第7話 火(ファイヤ)
ミード酒は、旧市街の日常を変えた。
最初はバシールの工房の常連たちだけだった。
仕事終わりに、俺が仕込んだ琥珀色の酒を回し飲みする。
泥水しか知らなかった男たちの顔が、一口飲むたびに変わっていく。
「おい、マーク。今日の分はもうねえのか」
「明日も仕込んでるから待ってろ」
いつの間にか、工房の裏口に行列ができるようになった。
旧市街の屋台の親父が「うちでも出させてくれ」と頭を下げに来た。
対価は食糧と日用品。
金の代わりにミードが通貨として機能し始めていた。
職人たちの態度が変わった。
最初はゴミ溜めから拾ってきた浮浪者を見る目だったのが、今では俺が仕込み部屋に入ると自然に場所を空ける。
ルカなどは、発酵タンクの温度を触って確認する癖まで覚え始めていた。
まだ手つきは雑だが、覚えようとしている。
だが、俺は満足しなかった。
ミードは醸造酒だ。
アルコール度数は高くても15パーセント程度。
旨いが、この街の底辺で生きるための「武器」としては、まだ足りない。
「バシール。もう1つ、装置を作ってくれ」
「また何かイカれたものか?」
「蒸留器だ。ミードを加熱して、アルコールだけを蒸気で抽出し、冷やして凝縮する。度数が3倍以上に跳ね上がる」
「3倍だと?」
「密閉と冷却がすべてだ。親方の腕なら造れる」
バシールは図面を睨み、鼻から激しく息を抜いた。
だがその目はもう「イカれた奴」とは言っていなかった。
ミードの時に俺の図面が正しかったことを、この男は覚えている。
3日後。
工房の奥に、銅管を螺旋状に巻いた蒸留器が据え付けられた。
加熱用の炉。蒸気を導く銅管。冷却用の水槽。
すべてがバシールの手打ちだ。
螺旋の巻き方が均一で美しい。
鍛冶師としての矜持が、一巻き一巻きに刻まれていた。
俺はミードを炉にかけ、温度を慎重に管理した。
アルコールの沸点は水より低い。
78度。
その一線を越えた瞬間に蒸気が立ち上り始め、銅管の中を通って冷却され、管の先端から一滴、また一滴と、透明な液体が滴り落ちた。
工房の空気が変わった。
ミードの時とは違う、鋭い匂いが鼻腔を突く。
最初の一杯を、バシールに差し出した。
老鍛冶師は鼻を近づけ、一口含み——
全身が硬直した。
「……っ!」
目が見開かれる。顔が赤くなる。
喉から肺へ、腹の底まで、液体が焼けるように落ちていくのが、外から見てもわかった。
「なんだこれは」
バシールの声が掠れていた。
「蒸留酒だ。ミードの上位版だと思ってくれ」
「上位版だと? こいつは酒なんてもんじゃねえ」
バシールはコップを作業台に叩きつけた。
「火だ。腹の底から身体を焼き焦がす、本物の火だ」
火。
その一言が、そのまま名前になった。
蒸留酒『火』。
旧市街の裏社会を席巻するのに、1ヶ月もかからなかった。
俺はもう土のことは考えない——と、自分に言い聞かせる日々だった。
ミードを仕込み、火を蒸留し、裏社会の人脈を広げる。
屋台の親父に卸し、商人と交渉し、時には荒くれ者たちの揉め事を酒で丸く収める。
闇商人としての仮面は、日に日に深く、顔に張り付いていった。
だが。
毎晩、部屋に戻ると窓からテウマの山を見上げる習慣は、消えなかった。
あの山の下に、水がある。
この木が生きている限り、それは確かだ。
だが証明する手段がない。
クロエの鉢に、配給の水を分ける。
「お前だけが知ってるな、クロエ。俺がまだ、あの山のことを考えてるってことを」
苗木は答えない。
だが、黒く焦げた葉の先端に、新しい色が滲み始めているような気がした。




