第9話 水辺の馬
そいつは、向こうから来た。
「あんたが、マーク・スキナーか」
ある夜、バシールの工房に戻ると、入り口の影に人が立っていた。
泥と汗にまみれた若い男。
日に焼けた肌。まっすぐにこちらを見る目。
心臓が跳ねた。
あの目の光り方を、俺は知っている。
2年前の俺が持っていた光だ。
「誰だ」
「カイです。この街の外れで、農地を作ろうとしています」
カイ。
スコップ1本で砂漠を耕しているという、あの男か。
「東区画の地下に、灌水システムの跡がありました」
カイは、俺が2年前に放棄した畑のデータを掲げた。
白く染まった土壌の記録。俺の失敗の、動かぬ証拠。
胸の奥が、冷たく締まった。
「あなたの農業管理の基礎データ、本当に凄いです。土壌が死んだ原因が塩害だってことも、これを見てすぐにわかりました。あなたが残した基礎があったから、俺は同じ間違いをせずに済んでる」
褒められている。
わかっている。だがその言葉の1つ1つが、俺の古傷の上を素手でなぞっていくようだった。
「嫌味のつもりか」
声が出た。自分でも驚くほど、冷たい声だった。
「帰れ。俺は失敗したんだ。二度と土に関わる気はない」
カイは動かなかった。
工房の天窓を指差した。
その先に、夜闇に白く浮かぶテウマの山々の頂が見える。
「あそこには雪がある。なら、このマ・カレシュの地下にも、巨大な水脈があるはずなんです」
「そんなことは俺も考えた!」
叫んでいた。
「山にも登った。そこでこの野生のリンゴも見つけた。だがな——」
俺は拳を握った。爪が掌に食い込む。
「深層をスキャンしようとしても、デバイスが50メートルまでしか見せてくれない。水がある証拠はこの木が生きていることだけだ。だが、それじゃデータにならない。誰も動かせないんだ」
カイの目が鋭くなった。
「フロを使って浅いところは調べました。でも見つからなかった。だから、あんたの知恵を貸してほしい」
「知恵? 知恵があっても掘れなきゃ意味がねえ」
「掘る手段は、この街にある」
「何?」
「バシール親方の鉄工技術。旧市街の鍛冶屋たち。それに、この街の終着駅に停まっている蒸気機関車。あの動力を使えば——」
「待て」
口に出した瞬間、自分の脳が勝手に動き始めていた。
レールを延長して東区画まで引き込む。
車輪の回転運動を垂直方向に変換する。
バシールに巨大な鉄のノミを打たせる。
衝撃式掘削。1分間に20回の落下で岩盤を砕く。
止まらなかった。
2年間、酒を造りながら、俺の頭の中でずっと回り続けていた設計が、カイの一言で堰を切ったように溢れ出していた。
「……クソ」
俺は頭を抱えた。
笑っていた。泣いていたかもしれない。
「お前、とんでもないことを言いやがる」
「フロを出せ」
俺はカイの左腕を掴んだ。
デバイスの滑らかな表面に、指先を添える。
あの夜。
屋台のカウンターで、ジャミーラが俺の手を取り、無言でこの配列を叩いてみせた。
指は覚えている。
トン、トトン、タタッ……。
デバイスが震えた。
フロの電子音がノイズに変わり、画面の奥で隠されていた階層が次々と開いていく。
『音声認識バイパス、確認。……管理者権限へ移行します』
空中に、巨大な青いワイヤーフレームのホログラムが展開された。
マ・カレシュの地下500メートルまでの完全な断面図。
俺は、画面の最深部を指差した。
「……見ろ。これがマ・カレシュの真実だ」
カイが息を呑んだ。
「巨大な地下湖……化石水か」
「ああ。何万年も前に閉じ込められた、無菌で純粋な古代の水だ。そしてここ——」
俺はホログラムの別のポイントをハイライトした。
「水脈のすぐ上に天然ガスの層がある。水と、動力源。両方ある。あとは、この岩盤をぶち抜く馬鹿がいればいい」
カイの目が光った。
「その馬鹿なら、ここにいます」
俺は笑った。
久しぶりに、腹の底から笑った。
1人になった工房で、クロエの鉢の前に腰を下ろした。
ただの木彫りのコップに水を注ぐ。
クロエの根元に、静かに流し込む。
「クロエ。今日、妙なやつが来た」
返事はない。枯れかけた葉が、夜風にかすかに揺れるだけだ。
「俺より馬鹿かもしれない。スコップ1本で砂漠を耕すような男だ」
水が赤い土に吸い込まれ、消えていく。
「だが、あいつの目は——」
言葉が途切れた。
あいつの目は、俺がアフリカで最後に見た、ハミドの目と同じだった。
土を信じている人間の目だ。
俺は木彫りのコップを両手で包み、額を押し当てた。




