第8話 黒髪の嬢ちゃんと、スコップの男
「マークの旦那、聞いたか?」
行きつけの屋台で、親父が火酒を美味そうに喉へ流し込みながら声を低くした。
「ここらの街じゃまずお目にかからない、見事な黒髪の嬢ちゃんが来てるんだ」
「黒髪?」
「ああ。街のあちこちの錆びた端末を叩いて、勝手にインフラを繋ぎ直してやがる。その合間に、うちの火酒を樽ごと買い漁っていくんだから、大した嬢ちゃんだよ」
黒髪。この街では珍しい。
地球から来た人間か。
それ以上は聞かなかった。
だが数週間後、その嬢ちゃん——カオルがマ・カレシュを去ったという噂が流れてきた時、俺は火酒のコップを握ったまま動けなくなった。
あいつも俺と同じだと思っていた。
放り込まれて、使い潰されて、最後は捨てられる側の人間だと。
違った。
あいつは教科書の正論を押し付けるのではなく、この街の泥臭い現実に合わせて、プロジェクトを成功させてみせたのだ。
俺にはできなかったことを。
コップの中の火酒が、いつもより苦かった。
カオルが去ってしばらくして、もう1人の異邦人が現れたと聞いた。
農業技術者。
スコップ1本で砂漠を耕している男。
「旦那と同じ匂いがする野郎っすよ」
屋台の親父がそう言った。
気になった。同じ領域の人間だ。
だが、足が動かない。
俺は酒造りの男だ。今さら土のことを——
考えている。
毎晩テウマの山を見上げるたびに、考えている。
認めたくないだけだ。
ある夜。
屋台のカウンターで1人、火酒を煽っていた。
「隣、いいかしら」
女の声がした。低く、落ち着いた声。
顔を上げると、深い藍色の布を肩に巻いた女がカウンターの端に腰を下ろしていた。
見覚えがあった。
城壁の影に感じた、あの気配。
「あんた、GECOの人間だろう」
女は一瞬、目を細めた。
「……元、ね」
「元?」
「あなたの監視任務が終わった後、
私の居場所もなくなったの」
俺はコップの縁を指でなぞった。
「あんたも捨てられた側か」
「ええ。監視員ごと切り捨てるのが、あの組織のやり方よ」
ジャミーラ——そう名乗った女は、カウンターに置かれた火酒のコップを手に取った。
一口含む。表情は変えない。
だが、喉が一度だけ大きく鳴った。
「悪くないわね。この酒」
「まずかったら出さない」
沈黙が落ちた。
屋台の油が弾ける音だけが聞こえる。
「あなたが造った灌水システム、見事だったわ」
「……監視していたんだろう。2年間」
「ええ。全部見ていた。あなたが設計図を描くところも、夜中にテウマの山へ登るところも。あの白い土の上で膝をついた朝も」
俺の手が、無意識にコップを強く握っていた。
「全部記録して、本部に送ったわけだ」
「そうよ。それが仕事だったから」
ジャミーラの声に、謝罪の色はなかった。
ただ事実を述べている。
だがその目——琥珀色の深く暗い目の奥に、俺と同じ種類の何かが沈んでいた。
怒りではない。諦めでもない。
信じていたものに裏切られた後に残る、あの鈍い痛み。
「1つだけ、教えておくわ」
ジャミーラはコップを置き、立ち上がった。
そして俺の横を通り過ぎる瞬間、俺の左手を取った。
手首の、デバイスの白い装着痕の上に、彼女の指先が触れた。
その指が、独特のリズムを刻んだ。
トン、トトン、タタッ……。
短く、明確な打音。
まるで暗号のような配列。
「なんだ、今のは」
ジャミーラは手を離し、背を向けた。
「いつか使う時が来るかもしれない」
それだけ言って、夜の路地に消えた。
俺はしばらくカウンターに座ったままだった。
あのリズムが、指先に残っている。
何に使うものなのか、わからない。
だが——
彼女が1口だけ飲んだコップと、俺の空のコップ。
2つが、カウンターの上で並んでいた。




