そんな視線、向けないでほしかった。
「あたし、負けたくない」
淡雪ちゃんは言った。
堅く口を閉ざしていた彼女の生々しい感情が、筋の目立つ唇から零れ落ちてくる。
「負けたくないよぉ」
幼児のようだ。
甘えるような、駄々を捏ねるような。
そんな声が私の鼓膜に纏わりつく。
「あたし、たしかにVTuberのことよくわかってない。この会社にどんなタレントがいるのかも正確には言えないし、タレント名だって本名をそのまま使ってる。簡単な仕事なんだって思ってた……でも……」
その先の言葉は音ではなく、涙となって溢れ返った。
意志薄弱な人間は、弱い。
それは他人の感情に流されてしまうからだ。
人間は受容性の高い生き物で、他者の感情を具に感じ取ることができる。感情は波で、周囲に発せられるそれは、他者の感情を強く揺らす。
その波に抗うには、強い意思の力が必要だ。
私には、淡雪ちゃんの感情の波に抗うだけの意志の強さがない。
強い感情を向けられると弱ってしまうし。
泣かれると絆されてしまう。
「負けたく、ないの。VTuberに、なりたい……………………愛されたい」
最後につけたされたその言葉が、きっと彼女のすべてだった。
愛されたい。
愛した男に身体だけ利用された彼女の、惨ましいほどに痛ましい、赤裸々な本音。
心臓が万力で締め上げられているのかと思った。
そう錯覚するほど、ゆっくりとじわじわとした痛みだった。
彼女に向ける視線に憐れみが混じってしまわないように、私は目を瞑る。するとそこには、一面の闇が広がっていた。それは瞬く間に私という存在を飲み込んで、淡雪ちゃんの感情の波に私を沈めた。
酸素を求めて、喘ぐように呼吸する。
目を開けても、淡雪ちゃんは潤む目で私を見つめて縋りついてくるだけ。
自業自得だ。
そう言って突き放すのは、たぶん簡単じゃなかった。そうしたかった私が、そうできなかったのだから。
人には心がある。
心は心と共鳴する。
だから、誰かを拒絶するのは自分を拒絶するのと同じくらい難しい。
「……わかった」
気が付いたら、私はそんなことを言っていた。
誰かを拒絶できるだけの強さを持たない私は、彼女を拒む堅固な意思を持たない。
小さく頷くと、首の関節が軋んだ。心の悲鳴だと思った。
その悲鳴を黙殺して、私は淡雪ちゃんの手を取る。縋る彼女の手を握り返す。
そこに私の自由意思はない。
ただ、波に揺られる草舟のごとき弱さが、私の身体を乗っ取って彼女を安心させようと手足を動かしていた。だから、彼女の安堵を誘うような笑みも、私の本心から出るものではなかった。
淡雪ちゃんは。
彼女は、ここでリタイアするべきだ。
妊娠した状態でデビューなんて無理に決まっている。荊木ちゃんが淡雪ちゃんに放ったその言葉には、私も根元から賛同できる。無理なものは無理だ。彼女にVTuberは務まらない。絶対に。
そんなこと、わかってる。
わかってるんだ、本当は……。
だけど。
身体は、心は、理屈では動かない。
「安心して。大丈夫。私に策がある」
あるいは、それは策と呼べるものでは到底なくて、ただのギャンブルかもしれないが。
この詰んだ局面からすべてをひっくり返すには、どうせ賭けに出るくらいの覚悟が必要だ。賭けてみよう。女は度胸もあってこそである。




